CASE:020-2 くしゃみひとつ、千円也
東京怪異捜査録 − 警視庁特対室CASE:XXX −
2-1. 鼻ひり
放課後。日差しは傾き始めていたが、コンクリートの熱はまだ抜けきらず、駅のホームにはじんわりとした熱気が滞っていた。美優は制服の襟を手で扇ぎながら、次の電車を待っていた。今日も特対室で、古い報告書のデータベース入力をしなければいけない。雑用は下っ端の宿命だ。そんな事をぼんやり考えていると、解放感に包まれた学校帰りの学生たちが賑やかに談笑する声がホームに反響して耳にまとわりつく。その喧噪の中で、背後から聞こえてきたのは老人たちの会話だった。
「夜になると鼻ひりが止まらなくてよ、風邪かねぇ」
「そいつは厄介だな。早めに医者行っとけよ。俺らの歳になると一旦始まると引き摺るからよ」
美優は思わず、耳を傾けてしまった。鼻ひり? 聞き慣れない言葉に眉をひそめる。方言か、古い言い回しか。だが、老人たちは当たり前のように話を続け、やがて雑踏に紛れていった。残されたのは、妙な語感だけだった。鼻がひりひりすること? いや、どうも違う気がする。美優は首を傾げたまま、電車が滑り込んでくるのを眺めた。
特対室での作業も終え、帰りの電車内。座席に腰を下ろすと、揺れとともに睡魔が襲う。つり革に揺られるサラリーマンの姿や、窓に映る街の灯りがぼんやりと滲んでいく。
「鼻ひり……」
ふと思い出し呟いてみると、途端におかしみが込み上げた。──もし友達に「昨日から鼻ひりが止まらない」と言われたらどうだろう。「何それ、花粉症の新しいバージョン?」と返して、きっと笑ってしまうだろう。美優は肩を震わせて小さく笑い、眠気を振り払った。それでも、胸のどこかに小さな棘が刺さったような引っかかりが残っていた。
その晩、制服を脱ぎ散らかしてベッドに寝転がると、スマートフォンを手に取り検索窓に指を走らせた。
〈鼻ひり 意味〉
表示された検索結果を眺め、美優は声を漏らした。
「……へぇ」
辞典のページには、こう記されている。
はな【鼻】をひる──
くしゃみをする。鼻ひる。
目を丸くしたあと、美優はふっと吹き出した。
「くしゃみのことか。なんだそれ、またひとつ賢くなっちゃった」
得意げに呟く声が、狭い六畳間にこだました。机の上には山積みのプリント。明日の予習を思い出すが、気力は湧かない。スマートフォンを置き、ベッドにごろんと転がる。
(──「鼻ひり」なんて、日常会話で使う人がまだいたんだな)
そう考えると、さっきの老人たちの姿が妙に印象的に思い出される。電車のホーム。影の長い夕暮れ。鼻をぐずぐず言わせながら、「鼻ひりが止まらん」と語る老人。笑ってしまえるような言葉なのに、不思議と心の片隅に残っていた。
美優は目を閉じた。眠気が徐々に重くなり、やがて意識は揺れの中に沈んでいく。その最後に思い浮かんだのは、「くしゃみ」と「千円札」の組み合わせだった。──偶然なのか。それとも。思考は、布団の温もりに溶けていった。
2-2 透視
午後の街は、まだ熱気を抱え込んでいた。アスファルトから昇る陽炎、車道を渡る排気ガスの匂い。街路樹の蝉の声が都市の喧噪に響いて溶けていく。葦名透真は、ワイシャツの袖を軽く捲りながら歩いていた。調査と称して街を見回る。それはただの散歩にも見える。だが、彼の目は人の流れを追いながら、時折ふと止まる。表情や仕草の微細な歪み、体調の影を見逃さないのは鑑識時代からの癖だ。特対室に来てからは、それに『透視』が加わった。無意識のうちに、気になる対象を透かし見てしまう。視界の奥に、普段の物理的な構造を越えた流れが浮かび上がるのだ。その日もそうだった。前方を歩く高校生のグループ。制服のシャツは汗で皺を帯び、リュックを背負った肩に夏の陽を受けている。笑いながら並んで歩くその一人が、不意に大きなくしゃみをした。
──瞬間、透真の視界が裏返る。見えたのは鼻腔の奥、常人なら暗闇しかない空間。そこに、光の線が走っていた。血管の走行とは違う。まるで異物が配線のように繋ぎ込まれている。螺旋を描く回路めいた構造が、呼吸に合わせて微かに脈動している。それは生体の一部というより、術式の断片。くしゃみを契機に、開いた隙間へすり込まれたような痕跡。
透真は無意識に息を止めていた。光の網はすぐに視界から消える。だが残像のように頭に焼きついている。
「……今のは」
独り言のように呟く。足を止めると周囲の人の流れから浮いてしまうため、自然を装いながらメモ帳を取り出した。歩きながらペンを走らせる。鼻腔の奥、円弧状の骨格に絡みつく回路。脈動する結び目。描き写すほど、ますます説明不能の形状であることが明らかとなった。
特対室のオフィス。透真はメモ帳を机に置き、久世灯里の前へ押しやった。
「これを見てください。何だと思いますか?」
灯里は穏やかな笑みを浮かべつつ、真剣に目を落とす。細い指先が紙をなぞるように動く。
「なるほど……鼻の奥に、こんな紋様が視えたの?」
「はい。血管や神経とは明らかに違う。どちらかといえば──術式、あるいは呪いの痕跡のように見えました」
灯里は眉を寄せ、少し考え込む。
「確かに、呪いに似ている。何かを繋ぎ止める『結び』の術に……でも、私の知識でははっきりとは言えないわね」
透真は頷いた。自分の直感も同じだった。ただの生理現象に、あんな回路が組み込まれるはずがない。くしゃみが契機だとしたら、その一瞬に何かが干渉している。
視線を横に向ける。室長の机。その上では白い狸の式神が丸まって眠っていた。腹が小さく上下している。透真は苦笑する。
「……室長に見てもらえれば早いのですが」
「起こす?」と灯里。
「いや、無駄でしょうね」
本当に寝ているのか、それとも狸寝入りなのか。式神は小さく寝返りを打ち、丸い背をこちらに向ける。
透真はメモ帳を閉じ、深く息をついた。自分の目が見たのは幻覚ではない。だが、その正体はまだ掴めない。ただ一つ確信できるのは──あれは自然のものではない、ということ。彼の胸には静かだが執拗な警鐘が鳴り続けていた。
2-3 断片
夜更けのオフィス。蛍光灯の光は変わらず無機質で、外の闇の深さを遮断していた。蜘手は椅子を傾け、足を机に投げ出しながらノートPCを操作していた。ツブヤイタッターの検索窓には「くしゃみ」「千円」の文字が並んでいる。画面をスクロールする指は気まぐれに見えて、実際は直感に導かれている。公安時代から染みついた勘──「笑い話の影に、何かが潜む」。
軽妙なノリの投稿が並ぶ。
『#1000円くしゃみチャレンジ やってみたいwww』
『くしゃみ止まらん、金くれる人いないかな』
『くしゃみ男に会ったら身ぐるみ剥ぐ勢いでくしゃみする』
読み流せばただのネタだ。だが蜘手の目は、妙に粘ついた違和感を捉えて離さない。スクロールを続けるうちに、不意に指が止まった。
『くしゃみしたら鼻からキモいの出てきた。なにこれ、血管? 最悪』
添付された写真。白いティッシュの上に、赤黒い塊が置かれている。鼻血と鼻水が混じり固まりかけたような、細長いもの。蜘手は眉を寄せ、写真を保存して拡大した。ぼやけたピントの向こうで、細長い塊は不気味に光を反射していた。投稿主の過去を遡る。数日前。
『噂のくしゃみおじさんホントにいたww しかもティッシュ出してきて怖』
蜘手は机を軽く叩いた。規則的なリズム。考えを整理する癖だ。
「……笑い話に混じって、何かが紛れ込んでる」
SNSは現実の鏡だ。誰もが軽口を叩き、冗談にして過ごす。だがその裏で、気づかぬうちに侵され、削られていく。「知っている者」には笑いの奥に蠢くものが透けて見える。それを知っているからこそ、蜘手はスクロールを止められない。蛍光灯の下、ノートPCの画面が彼の顔を青白く照らす。その横顔には、飄々としたいつもの色はなかった。
──これは感染だ。笑いの仮面を被った、止められない拡散。
2-4 霧中
特対室の夜は、いつも乾いている。蛍光灯の白い光が変わらず天井から降り注ぎ、紙の山とモニターを無機質に照らしていた。外の夜がどれほど濃くなろうと、この部屋の空気には変化がない。机の上に散らばったのは、透真のスケッチ、蜘手の集めたSNSの切り抜き、美優のメモ。どれも断片的で、線を引こうとしても一本の道にならない。透真が背もたれに身を預け、溜息をついた。
蜘手、透真、灯里が言葉を交わすそばで、美優は相変わらず過去の報告書入力に追われ、書類の山に埋もれていた。だが集中力が尽きたのか、ふと手を止め、机の端に置かれていた千円札を手に取る。無言で折り目を重ね、肖像に布を巻いたような奇妙な顔を作り上げる。──ターバン野口。美優は小さく満足げに頷くと、それをそっと机の端に戻した。
「仮に怪異によるものだとすれば、厄介ですね」
透真の言葉に、美優がペンを回しながら口を挟む。
「厄介って、また大げさに」
「いや、決して大げさではない」透真は真剣な口調で言葉を重ねる。「ウイルスと同じだ。致死性が高いものは拡がりにくい。でも症状が軽く、自覚も乏しいものは、気づかないうちに拡がってしまう。もしくしゃみが媒介だとしたら──」
そこまで言って、透真は口を閉ざした。想像以上にぞっとする未来図が頭をよぎったのだ。
蜘手が口元を歪めて笑う。
「いいねぇ、その理屈っぽさ。透真節全開だな……ただまあ、怪異だって確定できたわけじゃない。まだ状況証拠の寄せ集めだ。実際にくしゃみしてる現場をこの目で確かめられりゃいいんだがな」
にやりとした顔が美優に向けられる。
「一度、美優くんがやってみれば早いんじゃないか?」
「やりませんからね!」
美優は即座に声を張った。机を小さく叩き、眉を寄せる。
「誰がそんな気味悪いことに付き合いますか。くしゃみで千円って、変態か詐欺師か、その両方でしょ」
「いやいや、検証のためだよ。立派な実験協力だ」
「却下!」
美優の拒絶は強固だった。だが声が反響して落ち着いたあと、ふと彼女の胸の奥に、先ほど透真が言った「ウイルス」という比喩が残っていることに気づいた。──もしもそれが本当なら、自分の周りでくしゃみしている誰もが、すでに「感染」している可能性があるのか? そう思うと、教室のざわめきや電車での咳払いまで、意味を変えて聞こえてくる気がした。
灯里は二人のやりとりを穏やかに眺めていた。
「確かに、現段階ではまだ決定打がないわね。断片は揃っているけれど、パズルの絵柄が見えない」
透真が静かに頷く。
「いずれにしても、俺たちは情報を積み重ねていくしかありません。笑い話に混じっているうちが花です。本当に姿を現したときには──遅い」
蜘手は椅子を揺らし、くつくつと笑った。
「ま、焦っても仕方ねぇ。こういうのはいつも、にゅるっと顔を出すもんだ。案外、俺らが構えてるときより、鼻歌交じりの時に来たりする」
美優は呆れながらも、どこか安心していた。蜘手の軽口が、この部屋にある種の平衡を保っているのだ。ただ──机の上のスケッチと写真の断片は、確かに異様な共鳴を放っていた。
それらを前にして、まだ誰も怪異の姿を直視できていない。霧の中で手探りをしているだけ。それでも確かに、何かが蠢いている気配は感じ取れていた。
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