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CASE:020-4 くしゃみひとつ、千円也

東京怪異捜査録 − 警視庁特対室CASE:XXX −

4-1. 蛭影


 商店街の夕暮れ。赤い夕陽がアスファルトを照り返し、湿った熱気を漂わせていた。美優の前に立つ男は、相変わらず蒼白い顔をしていた。頬は削げ落ち、唇は乾き切っている。まるで生気そのものが吸い取られたように。男の手にあるのは真新しい千円札と、くしゃくしゃに丸められた古紙のこより。

「……くしゃみをしてくれたら、千円あげるよ」

 かすれた声は、笑ってしまうくらい弱々しかった。美優は諦めたように肩を竦めた。

「いいよ、くしゃみくらい」

 ──男が近づいてきた、その瞬間だった。美優の目に、男の鼻孔から黒い影がちらりと覗いたのが映った。細長く、ぬめりを帯びた何か。夕陽に照らされ、一瞬だけ艶めいた光を放ったそれは、蛭のように蠢いた。


 美優の背筋に冷たいものが走る。だが体は自然に動いた。無防備に近づいてきた男の顔面を指先が狙う。手刀の腹側で眼窩を打つ──それは雷蔵に叩き込まれた手癖だった。訓練中、幾度となく目を打たれ、怯んだ瞬間に関節を極められ組み伏せられた。

『いいか、美優。ただの痛みは──興奮で気が付かなかったり、我慢できたりする。だが目だけは別だ。相手が『脊椎動物』なら、人間だろうが獣だろうが、反射で怯む。隙を作りたきゃ、まずそこを叩け』

雷蔵の低い声が耳に蘇る。パンッ、と乾いた音。男は反射的に呻き、目を押さえながらうずくまる。


美優は迷いなくさらに踏み込み、男の鼻腔へと指を突っ込んだ。伸ばした指先が男の鼻腔を抉るように突き入れられる。触れた感触は、ぬるりとした生き物の肌。同時に直感と確信を得る。

(──分解)

 呟くように発動した瞬間、黒い影は弾け、霧のように散った。乾いた風が吹き抜け、周囲のざわめきが戻ってくる。男はその場で崩れ落ちた。ただの人間。寄生され、自覚なく操られていた被害者。美優は息を整えながら、自分の指先を見下ろした。ほんのわずかに、まだ冷たいぬめりの感覚が残っている。

「……分かっちゃった。おまえ、蛭なんだね。鼻をひるから? ダジャレかよ」

 自嘲気味に呟く声が、夕暮れの喧噪に溶けた。


 救急車のサイレンが遠ざかっていく。男はただの被害者だった。意識を失った男は美優の通報により、救急搬送されていった。商店街のざわめきは何事もなかったかのように続いていた。だが美優の胸には、粘つく感触と、鼻の蛭が覗いた一瞬の像がこびりついていた。──人の鼻から這い出す蛭。それは笑い話になどできない、静かな恐怖だった。



4-2 鼻をひる


 二週間後。事件は公式記録の上では『不審者による奇行』と処理されていた。通報した市民の証言も、ネットニュースの片隅に載った文面も、ただそれだけ。しかし特対室の内部資料には、ひっそりと新たな怪異名が書き込まれていた。


 ──鼻蛭。その文字を眺めながら、美優はつい鼻の頭をかいた。

「……何度見ても、やっぱ変な名前ですよね。鼻をひるって、ダジャレの領域」

 灯里は穏やかに微笑み、机上に広げた古書の写しを指でなぞった。

「鼻蛭そのものは載っていないけれど──針聞書にはね、こういうのが図付きで描かれているの。体内に虫が住み着いて病を起こす、って考え方。今からすれば非科学的だけど、当時は医術の考えのひとつだった。鼻をひるという言葉から、鼻の蛭なんて観念が生まれても不思議じゃないでしょう?」

 ページの端に墨で描かれた奇怪な線図。体内に巣食うとされる様々な不思議な形をした虫と、その解説らしき文が書かれている。灯里は続けた。

「昔の人にとって、くしゃみは魂が揺らぐ瞬間だったのよ。『くしゃみをすると魂が鼻から抜ける』『くしゃみは凶事の兆し』なんて民間信仰もあった」

 透真が腕を組み、考え込む。

「……つまり、くしゃみで魂の防壁が一瞬剥き出しになる。その隙に呪術的な分体を飛ばし、寄生させる。寄生主から分体を通して魂のエネルギーを吸収していた、と」

 彼の言葉を聞きながら、美優は無意識に鼻を押さえた。鼻腔の奥に指先で触れたあのぬめる感触を思い出し、今になり鳥肌が立つ。透真は続ける。

「本体寄生被害者の趣味は登山。本来なら山奥で野生動物に寄生してひっそり残っていたものが、偶発的に都市の雑踏に持ち込まれて顕れた……そう考えるのが妥当か」

「へっくしょい!」

 その静かな会話を破るように、蜘手が大きなくしゃみをした。紙束が揺れ、美優がびくりと肩を跳ねさせる。

「ちょっと! 創次郎さん、わざとでしょ! 千円なんかあげないからね」

 蜘手はニヤリと笑い、椅子にふんぞり返った。

「冷たいなぁ、美優くんは。にしてもさ、虫は嫌いだって言ってたのに、蛭は平気なんだ?」

 美優は顔をしかめた。

「平気って訳じゃないですよ。虫のお尻のストライプとか、お腹の脚の付け根とか、あれがキモい。蛭は……見た目がシンプルだからまだマシ」

 灯里が苦笑した。オフィスに少しだけ和やかな空気が流れた。


 閉じられた古書は、机の上にざらりとした影を落としていた。怪異は退けられた。被害者たちの顔色も徐々に戻ってきた。それでも、鼻蛭という名は特対室の記録に刻まれた。まるで湿った影が這い寄ってきた跡のように。



4-3. 残滓


 数日後、午後の特対室。いつも通りの白い照明に照らされている、昼も夜もない空間。机の上には書類が積み上げられ、透真がその山を丁寧に分類している。蜘手は椅子を揺らしながら欠伸を噛み殺し、美優はシャープペンをカチカチ鳴らしていた。一見すれば、どこにでもある平穏なオフィスの光景。しかし灯里の視線は、部屋の片隅に向いていた。そこには小さな水槽が置かれている。透明なアクリルの中、黒い影がゆらりと揺れ動いた。細長く、ぬらりとした質感。まるで蛭。いや、蛭そのものだ。


 それは、鼻蛭の『分体だった』ものだ。本来ならば本体の消滅を受け、時間とともに霧散し自然消滅するはずと思われた。だが──消えなかった。むしろ、別の被害者の体内で『本体』として形を取り戻した。未だ謎が多いが、本体が死ぬと、分体のうちのひとつが本体となるとでもいうのだろうか。本体になるのがひとつだけなのか、それすらも不明だ。とにかくそうして再び現れた別のくしゃみ男──鼻蛭を今度は確保したのだ。灯里は小さく息をついた。

「完全に消えたわけじゃないけれど……しばらくは大丈夫だと思うわ」

 彼女が境界を強化した水槽は、通常の物質と異物を隔てる牢の役割を果たしていた。黒い影はそこに閉じ込められ、弱々しく蠢いている。


「怪異そのものを保管するなんて、聞いただけで鼻がむずむずしてきます」

 美優が振り向いて、口を尖らせる。

「まだ生きてるってことなんでしょ? じゃあまた誰かに寄生したりしないの?」

「へっくしょん!」

 後ろで蜘手が大きなくしゃみをした瞬間、蜘手に向けて鼻蛭が飛びかかろうとするがアクリルに阻まれる。美優が思わずぎょっと飛び上がる。それを見て灯里は穏やかに首を振った。

「今は隔たりの中で力を封じられているわ。外に出ることはない。ただ……完全に死んでいないということは、可能性が残るということね」


 水槽の影は、確かにそこにいる。蛭のようにうごめき、震え、わずかな気配を放ち続ける。完全に消え去ったわけではない。怪異は日常の隅に、こうしてしぶとく残り続ける。透真は溜息をつき、鼻を軽くこすった。

「やれやれ。怪異を解析のために保管して──特対室が鼻薬を嗅がせるような面倒ごとにならなければいいですが」


 その呟きは蛍光灯の温度のない光に吸い込まれ、やがて溶けて消えていった。



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