CASE:022-1 八尺様
東京怪異捜査録 − 警視庁特対室CASE:XXX −
1-1. 影声
──闇が濃すぎる。
その夜、男は小さなワンルームの隅にうずくまっていた。蛍光灯を点ける勇気は出なかった。点けてしまえば、この闇に潜む「何か」を照らしてしまうような気がしたからだ。冷えきった空気の中、呼吸だけが異様に大きく響く。汗に濡れた額を押さえながら、男は震えていた。
最初に気づいたのは数時間前だった。耳の奥に、湿った声が落ちてきたのだ。
──ぽ……ぽ、ぽ……。
途切れ途切れのそれは、人の声に似ているが人ではない。壁を伝ってくるのか、床下から湧き上がるのか、判然としない。ただ確かに、自分に向けられている。そう思った瞬間から、体温が奪われていくような悪寒に包まれた。
「やめろ……」
独り言が震え声になって洩れた。けれど声は止まない。闇が呼吸するように、断続的に繰り返される。男は堪らずスマートフォンを掴み、登録された友人の番号を乱暴に押した。呼び出し音がやけに長く感じられる。やがて、眠そうな声が応答した。
「……なんだよ、今バイト中だぞ」
「おい、聞こえるか! ほら、今だ! この声!」
叫ぶようにスマホを部屋の暗がりへ突き出す。だが、返ってきたのは訝しげな沈黙だった。
「声って……何も聞こえねぇけど?」
「嘘だろ!? ずっと鳴ってんだよ! ぽ……ぽ、ぽって! 女の声だ! いや、わからねぇ……でも、聞こえるんだ!」
友人の声は冷めていた。
「……疲れてんだろ。いいから落ち着け。バイト終わったら寄るから、待ってろよ」
「待てねぇ! 今すぐ来てくれ! 頼む!」
必死の訴えも虚しく、通話は一方的に切られた。
静寂。だが耳にはまだ、あの湿った囁きがへばりついている。喉が焼けつくように渇き、心臓の鼓動が胸を叩き続けた。
男はついに耐えきれなくなり、玄関へ飛び出した。ドアノブを握る掌は汗で滑り、力が入らない。開け放たれた瞬間、夜の冷気が全身を突き刺した。
──その時、声が至近で響いた。
ぽ……ぽ、ぽ……。
それはもう、耳の奥ではなかった。頭上から、いや背後から、首筋に吐息をかけるように。
「うわあああッ!」
叫び声を残し、男は暗い外へ駆け出した。階段を転げるように降り、街灯の下へと消えていった。
──その後、友人が駆けつけた。
ワンルームの扉は半端に開いたまま。電気も点いていない。部屋の中には、崩れた布団と散らばったスマホの充電コードがあるだけだった。
「おい……?」
呼びかけても返事はない。静けさが耳鳴りのようにまとわりつく。窓を閉めきった狭い空間は、外の喧騒とは別の世界のように凍りついていた。
ただひとつ。壁の薄闇に、まだ誰かが囁いた余韻だけが残っている気がした。
──ぽ……ぽ……。
1-2. 囁影
翌日の朝、SNS『ツブヤイタッター』に一つの投稿が現れた。
白地のタイムラインに黒文字で並んだそれは、妙に軽薄な文面だったが、読み手の胸を冷たく撫でる響きを持っていた。
『八尺様、マジで出たかもしれん』
投稿主は、昨夜消息を絶った男の友人だった。彼は前夜の通話を思い返すたびに、心臓を鷲掴みにされるような恐怖に苛まれていた。あのとき男は確かに「変な声が聞こえる」と叫んでいたのだ。彼は震える指で断片を書き継いでいく。
『異様に背の高い女を見たらしい』
『ぽ……ぽ、ぽ……という変な声を聞いていたらしい』
それらはすでに広く知られた怪談、いや都市伝説である『八尺様』の特徴と酷似していた。背の高さ。不可解な声。断片が繋がるたびに、形のない怪異が、現実の中で徐々に骨格を得ていくようだった。
数分で、その投稿は三桁の返信とRTを稼いだ。
『マジ? 怖すぎ』『作り話乙』『うちの地元でも似たのあった』。
懐疑と好奇、嘲笑と恐怖。『八尺様かわいい、俺のとこにも来て』とネタ化が広がり、白い帽子とワンピースのイラストを貼った創作の宣伝まで混じる。
雑多な声が、ひとつの『八尺様』の輪郭に肉を盛っていく。
──怪異は、人に語られ、信じられるほどに力を持つ。
その午後。
轟雷蔵と南雲美優は八王子へ向かった。
「事件があったのは、この辺らしいな」
曇天の下、灰色の雲が低く垂れ込めている。ワゴン車をスーパーの駐車場に止め、ふたりは降りた。テナントからは焼きそばの屋台の匂いが漂い、遠くで子どもの笑い声が響いていた。日常のざわめきは確かにある。だが、それとは別の層に、湿った空気の重さが纏わりついているようだった。
「八尺様か……」
美優は制服姿のまま、気だるげに伸びをしながら呟いた。
「ネットで騒がれてるだけじゃないんですか」
「お前、軽く見るな」
雷蔵は眉間に皺を寄せ、周囲を見回した。
「こういう噂は、火がついた時点で『存在』に変わることがある。とくに八王子は土地柄、昔から妙な話が絶えねえ」
雷蔵は地元の古い喫茶店や青果店で聞き込みを行った。
「背の高い女? いやぁ……昔はそういう怪談、あったのかもしれんがねぇ」
「ぽぽ? ……なんだい、それは」
老人たちは曖昧に笑い、首を振る。美優は子供たちにあたる。
「ネットで見た! 八尺様でしょ?」
「お姉ちゃんあんなの信じてるの?」
ネットに出ている以上の情報は出てこない。
夕方まで足を使ったが、収穫はなかった。車へ戻る途中、美優はふと立ち止まった。視界の隅で、白い布のようなものが揺れた気がしたのだ。
「……?」
振り返ると、人波が行き交うだけで、特別なものは何もない。
「気のせいか」
ほんの一瞬の違和感など、わざわざ口にするほどのものでもない。彼女は肩をすくめて歩き出した。
***
翌日。昼下がりの教室は退屈なざわめきに満ちていた。美優は頬杖をつき、ぼんやりと窓の外を見ていた。
──そのとき。
「……ぽ……ぽ、ぽ……」
廊下の奥の方から微かに声がした。最初は風の音だと思った。だが次の瞬間、声は確かに言葉の形を持って、鼓膜を叩いた。
「え?」
思わず顔を上げる。周囲の生徒たちは、教科書をめくったり、くだらない雑談に笑い声をあげたりしている。誰一人として異常を感じていない。
「……ぽ、ぽ……」
また。椅子を軋ませて振り返ったが、そこには掲示物の貼られた壁と、無機質な蛍光灯の光だけだった。心臓が跳ね、指先が冷える。背中を薄い刃で撫でられたような感覚に、美優は唇を噛んだ。
授業中も、休み時間も、その声はふいに忍び込んできた。どこか遠くから微かに、湿り気を帯びた響きが反復される。誰にも届かず、彼女だけを選んで。美優は気づかぬふりをした。けれど胸の奥では、もう笑えなくなっていた。
1-3. 白影
特異事案対策室のオフィスは、いつも通り人工的に明るかった。
窓のない地下の部屋。蛍光灯の白が無機質に机を照らし、並ぶファイル棚は過去の怪異を無言で抱え込んでいる。その中央で、美優は椅子に座り、所在なげに足を揺らしていた。
「……で? 結局、見たのか見てないのか」
雷蔵が腕を組み、低い声で問う。
「わかんないんですよ。ほんの一瞬で……気のせいかも」
美優は口を尖らせて視線を逸らした。だが、無意識に両の手は膝の上で強く握られている。
その仕草を、蜘手創次郎が飄々とした目で捉えていた。
「ふむ。視界の隅っこに引っかかってるのは、記憶の奥にも残ってるはずだ」
彼は美優の背後に立ち、指先をひらひらと動かす。
「ちょ、なにする気ですか」
「安心しな、美優くん。ちょっと糸で覗くだけさ。君の頭ん中をほじくるわけじゃない。糸は見えるようにするか? 見えないままにしといた方がいいか?」
「……どっちでもいいですよ」
言葉の割に、空気が緊張に軋んだ。蜘手の指先から、淡い光の糸のようなものがふわりと伸びる。それはただするすると美優のこめかみに触れた。彼女の背筋がぞわり、と粟立つ。彼女は思わず身を引いたが、糸はすでに彼女の記憶の奥へと滑り込んでいた。
「……っ」
瞼の裏が熱を帯び、意識の奥に靄が広がる。過ぎ去ったはずの瞬間が、もう一度立ち上がってくる。
──人の波の中、ほんの一瞬。
横断歩道の向こう。
白。
白の鍔広帽子。夜でもないのに、やけに濃い影を落としている。
その下に覗く、長い黒髪。無風なのに、わずかに揺れているように見えた。
そして、白いワンピース。膝下まで覆う布が垂れ下がり、身体の線を隠している。
──だが、それ以上に。
異様なまでに背が高い。群衆の頭を越えて、店の看板に迫るほどの高さ。その輪郭だけが、現実の風景に不自然に貼りついていた。
「……ッ!」
息を呑む美優の脳裏で、誰かの声が重なった。
ぽ……ぽ、ぽ……。
低く湿った囁きが、頭の奥を叩く。視界が揺れ、汗が首筋を伝った。
「やめ……て……!」
思わず叫び、美優は椅子から立ち上がる。糸が切れ、視界が明るい現実に戻った。
室内は沈黙に包まれていた。蜘手は細めた目で、美優を見下ろしている。雷蔵は表情を固くし、机の端に拳を置いた。
「……やっぱり、いた」
美優の声は掠れて震えていた。その震えを押し隠すように笑おうとしたが、唇の端は強張って上手く動かない。
蜘手が静かに言う。
「白の鍔広帽子、黒髪のロング、白いワンピース……八尺様、だな」
蛍光灯の光が、いつもより冷たく肌を照らした。オフィスの空気は、確かに一段階、深い闇に沈んだ。その沈黙を破るかのように──
ぽ……ぽ、ぽ……。
声がした。美優の耳だけに。
ドアの向こう、廊下の奥から。
美優の背筋を伝い落ちた冷汗は、まるで見えない指に撫でられたかのようだった。
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