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CASE:024-2 忘れられたものは

東京怪異捜査録 − 警視庁特対室CASE:XXX −

2-1. 忘れ物


 七月半ば。都立S井高校では、『ちぐはぐ』が続いていた。

 体育館の入口で、教師が首を傾げている。

「えーと……今日は、何の授業だったっけ?」

 生徒たちは互いの顔を見合わせた。体育館に集まれと言われて来たものの、種目の指示がない。バスケットボール? それとも柔軟? しかも全員、体育館シューズを忘れている。

「うわ、みんな靴下だ」

「お揃いって、逆にすごくない?」

 笑いが起こり、結局その日は全員でラジオ体操をして授業は終わった。「まぁ、健康的でいいか」という教師のひと言で、誰も本気で気に留めなかった。


 購買でも小さな騒動があった。昼休み、パンの棚に貼られた札が妙だ。「不明のフライバーガー」。首をかしげた美優がレジに持っていくと、購買のおばさんが苦笑した。

「魚だったと思うんだけどねぇ。白身? アジ? もう何年も売ってるのに、いざ聞かれると出てこないのよ」

「謎フライバーガー、って名前にしたら人気出そう」

 そう言うと、おばさんは笑っていたが、笑いながらもどこか釈然としない顔だった。


 ホームルーム中には、また別の妙な沈黙が生まれた。

「では次の連絡事項──」

 クラス委員が立ち上がり、言葉を切ったまま固まる。

「……あれ?」

 黒板を見ても、プリントを見ても、何も書かれていない。

「え、次なんだったっけ?」

「知らなーい」「ていうか、連絡ってそもそもあったっけ?」

 数秒の静寂のあと、誰かが笑い出す。笑いは連鎖して、何となくいつもの空気に戻った。けれど、美優は少しだけ引っかかっていた。忘れること自体は誰にでもある。しかし、こうも全員で同じことを忘れるだろうか。まるで、世界の中から情報が一粒ずつ抜け落ちていくみたいだった。


 放課後。部室棟の階段を降りながら、美優は鞄の中を探った。シャーペン、ノート、財布──全部ある。でも、何かが足りないような気がする。具体的に何が、とは言えない。心のどこかがすかすかしている。

(寝不足のせいかな……)

 自分でそう結論づけると、少し気が楽になった。

 駅までの道で、クラスメイトの久保田が駆け寄ってきた。

「南雲ー! 家庭科のレポート、出したっけ?」

「え、知らない。ていうか、そんなのあった?」

「……あれ?」

 久保田は口を開けたまま止まり、首を振った。

「だよな。俺も覚えてないんだ。出したような気もするけど、プリントがどこにもなくて」

「幻の課題、ってやつだね」

「マジでそれ。……ま、いっか」

 互いに笑い合い、そのまま改札へと別れた。軽口で済ませられるくらいには、まだ平和な違和感。


 夜。美優が自室の机に向かうと、日記帳が開いたままだった。彼女がページをめくると、数日前の穴がまた少し広がっている。破れた跡の形が、どうにも文字の並びを思わせる。けれど、読むことはできない。気にし過ぎても仕方ないと、いつものようにペンを取る。書く内容は他愛もない。「購買で謎バーガー」「体育の先生、授業忘れる」「みんな元気」──。

 それから、少し手を止めて考えた。最近、夢を見ることが多い。妙にリアルで、変に具体的。思い出せる範囲で書いておこう。


 ──夜の学校。職員室に自分がいて、机の上のノートを開いている。蛍光灯の明かりが薄暗く、誰もいない。なぜかそのページをじっと見つめている。文字の並びが波打つようにゆれて、指先で触れると、黒いインクが粉になって消える。音はしない。ただ、かすかに紙の香り。その匂いが心地よくて、少しだけ笑う。

 ──そして場面が切り替わる。校門を抜けて、夜風にあたる。歩いて、家に着く。靴を脱ぎ、ベッドに潜り込む。その瞬間に目が覚めた。時計は午前四時を指していた。寝汗をかいていたが、心臓は妙に落ち着いていた。「変な夢……」、呟いて、天井を見上げる。夢にしては、帰ってくるまでの道順まで鮮明だった。


 ──夢だよね? 美優は自身に問いかけるが、答えは出ないまま眠気が襲ってきた。

「──あ、やば」

 日記帳を閉じると美優は鞄の中の家庭科の教科書を思い出した。提出しなければいけないレポートかあるらしい、でもやっぱり入ってない。美優は肩をすくめ、「まぁ、いっか」と小さく呟いてベッドに倒れ込んだ。



2-2. 穴の報告書


 午後四時、特異事案対策室。地下の薄暗い部屋に、スキャナーの駆動音が静かに響いていた。美優のデスクに積まれた古びた紙束。どれも黄ばんで、端が丸まり、インクが薄くなっている。美優の今日の雑務は紙媒体でしか残っていない時代の報告書をデータベースに入力して電子化すること。正直、美優にとっては退屈な作業だった。

「雑用、雑用、また雑用と……」

 書類をめくるたびに、紙がパリパリと音を立てる。報告書の書式も今とは違い、手書きの文字がほとんどだ。事件番号、日付、担当者、現場の簡易スケッチ──。薄墨で描かれた地図の上に、誰かのボールペン跡が走っている。

(この字、昔の人の字って感じ……)

 癖の強い達筆を目で追いながら、美優はキーボードを叩いた。


 ──T−1978−03 工場跡における未確認影現象。なんだか地味なタイトルだな。美優はそんなことを思いながら入力を終え、次の報告書へ進もうとしたとき、ふと気づいた。

「……ん?」

 紙面の一部、中央付近が薄く透けて文字が読めなくなっている。光にかざすと丸い穴がいくつも開いている。まるで虫が食ったようだが、表面は滑らかで、破れ跡とは違う。インクが滲んで薄くなり、周囲の文字もかすれている。

「古い紙ってこうなるんだ……」

 スキャナーに載せても当然、OCR認識は通らない。

「透真先輩ー、ちょっとこれ見てください」

 声をかけると、隣のデスクで事案の情報をまとめていた透真が顔を上げた。美優の持つ紙を受け取り、光の下でかざす。

「……穴だな」

「いや、それは見れば分かりますって。なんか変じゃないですか? 焦げてるとか、劣化とかでもなくて」

「いや、それよりも案件番号は見覚えがあるが──おかしいな。内容が思い出せない」

 そこへ、後ろから声がした。

「よっ、古代の発掘現場はどうだ? いいねぇ、いにしえの紙の匂い。透真、あの事案どうなった?」

 振り向くと、蜘手が缶コーヒーを片手に立っていた。

「……あの事案、ですか?」

「ほら、お前が単独で追ってるやつだよ。ほら、なんだっけ。印刷工場跡の」

「ああ、あれですね」

 透真は自分のノートを開く。次の瞬間、彼の表情が固まった。ノートの中央が、ぽっかりと丸く抜けていた。そこに何が書かれていたのか、まったく思い出せない。

「おいおい、なんだよお前らしくねぇな」

 蜘手が苦笑しながら頭をかき、軽口を叩くような調子で言葉を継いだ。

「……そういやさ、こんな都市伝説があったの思い出した」

 室内の空気がわずかに変わる。

 蜘手はコーヒーを啜りながら、声を落とした。


「寝てる間にな、耳から虫が入ってくるってやつ。

 脳みそをちょっとずつ齧りながら中で卵を産んで、

 ある朝、耳からぞろぞろ小虫が出てくる。

 その時、自分の記憶がごっそりなくなってんだってさ」


「……」

 美優は苦笑しながらも、内心ではぞわりとした。

(特対室的には全然笑えない話なんだけど)


「でも、最近ほんとに物忘れ多くないですか?」

 ふと、美優が口を開く。

「私もそうですけど、クラスの子たちも。ノートに書いたことを次の日忘れてたり、提出物の期限すらそんなの聞いてないって言う子、多くて」

「へぇ……」

 蜘手がにやりと笑う。

「美優くん? まさか夢遊病とかで、知らないうちに人のノートとか記憶とか分解してない? 分解って、そういうこともできるの?」

「してません!」

 即答する美優に、蜘手は愉快そうに肩を揺らした。

「いやぁ、だったら仕事とか宿題勝手に消してくれる夢遊病、俺も欲しいね」

(……ほんとそれ)

 心の中で美優は小さく同意する。


 その時、久世(くぜ)灯里(あかり)が穏やかな声で口を挟んだ。

「そういえば美優ちゃん、一昨日の深夜にS井公園の近くを歩いてなかった?」

「え? 深夜ですか?」

「そう。制服姿で、ちょっとぼんやりしていたの。人違いかもと思ったけれど、後ろ姿がそっくりだったわ。声をかけようとしたら、見失ってしまって」

「……知らないです。──と思う」

 頭の奥が、ふっと熱くなった。霞がかかるような感覚。何かが記憶の奥を掻き回している。思い出そうとするほど、遠のいていく。その様子を見た透真が静かに言う。

「念のため、久世さんのカウンセリングを受けておけ」

「え、そんな大げさな……」

「念のためだ。君が悪いとかではなく、もし睡眠のリズムが崩れてるなら放っておくと疲れが溜まる」

 灯里は柔らかく微笑んだ。

「疲れが溜まると、記憶の整理もうまくいかなくなるから」

「……はい」


 頭上に掲げた報告書の穴から漏れる光が、かすかに瞬いたように見えた。そして、美優の胸の奥に、かすかな不安が残った。──自分の中の何かが、誰かの記憶を削っているのかもしれない。



2-3. 銀の跡


 朝の特異事案対策室、空調の風が紙束をかすかにめくる。いつもと変わらない静けさ。──少なくとも、見た目は。出勤した透真は、デスク脇のプリンターに手を伸ばした。出力トレイに、昨夜誰かが印刷して放置した紙が数枚。「誰のだ?」と呟きながら手に取ると、紙面の中央に奇妙な跡があった。

 淡く鈍い銀色。指で角度を変えると、かすかに光を返す。印刷ムラにしては線が細すぎ、機械由来の汚れにしては不規則すぎる。透真はそれに何か細いものが這ったような印象を受け、眉をひそめた。粒がわずかに浮き上がり、銀砂のような手触りがある。試しに指でなぞると、粉のようなものがついた。親指と人差し指をこすり合わせると、ざらりとした感触。


「何してるんだ、透真」

 背後から、低く響く声。振り向くと、雷蔵が湯気の立つマグカップを片手に立っていた。

「プリンターの調子でも悪いのか?」

「いえ、そうではありません。……これを見てください」

 透真は紙を差し出す。雷蔵はそれを受け取り、目を細めた。

「印刷のムラじゃねえか? ほら、最近この機械、ドラムが劣化してるってお前自身言ってたじゃねぇか」

「それなら、もっと規則的になるはずです。ですが──」

 透真は指でその跡をなぞる。蛇行するように、紙の上を走る銀線。

端から端へ、波打つように連なっている。

「ムラにしては妙に……生物的です」

「生物的?」

「何かが通った。そんな印象です」

「お前、相変わらず細けぇな」

 雷蔵は苦笑し、カップの縁を軽く叩く。

「ま、あとであのネズ公でも洗っとけ。あいつの足跡かもしれんぞ」

「ネズミの、ですか?」

「ああ。プリンターの上で寝てるのをこの前見た」

「なるほど……」

 透真は納得したように頷いたが、視線は依然として跡に釘付けだった。

 ──気のせい、か。深呼吸して再びプリンターの方を振り返る。トレイの下に、もう一枚紙が隠れていた。取り出してみると、白紙の中央に、ごく細い線。今度は銀ではなく、灰白色の、擦れたような筋。透真は一瞬、指を止めた。まるで、誰かがそこを通り抜けた痕のように思えた。


 その晩。

「なんか腹の調子悪ぃな。便所でも行くか」

 夜勤の蜘手が席を立ち、無人となった特対室に白い影が動いた。その影の主である豆大福は、机の上に散らばった書類をすんすんと嗅ぎ始める。そして紙を齧ろうと口を開け──ドアが突然開いた。

「スマホ忘れちまった、と。ん? ネズミ、何やってんだ?」

 蜘手が豆大福を見つけると、豆大福はぷいと顔を横に向け、軽やかに机から飛び降りると棚の隙間に走り去ってしまった。

「なんだ? 変な野郎だぜ」


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