CASE:023-3 白独りの巫女
東京怪異捜査録 − 警視庁特対室CASE:XXX −
3-1. 舞
夕刻、山を包んでいた霧はゆるやかに溶けていった。渡る風は、かすかに香を運んでくる。焚きしめられた榊と杉の香り。湿った土と焦げた藁の匂いが混じり、胸の奥を少し熱くした。
廃神社の遷座先、祭りが行われるふもとの古社。長い石段の上に、黒ずんだ石の鳥居。苔むした社殿の屋根はわずかに傾き、板壁には風が通る隙間がある。それでも、灯籠には新しい紙垂が掛けられ、境内の中央には清めの水桶が置かれていた。この夜のためだけに、すべてが整えられていた。太鼓の音が一度、低く響いた。祭りが始まる。
参列する住民は七十名近く。みな白い布で頭を覆い、手に蝋燭を持っている。その光がひとつ、またひとつと灯り、境内に小さな星座を作っていった。篝火が焚かれ、炎が揺らめくたび、社の影が生きもののように脈打つ。
雷蔵は境内の端に立ち、目を細めた。
「……思ってたよりは立派なもんだな」
「ええ。山の神と巫女を忘れないようにって」
灯里は穏やかに答える。彼女の声も仕草も、この光景の一部のように溶け込んでいった。やがて、神職が神饌を捧げる。米、塩、水、そして一輪の白い花。花弁が火に照らされ、淡く光る。その隣に、巫女装束の少女が進み出た。年の頃は十七、八だろうか、まだ幼さが残る顔立ちだ。
笛の音が始まる。ひと息ごとに、空気が変わる。湿った夜気が澄み、炎が細く伸びる。少女は一歩、また一歩と前に出た。白衣の袖がゆるやかに揺れ、裾が地を撫でる。彼女の動きはたどたどしくも真剣で、そのたびに風がわずかに吹き、蛾の群れが舞い上がった。白い翅が光に照らされて、空中に模様を描く。渦のような、花のような、あるいは人の顔のようにも見える。村人たちは誰も声を上げず、ただ息をひそめて見守っていた。灯里はその中央で、そっと胸に手を当てた。
「……きれい」
彼女の唇から零れたその言葉は、祈りにも似ていた。太鼓が再び鳴る。少女の舞が激しくなり、袖が火の光をはね返す。雷蔵は思わず息を呑んだ。
「なかなかのもんだな」
「ええ。まるで──」
灯里の声が途切れた。
彼女の瞳が、炎の向こうを見つめている。そこに、もうひとりの影が立っていた。白い衣。長い髪。けれど輪郭はぼやけ、風とともに揺らいでいる。『幻』──そうとしか言えない姿。
灯里は瞬きを忘れた。幻の巫女は、舞う少女の動きに合わせて同じ所作を繰り返している。袖が広がるたび、蛾の群れがその手元へ吸い込まれていく。光の粒が舞い、火と風が一瞬だけ反転したように見えた。
「どうした」
灯里の様子に気づいた雷蔵が、小声で問う。灯里は目を離さずに答えた。
「……誰かが一緒に、舞ってる気がする」
「誰もいねぇよ。光の錯覚だろ」
「ええ……そう、かも」
言葉はそうだったが、胸の奥に残るざらつきは消えなかった。炎が高くなり、祭りの音が最高潮に達した。太鼓、笛、祈祷の声、そして蛾の翅音。すべてが重なり、夜空を震わせる。少女は舞の最後に両手を空へと掲げた。その姿はまるで光そのものを抱きしめるようだった。
篝火の中で、蛾の群れが円を描き始める。ひとつ、またひとつと火に落ち、煙となって消える。それは痛ましいはずなのに、美しいと思ってしまう。灯里の瞳が湿り、口元に微笑が浮かぶ。
「供養……きっと、巫女も慰められるわね」
「そうだといいがな」
雷蔵の声は淡々としていたが、その眉間にはしわを寄せていた。
やがて太鼓が止み、笛の音が途切れた。少女が深く頭を垂れ、ゆっくりと退く。境内には、まだ翅音が残っている。白い翅がひらひらと落ち、石畳の上に散る。それを見た誰もが、まるで花びらを見送るような目をしていた。
「……これで、山も鎮まります」
老女が静かに言い、手を合わせた。雷蔵も合わせて黙祷をする。灯里が空を見上げると、星がひとつだけ瞬き揺れている。その星の下で、蛾の群れがまだ漂っていた。
灯里には、その中心に立つ白い影が見えていた。微笑んでいるようで、泣いているような顔。風が吹くと、それはすぐに崩れ、蛾の粉になって散った。彼女は目を閉じ、深く頭を下げた。供養が終わった──けれど、夜風の底に潜むわずかな温度の変化を、灯里は感じ取っていた。
──何かが、動いた。
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