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CASE:020-1 くしゃみひとつ、千円也

東京怪異捜査録 − 警視庁特対室CASE:XXX −

1-1. 囁き


 東京の下町。夕方の色は失せ始め、狭い路地裏を蛍光灯の明滅と遠くの車のエンジン音だけがわずかに彩っている。アスファルトには昼間の熱がまだ籠もり、湿った埃の匂いが鼻にまとわりつく。その路地に、ひとりの男子高校生が足を踏み入れた。部活帰りのリュックが肩に食い込み、制服のシャツは汗で体に張りついている。スマートフォンを取り出して時間を確認しようとした、そのときだった。


 壁にもたれるように立つ男がいた。蒼白な顔色が街灯の光を反射して尚更、異様に青白く浮かび上がる。その奥にあるはずの血の色は、まるで抜き取られたかのようにどこにもない。唇は乾ききり、ひび割れから滲む赤が唯一の色だった。男は動かない。影だけが長く路地に伸び、薄闇のなかで微かに震えているように見える。そして、囁いた。

「くしゃみしてくれたら、千円あげるよ」

 ひどくかすれた声。喉を紙やすりで削られたような掠れでありながら、耳の奥にぬめりと絡みついて離れない。男子高校生は足を止めた。なにを言われたのか、理解できなかった。脳が数拍遅れて言葉を並べ替え、意味を認識したとき、背筋を冷たいものが這い上がる。心臓が跳ね、身体が固まる。


 男の目は虚ろに開かれていた。焦点は合わず、それでも相手を捕えるように湿った視線だけが絡みつく。その右手には一枚の千円札。折り目ひとつない、銀行でおろしたばかりのような真新しさを保っている。紙幣のかすかに青みがかった色が男の蒼白さと重なり、ぞっとするほど冷たい輝きに見えた。もう一方の手には細くよじれたこより。先端を見た男子高校生は、反射的に「ティッシュだ」と思った。だが次の瞬間、違和感に気づく。


 それはティッシュペーパーではなかった。黄ばんだ古い和紙。ところどころに茶色い染みが滲み、長く指に握られ続けて脂を吸い込んだかのように、湿りと乾きを交互に帯びていた。ぞくり、と背筋を冷風が走る。男は、笑っていなかった。欲望を隠す笑みすら浮かべず、ただ切実に、乞うように呟いた。

「……くしゃみ、してくれ」

 声は掠れているのに、胸の奥に直接触れるような圧を持っていた。


 高校生の足が震えた。逃げなければと思うのに、視線がどうしても外れない。その時、ふと、頭のなかで想像してしまう──もしここでくしゃみをしてみせたら? その瞬間、この男はどんな顔をするのか。いや、そんなことを想像している場合じゃない。背筋が冷える。自分が危険に近づいていると本能が訴えていた。高校生は息を呑み、視線を逸らして走り出す。アスファルトを叩く靴音が異様に大きく、背後でまだ「くしゃみを……」という囁きが追いかけてくるように響いた。


 一方、囁きを発した男──自分でもわかっていた。どうしてこんな台詞が口をついて出たのか、理解できない。だが言わずにはいられなかった。数日前からだった。街のざわめきのなかで誰かがふいに「ハックション」とくしゃみをするたび、胸の奥が焼けるように熱くなり、脚が勝手に震えた。快感と嫌悪。背徳と陶酔。押し殺そうと歯を食いしばっても、その衝動は収まらなかった。初めは、自分の性癖が狂ったのかと思った。倒錯した欲望に目覚めてしまったのだと。笑えない。だが、笑いごとにしてしまいたい。


 路地の壁に背を預け、男は荒く呼吸を繰り返す。喉は乾ききり、舌先は砂を舐めているようにざらついていた。千円札を握る手は汗で濡れ、しかし指はひきつけのように震えて離さない。もう片方の手の古紙こよりが、かすかに湿気を帯びて重みを増していた。それを鼻孔へ近づけるだけで、熱が一層強まる。


「くしゃみしてくれたら、千円」

 数を打てば、くしゃみをする者も出てくる。街の片隅で繰り返すたびに、心の奥底が快感で震えて喜ぶのがわかった。



1-2. 兆し


 男子高校生は逃げ込むように駅前の明るい通りへ飛び出すと、反射的にスマートフォンを握った。指が震え、無意識にツブヤイタッターを開く。画面に文字を打ち込む。

『路地裏でやばいやつに会った。くしゃみしたら千円くれるって……変態?』

 送信ボタンを押した瞬間、胸がようやく軽くなる。言葉にして外に投げた途端、出来事が現実から少し距離を取る。数分後、もう見知らぬ誰かが引用ツブヤイートを飛ばしてくる。


『くしゃみ男怖すぎワロタ』

『変態番付ノミネート審議中』

『新都市伝説きたこれ』


 いいねが積み重なり、炎上とも違う奇妙な熱気が画面に広がる。男子高校生はそのまま電車に乗り込み、混雑した車内で震える指先をポケットに押し込んだ。見たものは現実なのか。それとも、自分が悪夢に迷い込んだのか。しばらく後、自治体からの防犯メールが配信された。

『不審者情報:9月18日夕方、葛飾区立石四丁目付近にて男子高校生が「くしゃみをしてくれたら千円を渡す」と声をかけられる事案が発生──』

 定型的な文面のはずなのに、通知を開いた住民の多くは思わず吹き出し、あるいは眉をひそめた。だが、ただの「変態情報」の域を越えて、妙な引っ掛かりを覚えた者がいた。


 その夜、特異事案対策室。蛍光灯の白い光に包まれたオフィスの空気は、相変わらず乾いている。壁際の本棚にはファイルがずらりと並び、紙の匂いが積もったように重い。PCに向かってキーボードを叩く音だけが、規則正しく響いていた。蜘手(くもで)創次郎(そうじろう)は、流れてきた防犯情報の文面を画面で確認すると、片眉を上げた。

「──気になるな」

 呟きは自分に向けた独り言のはずだったが、近くのデスクで書類入力に没頭していた南雲(なぐも)美優(みゆ)が、面倒くさそうに顔を上げる。

「何がです?」

 蜘手は画面を指で弾きながら笑う。

「くしゃみで千円、変質者にしてもユニークすぎるだろ。で、美優くん、裏は何だと思う?」

 美優は眉間に皺を寄せた。

「創次郎さん、それは紛うことなくただの変質者ですよ。ありえない性癖ってだけ」

「ほう、断定するなぁ。……美優くんなら、やる?」

 挑発するように口角を吊り上げる蜘手。美優は椅子をきぃっと回し、露骨に嫌悪を顔に出した。

「イヤですよ。そんな性癖に付き合うとか、気持ち悪すぎる。私、今データベース入力で忙しいんです。邪魔しないでください」

 指先は再びキーボードへ戻り、画面に集中し直す。だがその耳朶は、まだ赤みを帯びている。


 蜘手は椅子を揺らしながら、改めて防犯情報の文面を読み返す。常なら一笑に付して終わるはずだった。だが、妙なざらつきが脳裏に残る。「くしゃみ」という生理現象に「金銭」を結びつける倒錯。偶然の気まぐれにしては執拗すぎる。モニターに映る防犯情報の文字列は、乾いたオフィスの空気のなかで、どこかじっとりとした湿気を孕みはじめていた。蜘手は爪先で机を小さくとんとんと叩き、独り言のように漏らした。


「……どうにも引っかかる。笑い話じゃ済まねえかもな」



1-3. 兆候


 都立S井高校、ある日の昼休み。廊下のざわめきが流れ込み、教室の空気は弛緩していた。美優は弁当の蓋を閉じ、わずかな物足りなさを感じながらも食後のだるさに机へ頬を預けていた。耳に入ってきたのは、数人の男子の会話だった。ふざけあうように笑いながら、しかしどこか誇らしげに。

「ほんとに千円くれたの?」

「マジだって。くしゃみしたらピン札でくれた」

 美優は思わず顔を上げる。会話の中心にいる男子生徒が、財布から誇示するように札を取り出した。皺一つない真新しい千円札が、蛍光灯の下で冷たい光を放つ。高校生にとっては千円といえど、そこそこ大きい。周りが「すげー」と囃し立てる。


 だが、美優の視線は別のものに釘付けになった。その男子の目の下に、隈が刻まれている。皮膚の色は土気色に近く、頬はわずかに削げているように見える。唇は乾いてひび割れていた。自身の記憶の中のこの生徒と比べ、違和感を覚える。

「でもさ、おまえ最近、すっごい顔色悪いよ?」

 友人の指摘に、男子はケロリと笑った。

「え、そう? 寝不足なだけだって」

 軽い返事とは裏腹に、肩の落ち方は酷かった。寝不足では説明できないほどに身体全体から倦怠の影が漂っている。美優は眉をひそめ、心の奥に小さなざわめきを覚えた。


 同じ頃、特異事案対策室のオフィス。蜘手はPCのモニターを前に腕を組んでいた。ツブヤイタッターの投稿を延々と遡っているとふと、ある投稿に目が留まった。自撮りの顔は青白く、目の焦点は定まらない。コメント欄には心配する声が並んでいる。

『顔色やばいぞ』

『ちゃんと寝ろよ』

 だが投稿主は軽い調子で返す。

『バイト忙しいだけw』

 スクロールして投稿を遡ると、一週間前のポストに辿り着く。

『くしゃみ男マジでいたww #千円くしゃみチャレンジ』

 短い文。だが、それを境に投稿主の顔色は悪化していく。写真の笑顔は次第に引き攣り、肌は不自然に蒼ざめていく。

(自撮りを上げていて、自覚がないのか?)

 蜘手はゆっくりと画面を閉じ、指先で机をとんとんと叩いた。一定のリズム。思考の奥から浮かび上がる直感を、掬い上げようとするかのように。

「……ただの変質者じゃねぇな」

 声は低く、オフィスの空気に沈んで消えた。蛍光灯の光が白々と机の上を照らしている。そこに散らばる報告書の文字が、じっとりと湿気を帯びたように見えた。


 都内の学校を中心に、噂は広がり続けていた。「千円くしゃみチャレンジ」と称して面白半分に語られ、誰かが「本当にあった」と誇張を加えるたび、話は歪み、増幅していく。冗談の体裁を保ちながら、しかしどこか後ろ暗い熱が伴っていた。美優はその空気を肌で感じ取っていた。笑いのなかに潜む、薄い不安。目の前で冗談を言うクラスメイトの笑顔も、どこかひきつって見えた。


 蜘手は資料の山を前に煙草を手に取ったが、吸うことなく灰皿に戻した。あのツブヤイート。軽いノリで「チャレンジ」と書いたその文面が、どうしても頭から離れない。まるで、誰かに書かされているような……蜘手は目を細め、静かに呟いた。

「……何かが動いてる」


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