CASE:021-2 名に寄るもの
東京怪異捜査録 − 警視庁特対室CASE:XXX −
2-1. 市場
「久世さん、誰か地元の人を!」
透真の声は、自分でも驚くほど鋭かった。草むらのなかに倒れていた若者の顔は、あまりにも異様だった。
──下顎が、なかった。頬から下が不自然に途切れている。肉や骨の断面は鋭利な切断痕ではなく、何かに消されたような──いや、存在しなかったかのように滑らかだ。しかし、この大きさの傷にしては、血は思ったほど流れていない。赤黒く滲んでいるが、地面に広がるはずの血溜まりが見当たらない。まるで、欠けた部分そのものが現実から切り取られたかのようだった。
透真は息を詰め、耳を近づけた。喉の奥から、ひゅうひゅうと細い呼吸音。まだ生きている。
──這ってきたのか、海岸から。ここで力尽きたのか。
脳裏に、今朝のニュースがよみがえる。唐津沖で沈んだ漁船。調査の結果、船首が欠け落ちていたと報じられていた。
そして今、目の前で失われているのは人間の下顎。
「……船首に、下顎。舳先に顎先……『先』つながり……か」
思わず口をついて出た言葉に、背筋が冷えた。これはただの事故ではない。昨夜、塞の神の首が落ちたあの瞬間から始まった何かが、確実に広がっている。
道を駆け戻る足音。灯里が数人の地元住人を連れて戻ってきた。
「こいは……!」「おい、救急車ば呼べ!」
慌てふためく声が飛び交い、携帯電話が取り出される。透真は立ち上がり、灯里に向き直った。
「ここは任せます。緊急搬送さえできれば、この人は助かる可能性が高い」
「透真くんは?」
「情報を集めてきます。──市場へ。この時間帯なら、噂話が一番集まるのはそこでしょう」
灯里の目が一瞬鋭く光った。彼女は短く息を吐き、「気をつけて」とだけ言った。その声音には余計な逡巡はなかった。
魚市場は、午前の陽射しに明るく照らされていた。大きな鉄骨の屋根の下、木箱が山積みされ、氷に埋められた魚の鱗が光を跳ね返している。交渉の声が飛び交う。値札と伝票が舞う。
「危なかよ!」「どかんね!」「はよせんね! 荷ば遅れっけん!」
業者や仲買人の方言が怒涛のように響き合い、場を支配していた。
透真は足を踏み入れ、思わず呼吸を整えた。タイ、スズキ、アジ、イサキ。生臭さと氷の冷気が入り混じった、独特の市場の匂い。汗に濡れた男たちが声を張り上げ、人々が押し合う。
その時、発泡スチロールの箱を積んだ自転車が市場の通路を勢いよく駆け抜けた。荷台にはイサキやマジャクの箱が揺れ、男の背中は汗で濡れている。その瞬間、透真はふと異変を感じた。潮の匂い──違う、もっと濁った、腐ったような臭気。鼻腔を突き、頭の奥をざらつかせる気配。市場の喧噪は続いている。誰も気づいていない。腐った潮の臭気が、更にふっと濃くなった。
──来る。その予感が確信に変わった瞬間だった。市場の通路を駆け抜けていた荷台付き自転車が、突然ぐらりと傾いた。
「うわっ!」
漕いでいた若い業者の右足先が、ペダルごと消えていた。周囲の怒号。箱が崩れ、タイ、イサキ、マジャクが市場の床にばらまかれた。男はうずくまり、足を押さえてのたうち回る。だが──血が出ない。いや、赤黒い滲みはある。だが、明らかに欠損の規模に見合う量ではなかった。
「な……なんね!」
「足、足ば消えとっ!」
騒然となる市場の中央。透真は反射的に恩寵『透視』を発動した。視界が揺れ、情報の層が切り替わる。
そこにいた。魚体に鱗を纏いながらもいくつもの節を持ち、節足動物の脚をいくつも突き出した異様な影。複眼の粒が鱗の眼窩にびっしり詰まり、角度を変えるたびに光を返して「こちらを見ている」と錯覚させる。全身には膿を思わせる、やや白濁した粘液を纏っていた。体表にまとわりつくその膜は、節足の脚が動くたびにぬらりと糸を引き、空気中に湿った光の線を描く。腐った潮と甲殻の甘腐臭が一気に濃くなり、周囲の空気をねっとりと侵した。海水に浸かったかのように揺らめき見えるが、だが実際には乾いた市場の床を這いずっている。鎌のように湾曲した前脚が、うずくまる業者の周囲を舐めるように動いていた。
(──こいつだ)
透真の喉が凍りつく。
「大丈夫ね!」
異変に気づかぬまま、介抱に駆け寄ろうとした別の男がいた。透真は咄嗟に叫んだ。
「待て! 行くな!」
だが止まらない。次の瞬間、不可視のそれが鎌を振るった。駆け寄った男の手のひらが、一部ごっそりと消えた。
「ぎゃああっ!」
床に落ちた魚と血の匂いに混じり、絶叫が市場を震わせた。
(──やはり、動きに反応している)
透真の頭に電流のような確信が走る。速く動いた者を狙い、その『先端』を奪う。さきほどは足先、今度は手先。
「全員、動くな!」
透真は腹の底から声を張った。場の空気が凍りつく。市場を満たしていた喧噪が、刹那にして真空のような静寂に変わった。
透真は異様な影を凝視していた。不可視のそれはしばし鎌脚を揺らし、周囲を探るように動いた。だが人々が硬直して動かなくなると、標的を見失ったのか、影の動きは鈍っていく。さきほどまで粘液の糸を引きながら蠢いていた脚が、今はどこか震え、形を結びきれずに滲んでいる。先ほどより明らかに、『色』が薄れているのだ。腐った潮の臭気も、濃くなったかと思えばふっと薄れる。
(──長くは保てない。何らかの要因で存在を維持できない。このまま消える)
直感が確信に変わった。
影の揺らめきは、まるで消えかかる蝋燭の火のように不安定なものとなっていく。──もう、消える。透真は冷静を装いながら、人々に指示を飛ばす。
「そこのあなた! 電話で一一九番、救急車を!」
声をかけられた中年の業者が、おそるおそるポケットから携帯電話を取り出す。手が震え、通話ボタンを押すのにも時間がかかる。だが──それでいい。速すぎる動きでなければ、それは反応しない。腐った潮の臭気が、徐々に薄れていった。視界の中で揺らいでいた魚と節足の混合影が、掻き消えるように消失していく。透真は無意識に拳を握っていた。──退いたか。
市場の床には、散乱した魚とともに、跳ね回るマジャクがばたばたと音を立てていた。場違いなその生命力が、逆に恐怖を際立たせている。人々は誰も口を開けない。ただ、異常を目撃してしまった衝撃に凍りついたまま、救急車の到着を待っていた。
透真は大きく息を吐いた。船首、顎先、足先、手先──。怪異は、人の動く『先』を奪っていく。──昨夜、塞の神が壊された時点で、もう封じは外れていたのだ。彼は胸の奥で呟き、腐臭が完全に消えていくのを感じていた。
2-2. 名に寄るもの
サイレンの音が近づいてきた。市場のざわめきに混じっていた不安が、赤色灯の光とともに一気に現実味を帯びて広がる。救急隊員が駆け込み、床に倒れた業者たちのもとへと急ぐ。
「右足首切断……いんにゃ、切断やなか──」「こいは、まるで……」
彼らの声は困惑に満ちていた。透真は腕を組み、少し離れた場所からその様子を見ていた。
──あの存在が退いたのは事実。だが誰もそれを見てはいない。彼一人が透視によって不可視の影を感知しただけだ。市場の人々は、恐怖と混乱の狭間で「奇妙な外傷」としか認識できていない。囁き声は次第に沈み、やがて視線は透真に集まった。──異質な者に対する目。だがその正体を言葉にすることはできない。ただ彼の、鋭すぎる制止と指示が『異様さ』として残ってしまった。
被害者が運ばれ、再び市場に日常が戻っていく。ざわつきの残滓はまだ消えていないが、騒乱の波はどうにか収まっていた。その時、入口の方から灯里が歩み寄ってきた。
「透真くん……」
彼女の視線は魚と血の匂いに満ちた床に注がれ、強張ったままこちらに移った。透真は小さく肩を竦めた。
「どうにか収めました。──変人扱いはされましたけど」
自嘲気味に言うと、灯里はわずかに笑みを見せ、しかしすぐに真剣な表情に戻る。
「危なかったわ。透真くんがいなかったら、大惨事よ」
その声は真摯だった。
二人は市場の外れ、人目を避けられる倉庫の陰へと移動した。潮風が吹き込み、氷の匂いと混ざって鼻を刺す。透真は深く息を吐き、言葉を選ぶように語り始めた。
「肉眼では見えませんでした。ですが透視を通すと、魚と節足動物が混ざったような影が」
灯里は黙って耳を傾ける。
「動体に反応し、先端を奪う。足先、手先。──今朝の漁船の舳先も」
言葉は重く落ちたまま、透真は続ける
「つまり、物理的な実体ではなく霊的存在。もしくは、過去の例で言えば……」
灯里は短く息をつき、呟いた。
「──音。言霊」
灯里の瞳が鋭く光った。
「漁船、市場、海岸……魚を扱う『声』『呼び名』に寄っていた可能性が高いわ」
沈黙。透真はその言葉を繰り返した。
「呼び名に寄って、人の──居る先を奪う」
やがて彼は小さく頷いた。
「──仮に『名に寄るもの』と呼びましょう」
その言葉が、二人のあいだにひとつの輪郭を与えた。不可視の影はまだ謎に包まれている。だが呼び名を糸口にして現れ、人の『先』を奪う存在。その推測だけが、わずかに垂らされた糸であった。
ふたりが訪れた図書館は、白壁とガラスを組み合わせた新しさをまとっていた。だが館内に足を踏み入れると、空調の音の奥で紙の匂いが確かに息づいていた。透真と灯里は並んでカウンターに立ち、郷土資料室への入室手続きを済ませる。
「十中八九、あの塞の神に由来するものね」
椅子に腰を下ろした途端、灯里が切り出した。
「塞の神を補修するのは?」
透真の問いにあかりは首を振った。
「だめね。こちらに入り込んでしまった以上、補修してもこちらに閉じ込めるだけ。何より──あの漢字の意味がわからないと、補修しても塞は本来の力を取り戻せないはずよ」
二人は調査を始めた。透真は魚偏の漢字を片っ端から洗い出す。鮒、鱸、鮟、鯨……魚を編する字を旧字、異体字を含め調べていく。だが、塞の神に刻まれていた字に合致するものは見つからなかった。
「やはり、彫刻時の石工の誤字の可能性も考えるべきですね」
透真は端末を閉じ、灯里に向き直った。
「ただ──石像の背面、あの位置で誤字のままにしておくかしら。意図的な意味があったと考える方が自然」
彼女は古伝承の棚に足を向け、民俗誌や郷土誌を手当たり次第に繙いていった。だが、該当する記述は見つからない。
一方の透真は視点を変え、国立国会図書館のデータベースにアクセスし、水産統計の資料を近代から遡っていく。
「魚偏、つまり水産物と関連している可能性が高い。漁獲高の統計なら、何らかの形で残っているかもしれない」
成果を得ぬまま、時間だけが過ぎていく。しかし、透真が資料のページを送る指先が止まったのは、佐賀県統計書の明治三十一年度版だった。
海 魚宿 魬
豚
──────
四 三
丶 丶
六 六 六
〇 〇 八
八 〇 八
──────
魚偏に、旁は宿──漁獲高の項目に、見覚えのある異形の字があった。
「……久世さん、これを」
透真が呼んだ声に、灯里が駆け寄る。
「……魚編に宿?」
灯里の声は低く、震えていた。
「初めて見る漢字ね……辞書にも載っていない」
透真は頷いた。
「明治三十一年度までは使われていますが、三十二年度を境に、ぱたりと消えています」
ページを繰り比べると、その不自然さは明白だった。前年まで確かに漁獲高の欄に並んでいた『[魚宿]』の二文字が、翌年からは影も形もなくなっている。
「忌言葉……何かの理由で使うことが憚られた……?」
灯里は唇を噛んだ。
「この字が消えた後の統計では、魚種の内訳だけでは特定できません。何を指していたのか、推測すら難しい」
透真は目を細め、冊子を閉じた。二人はさらに検証を進めた。他地域の統計をめくってみても、『魚宿』は一切出てこない。有明海沿岸以外では、痕跡すらなかった。
「有明海特有の水産物かもしれないわね」
灯里が挙げていく。
「ワラスボ、ムツゴロウ、ウミタケ、メカジャ、マジャク……宿──例えば巣穴を作る生物……」
しかし、後年の資料に記載されているそれらと比較するが、特定するに足る証拠がない。透真は首を振る。
「ワラスボに至っては、魚宿がまだ記載されている年度の別項に、すでに名前が併存しています。つまりワラスボは違う」
灯里は静かに考え込む。
「[魚宿]──この字の読みが、謎を解く鍵になるのかもしれない」
端末の画面に浮かぶ『[魚宿]』の二文字が、重たくのしかかるように二人の眼に焼きついた。
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