CASE:003-1 影、借ります
東京怪異捜査録 − 警視庁特対室CASE:XXX -
1-1. 残像
それは、気づかれずに起き、気づかれないまま消えていく。
火の手も上がらず、血も流れず、叫び声すらない。
静かすぎるほど静かな、けれど確かにそこに"存在していたはず"の異変──それが、怪異というものの、最も厄介で、最も厭らしいかたちだった。
あるとき忽然と現れ、誰の記憶にも強く刻まれないまま、影のように世界から溶け落ちる。残るのは、微かに背筋をなぞるざらついた違和感。夜更けにふと足を止めさせる、根拠のない不安。新聞の見出しにはならず、警察の記録にも残らず、ただ一部の者の脳裏にだけ、その"記憶"を留める。
警視庁の地下、陽の当たらぬ奥まった部屋に、それらを扱う組織がある。
名を──特異事案対策室。
通称、「特対室」。
表向きには存在しないその部署は、"現実"と"非現実"の狭間に忍び込むモノたちを、静かに摘み取る。異能と理性、そして少しばかりの妥協と諦観を武器に、彼らは今日も東京の底を歩いている。
今回の事案もまた、表沙汰になることはない。
凶悪犯が街を彷徨ったわけでも、地下鉄に異形が出現したわけでもない。
だが、それでも──
「それ」は確かに存在していた。
ある者がこう言った。
「影、借ります」と。
ほんの短い、意味の通らない言葉に見える。だが、その文言は、都市の隅々でじわりと広がっていた。街灯の根元に、電柱の影に、あるいは閉店した店のシャッターに。
貼られているのは、一枚の紙。印刷された一文。
それだけ。だが確かに、誰かが"影"を──借りていた。
影を貸した者に、実害はない。
体調を崩すこともなければ、金銭的被害もなく、記憶も記録もそのままだ。
ある日ふと、気づくのだ。
──影がない。
そして、数時間か、あるいは翌朝。
まるで最初からそうだったかのように、影は戻っている。
何事もなかったかのように、足元にぴたりと寄り添って。
だから誰も騒がない。
警察にも届けない。
記者も、上司も、家族も、隣人も、それを「異常」とは思わない。
ただ、それを見た者だけが、訝しむ。
──なぜ、あの男の影が"独りで歩いていた"のか。
──あのとき、あの人には"影がなかった"のか。
誰かが言う。「見間違いだよ」「照明のせいだ」
だが、言い聞かせるように繰り返すその声の裏には、確かな揺らぎがある。
"あれは、本当に見間違いだったのだろうか"
静かに始まり、静かに終わる。
そして、終わらずに残る。
そんな怪異が、今、この都市の片隅で、静かに脈打っている。
──「影、借ります」
ただそれだけの貼り紙が、新たな"契約"の印として、今夜もまた風に揺れていた。
1-2. 影盗り
夜の渋谷は、酔客とネオンの雑音に沈んでいる。
けれどその裏通り、「Old Gold」と金文字の擦れた看板を掲げた小さなバーの内部は、外の喧噪とは無縁の静けさに満ちていた。壁のレンガは煤け、グラス越しの光はまるで地下水のように沈黙している。
蜘手創次郎は、磨かれた木のカウンターに肘を乗せ、グラスを揺らしていた。琥珀色の液体が、低く照らされた光の中で、ゆらりと揺れる。
「……お前、相変わらずしぶとく生きてるみたいだな」
そう声をかけたのは、高木敬。公安時代の相棒──そして、今もなお表側に残る男。グラスの中で氷が転がり、乾いた音を立てた。高木の指先が無意識にグラスの縁をなぞっているのが、妙に記憶に残る。
蜘手はグラスを軽く傾けたまま、口の端を緩める。
「おう。しぶといってのは褒め言葉かね」
「生きてるだけで、十分立派だよ」
ふたりの間にあるのは、懐かしさでも友情でもない。もっと乾いた──だが、ひとつ間違えれば水気の戻りそうな、古い木綿みたいな縁だ。
煙草の箱の底を指で弾きながら、蜘手は一本を抜く。
火は点けない。
ただ、咥えるだけ。
それだけで、この夜の情報にふさわしい態度をとったことになる。
「で? 今日の酒は、昔の相棒の生存祝いってことで?」
高木は笑うでもなく、ただ一口含んだ酒を喉へ流し込んだあと、ぽつりと言った。
「留置場にいた男の"影"が、夜中に消えたそうだ」
「……影が?」
言葉は、グラスの内側から響くような音で返った。
「ああ。妙なことに、翌朝には戻ってたらしい。何事もなかったみたいにな」
蜘手は眉を上げることもせず、ただ"間"の呼吸だけで興味を示した。この手の話は、情報そのものよりも、話し手の態度を観察することに意味がある。高木がこんな胡乱な話を持ってくるのは、単なる昔馴染みだからではない。
──何か、"におい"がある。
「映像もある。──ほら」
高木が差し出したスマートフォンの画面には、白黒の監視映像が映し出されていた。画面の隅、薄暗い留置場。ベッドに座り込んだ一人の男──その足元から、影がふっと、立ち上がる。
動きはなめらかで、異常に静かだった。
まるで、空気に溶けるように、壁を抜け、奥の闇へと消えていく。
そして──数時間後。何事もなかったように、影は彼の足元に"戻って"きた。
蜘手は無言でその一部始終を見届けると、煙草を咥えたまま、指先でカウンターを軽く叩いた。
「……芸が細かいねぇ」
高木はポケットから小さなメモを取り出し、蜘手の前に置く。
古びた字で書かれた男の名と素性──花岡祐二、前科三犯、金に困った窃盗の常習者。
「運はいいが、ツメが甘い。暴力沙汰は少ないが、詰めの甘さでよく捕まるタイプだ」
蜘手はそのプロフィールを一瞥しただけで、再び琥珀の液体に視線を戻す。
「へぇ、運のいい窃盗犯ねぇ……」
「何だよ、その言い方」
「いや、そんな得体の知れないもんに巻き込まれて、それで運がいいって言えるのかどうか、って思ってさ」
高木は少しだけ眉を動かし、無言でグラスを回した。
──この案件は、表では扱えない。
だが“特対室”には、それを拾う義務と業がある。
「うちじゃ処理できん。お前のところ……そういうの専門だろ?」
蜘手は咥えた煙草を咥え直し、軽く首をかしげた。
高木の語り口の端々に、昔の"現場の臭い"が残っている。
「で、こんないい話を聞かせてもらったってことは──」
高木は口元を持ち上げ、あの頃と同じ癖で、軽く片眉を上げた。
「ああ──この酒は情報料だ」
蜘手はふっと鼻で笑い、咥えていた煙草を指で弾いた。くるりと回転して、カウンターに音を立てて転がる。
「……どうりで、高い酒頼んでんな」
指先でメモを軽く叩きながら、蜘手は最後に小さく呟いた。
「そいつに、会わせてくれるかね?」
1-3. 欠片
警察署の外壁に朝の光が鈍く照っていた。まだ冷えの残るアスファルトを踏みしめながら、蜘手はゆるい足取りで歩いていた。隣を歩くのは、特対室の分析官──葦名透真。彼はいつものように無駄口は少なく、手元のタブレット端末を淡々とスクロールしていた。
「蜘手さん、また妙な話を拾ってきましたね」
「お前さんも嫌いじゃないだろ? こういうの」
「……確かに」
返事は淡々としていたが、口元にわずかな興味の気配が浮かんでいるのを、蜘手は見逃さない。透真は論理を重んじる男だが、怪異の存在に対して否定ではなく、冷静な"観察者"であることを選んでいる。その目が好奇に動くとき、それは何かが動き出す前兆だ。
「影に関する、それっぽい噂とか都市伝説って、何かあったりするかね?」
しばらく考え込んだ透真が、ふと視線を上げた。
「……『影、借ります』という話があります」
「へぇ。初耳だね。どんな話だ?」
「今のところまでは与太話の類だったのですが……影を貸しても害はない、とされています。朝には戻ってくる。金が手に入る場合もある。つまり"善意の取引"のように扱われている」
「善意? 影を借りるって、どこの誰がそんなもんを?」
「"誰か"が、です。名前も顔も分からないままに。"電話一本で契約成立"というのも、都市伝説ではよくある形式です」
「ふうん……あまりにも都合がよすぎる話ってのは、何か隠してるもんだ」
「その通りかと。実際、"影が消える"というのは、光源の問題ではありません。監視映像上でも明確に影が消失しています」
話しながら、二人は警察署の玄関をくぐった。静かにスライドする自動ドアを抜けると、硬質な蛍光灯の白い光が、彼らを無機質な空間へ迎え入れた。
「花岡祐二、についてですが」
透真は端末を操作しながら言った。
「窃盗常習。軽微な犯罪が多く、金に困っている様子。今回も、飲食店の裏口から侵入して金品を物色していたところを現行犯で確保されたようです」
「影を貸した報酬の使い道が"飯代"ってか。らしいっちゃらしいな」
拘留室の扉が開くと、中にいたのは痩せた中年男だった。やや猫背で、目つきは鋭い。だがその目にあるのは攻撃性ではなく、長年身につけた"狡猾さ"だった。
「……なんだよ、俺はもう反省してるってのによォ。今度はなんの用だ?」
「影の話を聞きに来た」
蜘手が言うと、花岡は肩をすくめて小さく笑った。
「ああ、それか。なんだよ、大事になってんなぁ。別に何もなかったってのに」
「"何もなかった"わりには妙な映像が残ってるんだがな。──お前の影が、深夜に勝手に歩き出して、消えたってよ」
「んー、あぁ……そういや言われたな。そういうのあったかもな」
まるで昨日の晩飯を思い出すみたいな口調だった。
興味も関心もない。問題意識など、微塵もなかった。
「で? 何をした?」
「駅前の公衆トイレにな、変な張り紙があったんだよ。『影、借ります』ってやつ。……で、書いてあった番号にかけて、『影、貸します』って言った。それだけだよ」
「それだけ、ねぇ……」
「次の日には、ポストに1万円。──うまい話だと思ったさ。何もなくて金がもらえりゃ、文句ねぇだろ?」
「……自分の影が消えてるってのに?」
「影なんて、普段から気にして生きてねぇしな。気づかなかったよ。朝になったら普通に戻ってたし」
──違和感は、ここにある。
"戻ってきた"という事実が、恐ろしく無関心のうちに扱われている。
まるで、食器の数が揃っていたかどうかを気にしないような、生活の瑣末な部分として処理されていた。
「……透真、"視て"みるか?」
「ええ」
透真の瞳に、青白い光が一閃する。恩寵「透視」が、花岡の内と外を視抜く。
「……異常は──ありません。物理的には、まったく。ですが──」
「ですが、顔が気に入らねぇとか?」
「……いえ。ただ、"何かが欠けているような感じ"がします」
「足りない?」
「そう。影が戻ったとしても、それは"見えている形だけ"で、本質の何かが、……少しだけ、減っている」
蜘手はゆるく指を鳴らした。
「操糸」──発動。
空間に音もなく霊糸が這い出す。
視えないその糸は、花岡の精神へとするりと潜り込んだ。
花岡は怪訝な顔を浮かべ軽く眉をひそめたが、痛みや不快感を覚える様子はなかった。糸は、意識の深層──そのさらに下にある、"曖昧な領域"へと達する。日常では意識に上らず、しかし何かの拍子に引っかかる、あの不明瞭な記憶の底。
──浮かんだのは、光の届かない場所だった。
色彩はない。ただ黒。だが、その黒には輪郭がある。
視えないはずのものが、輪郭だけを持って、そこで蠢いている。
何かが──"見て"いる。
「……へぇ」
蜘手は、霊糸を編み直すように、さらに奥へと沈めた。そこにあるのは"記憶ではない像"──花岡自身の体験ではない、誰かから"押しつけられた何か"の断片。薄く滲んだ喪失感が、波のように打ち寄せる。
──何かを、持っていかれた感覚。
花岡はそれを知らない。だが、霊糸が触れる深部では、確かにそれが存在していた。
「なぁ、花岡」
「……なんだよ」
「影を貸したあと、何か"忘れてる"ような気がしなかったか?」
男は眉間に皺を寄せて黙り込む。
数秒後、首を振った。
「さぁな。覚えてないってことは、忘れてないってことじゃねぇの?」
「──かもな」
だが、蜘手の目にわずかな光が宿る。
それは確信というより、"確信に近づく直感"だった。
目に見えぬ"喪失"が、この男に生じている。
それは記憶か、感情か、魂の微細な破片か──
蜘手は、霊糸をゆっくりと引き戻しながら、口の端をゆるく持ち上げた。
「……面白くなってきたじゃねぇか」
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