CASE:022-2 八尺様
東京怪異捜査録 − 警視庁特対室CASE:XXX −
2-1. 封解
特異事案対策室の机には、厚いファイルとプリントが散乱していた。光が紙面を照らし、並んだ活字はどれも頼りないほど薄く見える。だが、その一枚一枚が、現実を揺るがす証拠になり得る。
「原典の八尺様では最終的に塞の神が破損し、そこから解き放たれたことが示唆されています」
葦名透真が淡々と読み上げる。
「もちろん真偽は不明で、出所も曖昧です。ただ、もしこれが本当に怪異化しているなら──解き放たれた八尺様が八王子に現れ、さらに南雲を魅入って、ここまで追ってきた可能性も否定できません」
紙面から目を離した透真は、眉根を寄せたまま黙り込む。
蜘手が語った美優の記憶──白い鍔広帽子、黒髪、白いワンピース、異様なまでの長身。かすかな違和感──透真は眉をひそめた。
そんな重苦しい空気を切り裂くように、美優が手を挙げた。
「じゃあ、いっそ私を囮にして……雷蔵さんがバーンとやっつけちゃえばどうですか?」
冗談めかした口ぶりだったが、その瞳の奥には怯えと苛立ちが滲んでいた。雷蔵は眉間に深い皺を刻み、低い声を返した。
「ダメだ。この手の怪異には大抵ルールがある。無理に叩けば、想定外の変質をすることがある」
彼は拳を机に置き、低く唸る。
「姦姦蛇螺の件、覚えてるだろ? あれは山ん中だったから、まだマシだった。こんな街中で妙な変質でもされてみろ……取り返しがつかねえ。やるにしても、どうしようもなくなった時の最終手段だ」
沈黙。雷蔵の言葉が、机の上のファイルの山よりも重くのしかかる。その間を縫うように、久世灯里が静かに口を開いた。
「原典では塞の神に封じられていた……そう書かれているのよね。もしかしたら、祓うことをしない理由があったのかもしれないわ。例えば、八尺様がいることにより、他の厄災が寄り付かない」
彼女の声は穏やかだが、含むものは冷たい。
「もしくは完全に消すのではなく、ある程度の自由を残し封じること。『それ自体がルール』だった可能性もあるわね」
結論は出ない。対処法が不明のまま、今夜を迎えるほかになかった。
夜。美優は灯里の自宅に泊まることになった。他のメンバーも交代で監視と記録を行うため、全員が泊まり込みとなる。都市伝説の原典に則り、室内の窓は新聞紙で目張りされた。式神を通して室長から渡された結界符が壁に貼られ、四隅には盛り塩。屋外には監視カメラが設置され、レンズは静かに夜を見張っている。
準備が整った部屋は、息苦しいほどに静まり返っていた。蛍光灯を落とすと、狭い空間に漂うのは少し湿り気を含んだ塩と新聞紙の匂い。美優は布団に入ったが、瞼を閉じても心臓の鼓動ばかりが耳を叩く。
──ぽ……ぽ、ぽ……。
どこからともなく、その声が忍び込んできた。耳の奥で、湿った囁きが繰り返される。布団を握る指が冷え、背筋を氷が這う。美優が窓に視線を向けると、新聞紙越しに薄く影が揺らいだ。異様に背の高い影が、ゆっくりと窓の外に立っていた。
ノイズに乱れる監視モニターが、異常の始まりを告げていた。
2-2. 声魘
午前二時を過ぎた灯里の家は、押し込められた静けさに支配されていた。新聞紙で覆われた窓の向こうは真闇。盛り塩の匂いと紙の湿気が、じわじわと肌に張りついてくる。布団の中で美優は浅い呼吸を繰り返していた。瞼を閉じれば閉じるほど、耳の奥に不穏なざわめきが忍び込んでくる。
「……美優ちゃん、起きてる?」
囁くような灯里の声。すぐ傍にいるような柔らかさ。思わず顔を上げかけた瞬間──違和感に全身の毛が逆立った。その声は微妙に間延びし、空気の底で軋むように震えていたのだ。
「……みゆ……ちゃ……ん」
再び響いたそれは、確かに灯里の声色を帯びながら、どこかテープが伸びたように歪んでいる。
続いて、雷蔵の低い声が響く。
「おい、美優……開けろ……」
だが、その低音も途中から割れ、電子音のように引き延ばされていく。美優は布団を頭まで引き上げ、耳を塞いだ。だが声は遮れない。耳ではなく、頭蓋の内側を直接叩くように響いてくる。
──そして。
「どうして……置いていったの」
聞き慣れた女性の声。亡き母のもの。
さらに幼い子の声が重なる。
弟。もういないはずの。
「お姉ちゃん……どうして」
「どうして」
その声が脳裏を抉った瞬間、光景が逆流する。
──山の夜道。霧。伸ばした指先が、弟の袖に触れて、するりと抜け落ちた。
湿った音。鼻を刺す鉄の匂い。
声を上げようとした喉からは、空気しか出なかった。
「どうして助けてくれなかったの」
「どうして」
「ド──ウシ──テ」
最初は確かに母と弟の声だった。だが次第に伸び、壊れたラジカセから流れる古いカセットテープのように、掠れ、歪み、途切れながらも、執拗に美優を責め立てる。
美優は耳を塞ぎ、布団の中で小さくうずくまった。
「やめて……やめてよ……!」
返事はない。ただ、声だけが執拗に寄せてくる。
屋外に設置した監視カメラの映像には、はっきりとした異常は映っていなかった。ただ、ノイズが周期的に走り、白黒の揺らぎが画面に滲む。それ以上はわからない。
「……来たな」
モニターを睨む雷蔵が低く呟く。
「外を確認します」
透真はすぐに立ち上がり、外に回り込んだ。夜気の冷たさが肌を刺す。息を殺し身を潜め、『透視』を発動させる。
視界が裏返り、塀の向こう、闇の層が剥がれる。
そこに──いた。
白の鍔広帽子。黒い髪が垂れ、風もないのに微かに揺れている。白いワンピースが垂れ下がり、裾が微かに揺らめいている。異様に高い背丈。確かに聞いた通りの姿──だが、やはり違和感は拭えなかった。
(これは──)
視えているのに、そこに「在る」という実感が希薄。像は定まっているのに、質量を伴わない。紙に描かれた影が無理やり立体になったような、不自然な存在感。
その夜は結局、決定打を得られなかった。声は美優にだけ降りかかり、映像にはノイズしか残らない。強いて言えば、八尺様は『透視』で観察する透真に一切興味を示さない。それだけが奇妙に思えた。
2-3. 検証
そして翌晩。封印、祓いの手がかりを掴む為、さらなる検証が始まった。窓の新聞紙は湿気を吸ってさらに波打ち、古びた畳はじっとりと冷えていた。
ぽ……ぽ……。
声がだんだんと近づいてくる。美優は布団に身を潜め、耳栓を押し込む。だが──声は消えない。頭蓋の内側から、直接響いてくる。ぽ……ぽ……。四方の壁を叩くように、反響しては戻ってくる。
部屋の外には三本の線が引かれている。一本は無印、二本目は塩、三本目は符。透真が透視で観察するなか、近づいてくる白い裾は最初の線を易々と踏み越え、二本目でじわりと滲み、三本目の前で揺れ──再び形を取り戻した。
(単独では効果が薄いな。しかし、やはり俺には興味を示さない。執着が強すぎるのか、それとも──見えていないのか)
インカムから灯里の声が飛ぶ。
「呼んでみて。──まずはお嬢さん、次は背高女。最後に八尺様」
美優は恐る恐る唇を動かす。「お嬢さん」「背高女」。何も起こらない。「八尺様」──壁際の新聞紙がかすかに震え、ぱさりと音を立てた。名に反応する。名が釘になり得る。
次は白布。窓際に即席の美優のシルエットを貼り出す。
「囮に反応するか確かめて」
影は一歩、そこへ寄り──すぐ戻った。形だけでは長くは引き寄せられない。
「美優ちゃん、体の向きを変えて」
美優はゆっくり身体の向きを変える。左へ半身、右へ。そのたび新聞紙が薄く鳴き、影は必ず正面へ回り込もうとする。向きを追従するように、湿り気が一帯だけ濃くなる。
「次、顔はそのまま。鏡で視線だけ外してみて」
美優は手鏡を斜めに掲げ、顔の向きは保ったまま、鏡の中の自分の目線を別方向へ滑らせた。ぱき、と紙が鳴る。影は顔の向いている方向ではなく、視線の向いている方へ回り込もうとする。視線を切り返すと、湿度も音も追う。──視線追従だ。
「回廊を作れば……閉じ込められるかもしれないわね」インカム越しに、灯里の考えるような声が届いた。
透真はさらなる検証の為、線香を焚く。立ち上る一筋の煙の横を、八尺様が通過する──が煙が揺れることはない。
(実体は曖昧だな。耳栓は効果がなく、視線に誘導される。南雲の『認識』に強く影響されているのは間違いないはずだが──)
続いて、灯里の声がインカムに乗る。
「形代を──息を三度吹きかけて」
紙人形を窓辺に吊ると、室内の湿りがそこに凝り、窓の外気がずしりと重くなった。
「次は符を剥がして」
灯里の声。美優は符を剥がそうとし──心臓が跳ねる。違う、歪な金属音が混ざっていた。鼓膜にじっとり絡みつく異音。
慌てて本物の灯里の声が重なる。
「違う、絶対に触れないで!」
塞の神の検証。簡易的な塞の神の代替として四隅に小さな札を置き、一辺だけを開けた。影は、確かにその隙間へ偏る。閉じれば離れる。しばらく繰り返していると、札が割れた。
美優は歯を食いしばった。声はまだ頭の奥で鳴っている。しかし──今夜の検証で微かに手がかりの細い糸が垂れてきた。
2-4. 逼声
昼下がりの特異事案対策室。車座に椅子に腰掛けた三人の顔には、疲労の影が滲んでいた。
雷蔵が腕を組み、椅子の背もたれに重く身を預ける。
「封印の核は名の釘と、美優の髪か何か──体の一部を入れた四方目の形代。回廊封で囲い、それを塞の神で閉じ込める。三重の仕掛けってとこか」
机の上には、古い伝承や過去の報告書が散らばっている。紙の匂いと埃のざらつきが、閉ざされた空気にさらに重さを加えていた。
「問題はどこに閉じ込めるかです」
透真が指で資料をなぞりながら言う。
「人の入り込まない山奥……候補は廃村や廃墟でしょうが、最近は廃墟写真愛好家とやらが頻繁に侵入する。管理も難しいですね」
「ちょっとした好奇心で踏み込まれて、封印が壊されたら洒落にならねぇな」
雷蔵の声は苦々しい。
「塞の神を用意するのも時間がかかるわ。回廊封で廻り続けて影響は少ないとはいえ、簡易的なものだとおそらく破損してしまう」
灯里が柔らかく言ったが、その声音はどこか硬かった。
「私たちが独自に建立するにしても、材や儀式の準備は……早くても一週間は必要ね」
沈黙。天井の白熱の微かな唸りが、会議の重苦しさを際立たせる。
結論は出ないまま、時間だけが流れていった。
一方そのころ、美優は昼の教室にいた。八尺様の昼間の行動検証──美優はポケットに手を入れ、式神の依代──囮の為に持たされている紙人形を確認する。
校庭の向こうには不自然に停車している車の影。簡易的な塞の神を設置した、蜘手の車だ。もし八尺様が『姿』を現せば、即座に美優を回収し撤退する手筈だ。何より彼の恩寵『操糸』、精神に干渉する不可視の糸は、群衆の前で使用しても目立たない。
窓の外はからりと晴れ、空気は乾いて軽い。クラスメイトたちの笑い声、ページをめくる音、鉛筆が机を叩くリズム──すべてが、日常のざわめきであるはずだった。だが、その隙間に、違う音が忍び込む。
……ぽ……
最初は、遠くの校庭から誰かの声が聞こえた気がした。気のせいだと首を振る。
……ぽ、ぽ……
次は、隣の席の呼吸に重なって。振り返ると、友人は何も気づかずノートに落書きをしている。
……ぽ……ぽ……
今度は、耳元で。授業の声に紛れ、湿った響きが直接頭の奥を叩いた。
美優の手からシャープペンが滑り落ち、床に乾いた音を立てた。前列の生徒が振り返り、怪訝そうな顔をする。
「……あ、ごめん」
美優は小さく謝り、鉛筆を拾い上げた。
姿は見えない──だが、耳鳴りのように囁きは止まらない。遠くから、近くから、確かに「ぽ、ぽ……」と繰り返している。昨日よりも、さらに距離を詰めて。授業の黒板にチョークが走る音さえ、そのリズムに飲まれていく。文字が崩れ、白い粉が舞い、音は次第に耳全体を満たす。
「……っ……」
日常のざわめきが遠のき、ただ「ぽ……ぽ……」の囁きだけが、周囲を塗りつぶしていく。紙人形を指先でつまむと、微かにピリピリと震えていた。
まだ、昼間は届いていない──しかし近づいている。確実に。
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