CASE:019-2 誰も見ていない
東京怪異捜査録 − 警視庁特対室CASE:XXX −
2-1. 消去
廃アパートの扉を開けた瞬間、特対室の面々──蜘手、雷蔵、透真は鼻をつく湿った臭気に顔をしかめた。血痕や人体組織の痕跡は丹念に取り除かれていたが、それでも現場はかすかな臭気を漂わせている。壁紙はあちこちでめくれ上がり、古ぼけた埃の層が剥き出しのコンクリートを薄く覆っていた。窓から差し込む光は弱く、室内を沈鬱なモノクロームに染めている。
「──やはり『物理痕跡』がところどころ、不自然に薄いですね」
透真は床を慎重に観察しながら呟いた。彼の恩寵『透視』の視界には、肉眼では見えない微細な痕跡が微かに浮かび上がっている。しかし、それは異常なほど少なく、わずかに残る痕跡さえもどこか人工的なほど整然としていた。
「血の飛沫が不自然に途切れています。まるで何かに遮られたか──意図的に『消された』ような痕跡だ」
蜘手が首を捻りつつ室内を歩き回る。時折『霊糸』で痕跡を調べるが、これといった収穫はない。一通り痕跡を見終えた透真が呟く。
「『怪異』かと問われれば、この場の痕跡だけでいえば今のところは半々ですね。確かに痕跡を残さない怪異も居るには居ますが」
「足跡も手形も、DNA採取につながる痕跡も残さないなんて、プロの仕事にしても出来過ぎてるだろ。掃除屋でも雇って、仏さんだけを残して掃除でもさせたってか?」
「いや、プロだとしたら雑なところも多い。血文字や魔法陣なんて素人っぽい演出を残す一方で、なぜ肝心な痕跡を消すのだけこんなに完璧なのか……」
雷蔵の声には苛立ちが滲んでいた。幾何学模様の血文字があった場所を睨みつけるその表情は、かすかな怒りすら含んでいる。何かを見逃しているという焦燥が、胸の奥底でじりじりと燃えていた。
現場検証を終えたあと、蜘手と透真は周辺住民への聞き込みを続けていた。日常的な質問をするふりをして、指先から『霊糸』をそっと相手の意識に潜り込ませる。ごく自然な仕草で、相手の心の隙間に忍び入り、わずかな記憶を引き出していく。
「このアパートに以前住んでいた人、妙なことはありませんでしたか? 例えば変な訪問者とか、深夜に奇妙な声がするとか……」
「いやぁ、そんなことは……何分、人が住んでいたのはだいぶ前のことですからねぇ」
相手が曖昧に答えるのを蜘手は微笑んで流しながら、霊糸を滑らせて記憶を撫でる。しかし今回ばかりは、何度繰り返しても「決定的な記憶」にたどり着けなかった。
「──蜘手さん、一般市民の記憶をあまり覗きすぎないでください」
透真が小声で諫めると、蜘手は肩をすくめる。
「俺だって好きでやってるわけじゃねぇよ。でもこの状況じゃ、少しでも手掛かりが欲しいだろ」
結局、聞き込みやカメラ映像の分析など、地道な捜査も進展はなかった。現場には何も映っていない。ただ異常なほど整然と消された痕跡と、何もないという「気配」だけが残されている。
夕方、特対室のオフィスでは美優がディスプレイの前で匿名掲示板をスクロールしていた。画面の淡い光が彼女の疲れ切った表情を照らしている。
オカルト板:【都市伝説】満月連続殺人事件 273【犯人誰だよ】
29 名前:怪異の名無しさん
やっぱ犯人は宇宙人じゃね?
43 名前:怪異の名無しさん
被害者可哀想って言うやつ、どうせ本当は興味ないんだろw
58 名前:怪異の名無しさん
魔方陣ガチだったらしい。月のせいだよ、月の
65 名前:怪異の名無しさん
来月の満月、俺んち来てみろよw
78 名前:怪異の名無しさん
また警察無能スレか
100 名前:怪異の名無しさん
影華たん可愛い
都市怪奇ちゃんねる『【実録動画】廃墟で心臓抜かれた夜』
コメント(最新順):
・カゲサトのせいで現場バレて草
・やらせ臭すぎ
・満月関係あんの?
・もうこの事件も飽きたわ
ツブヤイタッター『#満月連続殺人事件』
「実際ヤバい」
「幽霊案件」
「犯人特定した。知りたい人はリンク先」
「都市伝説化ワロタ」
「隠蔽されすぎじゃね?」
「このリプ欄、意味わかんない。この人たち、現実だってわかってるのかな」
美優の呟きに、久世灯里がカップラーメンの湯気をふうっと吹きながら答えた。
「理解なんてしちゃいないわ。ただ面白がって騒いでるだけ」
灯里の言葉に美優はため息をついた。
「被害者の交友関係も全部洗ったけど、『普通の人』だったみたい。強いて言えば、みんなSNSを多少でも使ってたってことぐらい」
「それ、ほぼ日本人全員です……」
「そうね」
蛍光灯の下、微かな笑いが虚しく消えていく。結局、「決定的な何か」には一向に近づけないままだった。
2-2. 輪郭
数日後──特対室オフィス。全員の机の上に、現場写真・監視カメラ映像・ネットログ・分厚い資料が乱雑に積まれている。
「『人間』の線で浮上したのは、表の捜査で浮かび上がった人物を更に絞って、三人です。と言っても、もちろん現段階では曖昧ではありますが」
透真が、ホワイトボードに名前を書き出した。
──陰山拓海、都市伝説系オカルト配信者、三十代男。度の強い大きな黒縁メガネが特徴的。
──霞月影華、元カルト教祖の娘、精神不安定な女性。浮き世離れをした、どこか灯里にも似た雰囲気を纏っている。
──隠岐祐司、ネットではオカルト板の常連、二十四歳・フリーター。目立った特徴のない──強いて言えば目元の大きなほくろが特徴の平凡な風貌。
「陰山は都市伝説や怪異の実在を主張し、いわゆる未解決事件などと結びつけた内容の「都市怪奇ちゃんねる」の配信者。配信者としての名はカゲサト──あまり成功している配信者ではありません。気になるのは今回の事件について、生配信やスレ書き込みにおいて、報道されていないはずの内容を知りすぎています。それにより、界隈ではにわかに注目を集め始めているようです」
美優が、スマートフォンの画面を横目で見ながら呟く。
「現場の儀式内容なんて、本当は警察しか知らないはずなのに」
「霞月影華は、被害者のひとりとSNSで過去に交流がある。事件後は奇妙な予言めいたつぶやきが多いし、防犯カメラにも不審な挙動が映っていた。過去のカルト宗教との関連で、現在もトラブルが多いようです」
灯里が静かに補足する。
「この人、たぶん何か見えてる感じがする……ちょっと、普通じゃないわ」
「隠岐。以前にストーカー関連のトラブルを起こしていますが──それ以外は、地味ですね」
透真が資料をめくる。
「職歴はバイトを中心にいずれも長く続かず、過去の職場への聞き込みでは主に人間関係や業務のミスで──実質的には解雇に近い形ですね。事件の裏側を暴く系スレで、異様に執着した書き込み。『俺は特別だ、お前らと違う』などと、現実逃避ともとれる自己陶酔系の書き込みも。事件現場周辺でのログイン履歴が頻繁に変動してる」
「何をやってもうまくいかない、典型的なやつだな。しかし現場の土地勘はありそうな動きだな」
雷蔵が低く唸る。
壁際に寄せられたホワイトボード。付箋が何度も剥がされて貼り直されている。蛍光灯の光の下、全員が黙りこくっていた。
「現場でそんな完璧に手がかりを残さず消せる人間なんて、どこにでもいるものなのかな」
美優がぽつりと言う。
「いねえ、あんなやり方してて。普通じゃまず無理だ」
雷蔵が断言する。
「だから一連の事件は全部、普通じゃないってわけだ」
「……にしても、どいつもこいつも決め手がねぇな」
蜘手がホワイトボードの隅で腕を組んだ。事件資料を一瞥し、気だるそうな声で続ける。
「ま、全員怪しく見せかけて、実は誰も犯人じゃありませんでしたってオチだけは勘弁してくれよな」
美優が膝を抱え、ディスプレイの光を見つめたままつぶやく。
「陰山の配信、やっぱり生で観てた人間しか知らない情報多すぎない? ……警察、情報漏れてないよね?」
雷蔵が静かに首を振る。
「内部流出の線も洗ったが、少なくとも現場班に怪しい動きはない。アイツ、どっから拾ってきてるんだ?」
灯里が、タブレットをスクロールする手を止める。
「霞月影華は、事件直後から精神的に不安定になって、身の回りで妙な出来事が増えたらしい。ご近所さんも、夜になると部屋の明かりがずっと点いてるの見たって」
透真が付箋をひとつ剥がして貼り直す。
「隠岐祐司。ネットカフェの防犯映像で、事件前後にしょっちゅう出入りしてた形跡がある。勤務履歴もバイトばかりで転々としていますが、事件現場エリアに妙に縁があるようですね」
微かな沈黙。室内をエアコンのファンが乾いた音で満たす。
「全部を追ってたらキリがないな……」
蜘手が口笛を吹く。
「だが、どこか一か所に必ず綻びがあるもんだ。ま、そういうのを見つけるのが、俺らの仕事だろ?」
全員が、うなずく。だが、情報の海に沈み込むような、奇妙な焦燥だけが胸を満たしていった。
2-3. 素顔
深夜特有の静寂が、特対室オフィスに降り積もっていた。美優のデスクのモニターには、都市伝説系YouView配信者・陰山拓海の映像が流れている。画面の中で、陰山は不自然なほどに語尾を伸ばした口調で視聴者に語りかけていた。
「──こんばんはぁ。陰山拓海でぇす。今夜も『闇の都市伝説』、語っていきまぁす。今日は特にぃ、皆さんが気になっている、例の連続殺人事件についてぇ、特別にお話しちゃいますよぉ」
彼はやせ型で色白、黒縁の眼鏡が異様に大きく、表情はどこか誇張された芝居じみた笑みを浮かべている。背後には都市伝説やオカルト関連の書籍が乱雑に積まれた棚が映っており、薄暗い照明が彼の輪郭を青白く染めている。
「こいつ、情報をどこから仕入れているんだろう」
美優が眉間に皺を寄せ、マウスをクリックして再生速度を倍速にする。画面上で陰山の身振り手振りがせわしなく加速する。
「この現場ねぇ、独自のルートで入手した情報によると──なんと現場に黒魔術のディテールが盛り沢山なんですよぉ。ほら、この写真。現場に残されていた魔法陣の血文字、実はよく見ると微妙にラテン語の文字が間違ってたりしてぇ──実はこれ、この魔術書に載ってる、意図的に崩した文字を使ったものなんですねぇ」
画面を覗き込んだ透真が口元を引き締める。
「こいつの配信内容、事件の核心に近づきすぎているな。現場に実際に行かなきゃわからないような情報まで持ってる。単なる推測ではない」
「でも、陰山が現場に侵入した痕跡はないですよね」
美優が問いかけるように言った。
「防犯カメラも何度か確認したが、現場付近で彼が映った映像は一切ない。なのに──まるでその場にいたかのような話し方だ」
透真が低く呟く。その声音には不快感が入り混じっていた。画面には陰山の配信が流れ続けているが、その内容には微妙な虚無感があった。視聴者数は1000人台を行ったり来たり。コメント欄ではリスナーたちが「犯人お前だろ」「警察に通報したw」などと、冷やかし半分の文字を打ち込んでいる。
「捨てアカウントを作ってDMで接触しましたけど、『信じるか、信じないかは、あなた次第──』なんてはぐらかされてばかりで、イラッとしますよ、こいつ」
美優がため息混じりに問いかけると、雷蔵が椅子を回しながら鼻で笑った。
「この手の奴はな、実際に事件に関わるほど肝が据わってないもんだ。偶然知ったか、妄想がたまたま当たったか、それとも本当に情報ルートが有るのか知らんが、ただ『自分は真実を知っている』ふりをしたいだけの、可哀想な奴さ」
「でも、それだけじゃ済まされない情報が混じっているわ」
灯里が柔らかい声で口を挟んだ。
「彼の話、間違ってる情報も多いけど、その中に本物の匂いがする断片が散りばめられている。まるで、誰かが彼を通じてわざとリークしてるみたいに──」
その言葉に、美優は微かに身震いした。画面の中の陰山は自信満々な表情で画面に顔を近づけ、「お楽しみにぃ」と意味深に笑みを浮かべていた。その表情はどこか人間らしさを欠いているように思え、見ている者の不安を煽った。
霞月影華。灯里はSNSをスクロールしながら、その異様な投稿に眉をひそめた。画面には断片的で意味深な呟きが次々と表示される。
『月がまた、見ている』『明日は心臓が震える夜』
「事件直前に限って、こういう奇妙な投稿が頻発している。普段の生活ツイートとは完全にトーンが違う」
灯里の声には懸念が滲んでいた。投稿時間をグラフ化したものを見ると、事件発生前後だけ夜間に集中している。事件前の平穏な頃は、日中の平凡なつぶやきが多かったことからも、その異変は明らかだった。
「防犯カメラにも彼女が深夜に徘徊する姿が映っています。真っ白なマスクをして、ぼんやりと街灯の下に立っていたり、月をじっと見上げていたり……まるで儀式みたい」
「彼女自身もまた、事件に影響されている可能性がありますね。精神的に何かを『見て』しまった可能性も」
透真が静かに呟いた。その言葉には同情よりも、冷徹な分析の響きが強かった。
隠岐祐司に関しては、特対室の全員が特に困惑を覚えていた。透真と蜘手は隠岐のネット上の行動履歴を徹底的に洗い出していた。
「彼は事件のあった夜、現場周辺のフリーWiFiを利用しています。その後はかなり離れたネットカフェに移動している」
透真の指摘に、蜘手が腕を組み直して眉を上げた。
「だがな、こいつの書き込みを見る限り、ほとんど現実逃避の妄想だぞ」
「こいつ、『自分は特別だ』って言ってますけど、行動地味すぎて、何を考えているのか分からないですよ」
美優が資料を睨みながら首を傾げた。
「何かを知っているように装いながら、実際には核心からずれている。ただの承認欲求なのか──」
灯里は言葉を止めて小さくため息をついた。
「それにしては行動が具体的すぎるわ。フリーターの彼が何の目的もなく、わざわざ現場周辺を移動し続けるかしら?」
「目的か。そいつが一番分からないな」
蜘手は頭を掻きながら呟いた。
「だが、恐らく『何か』と繋がっている奴はいる。俺たちがまだ『見えていない何か』が事件の中心にいるんだろうな」
全員が押し黙った。その静寂の中で、美優の心の中に一つの疑念が芽生え始めていた。陰山、霞月、隠岐──彼ら三人は、ただ事件を利用して注目を浴びたいだけの人間なのだろうか。それとも、本当に『何か』を見てしまった、あるいは『何か』に触れてしまった存在なのだろうか。
情報の波が絶え間なく押し寄せるなかで、彼ら特対室は真実の輪郭を掴めずにいた。画面の中の陰山が再び不気味な笑みを浮かべて語り出す。声だけが妙に耳に残った。
「皆さんは、本当に『見えていますか』──?」
2-4. 混沌
特対室──机の上には大量の資料が乱雑に散らばり、ホワイトボードにはいくつもの推測やメモが重なっては消され、まるで思考の迷路のようになっていた。
「またですよ。ネットで事件の詳細が出回ってる」
美優がディスプレイを睨みつけ、苛立たしげに声を上げる。画面には匿名掲示板やオカルト系まとめサイトが表示されている。
『犯人は人間じゃない』
『心臓を抜き取られた死体が夜な夜な徘徊している』
「もう都市伝説みたいになってる。馬鹿じゃないの」
彼女の苛立ちを受けて、透真が静かに息をつく。
「むしろ、それが狙いかもな。情報の混乱そのものが、事件を隠すための仕掛けになっている可能性がある」
「まったく、厄介な時代だな。誰もが自由に発信できるせいで、俺たちが本当に見るべきものが霞んで見えやしない」
雷蔵がぼやくと、灯里が小さく頷いた。
「情報そのものが、怪異として機能している……なんてことも考えられるわね。真実に近づくほど、遠ざける力が働くように」
蜘手は無言のまま壁に寄りかかり、薄暗い空間を見回していた。手元のスマートフォンには、配信者の陰山がアップした新たな動画が映されている。
「こいつも、事件を広める側の人間ってことか」
画面の中で陰山は楽しげに笑っているが、その笑顔が妙に不自然で、どこか演技じみて見えた。
「でも、本当に『見えている』奴はいねぇのかもな。どいつもこいつも本質からずれている」
蜘手が小さく舌打ちをする。その苛立ちは全員の心情を代弁していた。多くの目が事件を見ているはずなのに、肝心な部分だけが透明になり、誰にも認識されない。
その時、ふと透真が顔を上げて呟いた。
「もしかしたら……誰も『見えない』ように仕組まれているのかもしれない」
全員が彼を見た。静かな声だったが、その言葉には特対室全体の空気を凍らせるような不吉さが宿っていた。
「事件そのものが、『見えない』ように隠蔽されているとしたら? 痕跡の消し方が異様に完璧なのも、犯人が目撃されないのも、全ては『見えないこと』自体が原因なのかもしれません」
美優は息を飲んだ。しかし『見えないこと』そのものが原因──その発想は奇妙に思えた。
「だとしたら、私たちのやり方じゃ見つからない?」
美優が不安げに問いかけると、蜘手は小さく笑った。
「いや、逆だ。見えないものを追うのが、俺たち特対室だろ?」
彼の言葉に、雷蔵も小さく頷く。
「俺たちは『見えない』を覆すためにいるんだ。焦る必要はないさ」
しかし、その言葉とは裏腹に、部屋に満ちる不安は濃くなっていった。情報はさらに錯綜し、事件の真実はどんどん霧の中へと飲み込まれていくようだった。誰もが『何か』を見ているが、その『何か』の正体は掴めないまま、ただ闇の中で右往左往するばかりだった。
2-5. 影
美優はコンビニでエナジードリンクを買い込み、一人夜道を歩いていた。道は暗く、街灯の淡い光が頼りなげに道路を照らしている。スマートフォンを見ながらゆっくりと歩を進める彼女の背後で、かすかに足音が響いた気がした。
ふと立ち止まり振り返る。そこには人影がぼんやりと立っていた。長い黒髪、白いシャツ、異様なほど白い肌。弱々しい街灯の光に透けるようなその姿は、まるで現実味がなかった。
(……あれ?)
霞月影華。美優はかすかに息を詰める。霞月がゆっくりとこちらを向く。月明かりにさらされた顔は白く無表情で、彼女の目はどこか遠いところを見つめ、焦点が合っていない。
「今夜は、月がよく見えるね」
霞月の声は呟くようでいて、まるで直接耳元で囁かれているようだった。美優は不安を隠すように軽く笑って返した。
「ええ、まあ……こんな時間にどうかしましたか?」
「もうすぐ、『心臓を飲み込む夜』が来るよ。あなたも気をつけて」
霞月はその言葉を残し、闇に溶けるように去っていった。美優の前には、再び誰もいない夜道が広がった。足元の空き缶が風で転がり、カラカラと小さく音を立てる。
(心臓を飲み込む夜……?)
背筋がぞくりとした。気を取り直そうと歩き出すが、足が妙に重い。頭の中に霞月の言葉が繰り返し響いている。その時、ポケットの中のスマートフォンが震えた。取り出して画面を見ると、特対室のチャットに透真からメッセージが届いていた。
『南雲、気を付けろ。霞月影華が不審な動きを見せている。単独行動は控えるように』
遅すぎる警告だった。美優の心臓が早鐘を打つ。彼女は無意識のうちに周囲を見回した。だが街灯に照らされた道には、もう霞月の姿はなく、ただ沈黙が辺りを支配していた。
「……いやな感じ」
美優は足早に歩き始める。だが、ふと視線を上げた瞬間、建物の窓に映った自分の姿の背後に影が重なるのを見た。
振り向く。だが、そこには誰もいない。鼓動が耳元で鳴り響くようだった。背後から静かな風が吹き抜け、月の光が美優を照らした。心臓が喉元まで跳ね上がる。その時、かすかに聞こえた気がした──誰かが笑うような、小さな息遣い。
(誰?)
美優の指に無意識に力が入る。孤立した夜道の中で、美優は自分が今『何か』に見られているのだと気づいた。気配は何もない。しかし、彼女をじっと観察し、隙を伺っている『影』の存在を直感した。
(見えていないものが……本当にいる)
それがどんな存在であるかは分からない。だが美優は自分が今、事件の核心に最も近い場所に立たされていることだけは確信した。
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