CASE:024-1 忘れられたものは
東京怪異捜査録 − 警視庁特対室CASE:XXX −
1-1. 物忘れ
昼休み終了のチャイムが鳴り終えたあとも、教室の空気はざわついたままだった。都立S井高校、南雲美優のクラス。蛍光灯の灯りが梅雨明け間際の湿り気で、鈍く澱んでいるように感じられる。
美優は机の端に肘をつき、ぼんやりとシャープペンをいじっていた。窓の外では、曇り空の下で風が生ぬるく校庭を撫でている。どのクラスだろうか、サッカーボールの跳ねる音。そんな、何の変哲もない日常の一部。
「南雲、何か君に頼んでいたような気がするんだけれど……なんだったかな──」
教室に入ってきた担任の山口が、プリントの束を片手に言った。ふっと、教室のざわめきがわずかに静まる。美優は顔を上げ、回していたシャープペンを止めた。
「え? 頼まれた、ですか?」
教師は困ったように笑い、こめかみを掻いた。
「そうそう、何かを頼んだ気がしてね。……なんだったかなぁ」
結局そのまま授業が始まり、話は霧散した。だが、美優の頭の中だけに、もやが残った。
頼まれた──気がする。けれど、その内容がまるで思い出せない。記憶の中でぼんやりと、誰かと話した光景だけが残り、声も言葉も、形を持たない。放課後になっても、その感覚だけが抜けなかった。机を拭く音、椅子を引く音、みんなの会話。すべてがガラス窓の向こうにあるように感じる。隣の席では、クラスメイトがスマートフォンを覗き込みながら笑っている。自分だけが取り残されているような、微妙な浮遊感。
「ま、いっか」
小さく呟いた。けれど口に出しても、音が空気に溶けて消えただけだった。
帰りのHRの際もずっと、美優は考えていた。──頼まれたような、頼まれてないような。自分だけ、流れから置き去りにされたようなむず痒さ。隣の席ではクラスメイトの女子二人が、スマートフォンを見ながら笑っている。笑い声の粒を、美優の周囲を包む透明なガラスが遮っているように感じられた。
「ま、いっか」
声に出してみたけれど、笑いにはならなかった。その言葉が教室の空気に沈んで、すぐに溶けていく。
夜。美優は自室の机の上で、くしゃくしゃになったメモ用紙を見付けた。書いた覚えのあるような走り書き──だが、中央が破れていて肝心な部分が読めない。照明の下で傾けると、破れの縁が薄く銀色に光った。指で触れると、粉のようなものがついた。
「なにこれ……ホコリ? それとも、カビ?」
紙の穴を覗き込む。一瞬、そこに白と灰のチェッカーパターンのようなものが見えた──気がした。瞬きをしてもう一度見ると、ただの穴。
「気のせい……だよね」
独り言は、夜の湿気に吸われていった。
メモを指先でたぐりながら、書いた内容を思い出そうとする。が、思考の歯車が空回りするような感覚。喉の奥に、言葉にならない違和感が引っかかる。
──なんで、これを書いたんだっけ。どんな理由で。誰のために。思い出せない。ただ、思い出せないという事実だけが、もやもやと腹の底に沈んでいく。
「……地味に腹立つなぁ」
小さく呟いて、丸めたメモをゴミ箱に投げた。──ぽすん。紙の音がやけに柔らかく響いた気がした。机の上には、冷めた紅茶のマグカップ。カーテンの隙間から漏れる夜の闇が照明と混ざりぼやけている。その静けさのなかで、美優は椅子の背にもたれて伸びをする。肩がこきりと鳴る。
「……もう、寝よ」
深く考えても仕方がない。くしゃくしゃになっていたくらいだから、たいしたことじゃないのだろう。そう自分に言い聞かせ、ベッドに身を投げた。
天井の木目を見ながら、まぶたを閉じる。──その瞬間、ふっと脳裏のどこかで音がした。ざらり、と紙をなぞるような。あるいは、誰かが指でページをめくるような。寝入りばなに聞こえる、耳鳴りにも似た音。それが部屋のどこから来ているのかは分からない。美優はぼんやりとしながら、タオルケットを引き寄せた。
その夜、夢を見た。何の夢を見たのかは覚えていなかった。時計の針は午前四時を指している。外はまだ青い闇。最近、こういう事がよくある。疲れているのだろうか、寝不足が慢性的になっている。美優は寝返りを打ちもう一度眠ろうとしたが、枕元のノートのページがかすかに開いているのが視界の端に入った。
風、ではない。カーテンは揺れていない。そのページの余白に、何か書かれているような気がして体を起こしかけたが、眠気が勝った。
──翌朝、そのページの中央に小さな丸い穴がひとつ空いていた。
1-2. 穴
翌朝。電車の窓に映る自分の顔を眺めながら、美優はあくびを噛み殺した。寝不足が続いている。理由はない。ただ、最近変な夢を見るようになった気がする。スマートフォンを確認すると、特対室のグループチャットには葦名透真からのメッセージ。
『南雲、古い報告書のデータ入力を頼む』
(また雑用かよ)
ぼやきながらスマートフォンを鞄に戻す。窓の外では屋根瓦に光を反射させながら、住宅街がゆっくり後ろへ流れていく。そんな日常の中に、ほんの少しだけ引っかかる感覚があった。
晩、自室で机の上にノートとペンを出し、美優は日課の日記を書き始めた。特対室に入ってから、蜘手創次郎に「記録を残す練習がてら、日記でもつけてみたら?」と言われて続けている習慣だ。三日坊主がちな美優にしては、妙に続いている。事件のことはもちろん、ダジャレがしつこかった、今日も空のコーヒー缶を握りつぶしていた、一時間にメガネを十二回押し上げていた、紅茶に花を浮かべていた──特対室の皆のどうでもいい日常も書いている。人間観察メモと称して、誰に見せるでもなく。
──事実は小説より奇なり、ってやつ? まぁ、将来これを小説にでもしたら、印税で老後の生活のささやかな足しくらいにはなるかもね。そう思ってにやりと笑い、ページの上に日付を書く。
書き始めてすぐ、ふと手が止まった。何となく、過去の日記を読み返したくなったのだ。めくっていくと──ページの途中に、指先ほどの小さな穴があいていた。ボールペンの線が途中で途切れ、文がちぎれている。
「……え?」
美優は眉を寄せ、顔を近づけた。破り跡ではない。何かが丸く抜け落ちている。
「穴開くほど強く書いたっけ?」
冗談めかして言ったが、思いのほか笑えなかった。しかも、穴の部分に何が書いてあったのかが、まるで思い出せない。読み返しても前後の文が繋がらず、意味が取れない。──なんだこれ。まるで、書いた内容ごと忘れたみたい。美優はスマートフォンで写真を撮ろうとしたが、「やめた、こんなもの撮ってもしょうがない」と思い直した。
「まぁいっか……」
そう呟き彼女はペンを持ち直したが、何となく集中できない。書いては消して、また書いて──いつのまにか文字が歪んでいた。
翌日、美優のクラスではちょっとした騒ぎが起きていた。
「ねぇ、掲示板のプリント見た? 持ち物の欄、途中で消えてるんだけど」
「持ち物? あー……なんだったっけ」
誰も答えられない。掲示板の紙には、確かに「持ち物:」の右側にぽっかりと小さな穴があいている。笑いながらスマートフォンで撮っている子もいた。
「風で破れたんじゃない?」
「いや、ここだけ綺麗に丸いの変じゃない?」
そんなやりとりを眺めながら、美優はちょっとだけ眉をひそめた。
昼休み、トイレ掃除の当番が誰か分からず、廊下で先生が困っていた。当番表の該当欄にも、やはり丸い穴が空いている。
「まぁ、みんなでやればいいか」
笑い話になって済む程度の出来事。でも、美優はどうにも気になる。
帰りの図書室で、貸出カードを見た委員の女子が言った。
「この本、誰が借りたんだろ。名前のところだけ欠けてる」
「カード汚れてるだけじゃないの?」
「うーん、でも借りる人なんか決まってるし、いつもなら思い出せるのに」
美優は小さく笑って言った。
「物忘れ、流行ってるね」
「期末前の現実逃避かな」
二人でくすっと笑い合う。──その瞬間だけ、ほんの少し安心した。自分だけじゃないんだ、と。
夜。机の上に日記帳を広げて、今日の出来事を記す。「みんな忘れる」──まるで子供の都市伝説みたいな話だ。でも、実際に起きている。
過去のページを開き触ると、穴が少し広がっている気がした。思い込みだろう、そう思ってペンを置く。眠気がじわりと体を包み込む。
──夢を見た。夜の学校。美優は廊下を懐中電灯で照らしながら、足音を立てないように歩いていた。職員室のドアを開ける。中には誰もいない。机の上に開かれたノート。教師の字だ。授業のメモらしい。それを手に取り、ページを指でなぞる。──ぱらり。文字が砂のように崩れて消えた。触れた指先に、あの銀色の粉がついている。不思議と罪悪感はなかった。
「……きれい」
そう呟いて、そっとノートを閉じた。そのまま歩き出し、昇降口を抜け、夜風に当たる。気づけば自宅の玄関。靴を脱ぎ、ベッドに体を倒した瞬間──目が覚めた。
時計を見る。午前四時。カーテンの隙間から、夜明け前の薄い青色が差し込んでいる。
「変な夢……」
寝返りを打つと、手のひらの上に微かに光る粒子がひとつ。眠気のせいか、粉か、夢の続きか。分からないまま、まぶたを閉じた。
1-3. 白鼠
深夜一時過ぎ。特異事案対策室の照明は落とされていた。PCのパイロットLEDだけがかすかに瞬いている。夜勤は透真と轟雷蔵。普段ならば透真が書類を整理し、雷蔵が「何も起きねぇ夜が一番だ」と呟きながらコーヒーを淹れている──そんな光景が見られるはずであった。しかし今晩は、軽微ながらも特異事案発生により二人とも出動している。
誰もいないはずの暗い部屋に、微かな物音が響く。──パタ、パタ。白い影が床を横切った。豆大福。美優がそう勝手に名づけた、白鼠の式神だ。本鼠いわく──いや、美優の勝手な脳内変換通訳によると特対室の環境整備係。いつもは隅っこで寝ているか、デスクの上で何かを齧っている。だが今夜の動きは少し違っていた。
小さな足音を立てながら、豆大福は書類棚の取っ手に飛びつき、器用な動きで咥えていたロープを絡ませる。ロープを力いっぱい引っ張ると、下段の引き出しが少しだけ開いた。中には整理済みの報告書の束。豆大福は鼻をひくひくと動かし、その隙間に頭を突っ込んだ。紙の擦れる音。尻尾を立て、器用に前足でページをめくるようにして、何枚かを抜き出す。ページの端に口を寄せ、ほんの一口だけ──齧った。
微細な粉がふわりと舞う。豆大福は鼻先でその粉を吸い込み、満足げに目を細めた。引き出しの中で、報告書の一部が微かに波打つ。噛まれた箇所はまるで焼けたように丸く欠け、活字が途切れている。まるで最初からそこには何も書かれていなかったかのように。豆大福は尾をゆらし、書類を整えるように前足でトントンと叩く。そして満足したのか、引き出しを器用に閉じると、机の上に跳び上がった。
机の上には、美優が置いていった紙袋が一つ。コンビニのレシートと、折りたたまれたメモ用紙が見える。豆大福は袋の縁をくんくんと嗅ぎ、紙片を一枚くわえた。しばらく考えるように止まり──もぐ、と一口。
かすかに紙の裂ける音。机の上に落ちた粉が、LEDのかすかな光を受けている。その瞬間、モニターのスタンバイが解け、唐突点いた。誰も触っていないのに、画面がひとりでに明るむ。ログイン画面。ユーザー名の欄に、ゆっくりと一文字ずつ入力されていく。
──N A G U M O
豆大福がキーボードの上を歩いていた。その小さな足跡が、ほんの一瞬だけ文字列を形づくる。デスクトップ画面が立ち上がり、モニターのまぶしい光に目を細め、豆大福はぴたりと動きを止める。
その足元のレシートが、小さく破れていた。豆大福はそれをそっと押さえるようにして丸まり、目を閉じた。静まり返った室内に、機器の冷却ファンの音だけが響いていた。
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