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CASE:018-4 くねくね

東京怪異捜査録 − 警視庁特対室CASE:XXX −

4-1. 余白


 すべてが終わった後、田に残されたのは虚無の静けさだけだった。風はすっかり凪いで、世界はまるで息を止めたかのように沈黙している。稲の海は先ほどまでの混沌が嘘だったかのように、月明かりに葉先の露を光らせている。そこにはもう、影も、歪みの痕跡さえもなかった。

「……終わったのか?」

 雷蔵がかすかに息を吐き、静寂に問いかけた。彼の声には疲労と、警戒の入り混じった疑念が滲んでいる。蜘手は餓鬼が消えた方向をじっと見つめていたが、やがて虚ろな声で呟いた。

「いや、何が終わったんだろうな……」

 彼の視線の先には、すでに誰もいない。そこにはただ、夜の闇が深く沈み込んでいるばかりだった。灯里は膝をつき、静かに掌で田の土を撫でた。湿った土は指先に冷たく、妙に虚しい感触を残した。その感触が胸の奥底を小さく疼かせる。

「本当にこれでよかったのかな……」

 その呟きは誰に向けられたものでもなく、ただ自分自身に問いかけた言葉だった。答える声はなく、ただ夜の静寂が冷たく耳に響くだけだった。


───


4-2. 花影


 やがて夜が明け、薄ぼんやりとした朝の光が田園を照らし出した。地元住民たちは何事もなかったかのように日常を始めている。田畑を手入れする老人、通学する子供たち、犬の散歩をする主婦──誰もが平穏を疑わず、この場所で起きた怪異など知らぬ顔だ。噂はまだ消え去らないだろうが、それもじきに本当の『ただの噂』となるだろう。灯里たちは静かにその様子を見守った後、淡々と現場写真や簡単な聞き取りを済ませ、撤収の準備を始めた。

「勾玉ごと室長が呑み込んじまったか。証拠を握りつぶして次の一手を隠す──やる事がえげつねぇな」

 蜘手は空っぽになった手のひらを見下ろしながら、小さく舌打ちをした。

「まぁ、死人が出てねぇだけマシなのかもな」

 雷蔵は軽く言いかけて、灯里の表情に気づいて言葉を飲み込んだ。彼女の瞳にはまだ疑問の色が消えていない。


 去り際、灯里はふと畦道にぽつんと立つ小さな地蔵に目を向けた。いつの間にか、その足元には白い花が一輪だけ置かれている。誰が、いつ置いたのか──それは分からない。ただその花だけが、確かに何かを静かに弔っているように見えた。灯里は地蔵の前に立ち、そっと手を合わせた。無言の祈りは何に向けられたものか、自分自身でもよくわからなかった。ただ、彼女は静かな違和感を覚えながら、この田圃に背を向けた。


 灯里たちが去った後、地蔵の影だけが朝陽を浴びて伸びていた。花の影は、ゆらりと微かに揺れていた──誰もそれに気づくことはないままに。


───


4-3. 余滴


 翌日、特対室に帰投し報告書作成の作業を淡々と進める灯里の指は、キーボードの上を静かに滑っている。モニターに映し出された文字列は冷たく簡潔で、それがかえって事件の輪郭をぼやけさせているようだった。

「……勾玉状の異物、および怪異の本体については適切に回収済み」

 室長からの報告は、その一文だけだった。いつものことながら、その簡素さは冷徹で、どこか無機質な空虚感を彼女の胸に残した。

「適切に、ねぇ……どういうつもりかしら」

 灯里が微かにため息を漏らすと、蜘手が苦笑しながらコーヒーをすすった。彼のワイシャツの右前腕には、固定のためのサポーターがうっすら透けて見える。帰投後、尺骨にヒビが入っているのが判明したのだ。蜘手は先程から時折左手の指を鳴らし、何かを探るような動作をしている。霊糸──不可視の糸で何かを探っているのだろう。例えば、自分たちの会話を聞いている『式神』が居ないかどうか。

「仕方ないさ。いつだって、こういうのは室長の管轄だ……ただ、『後始末』が室長の仕事なのは前からだが、今回は笑えねぇ。あの太極図は、どう捻っても制御不能な兵器だ。使い道を一言も漏らさず抱え込むなんざ、腹の底が全然読めねぇ」

 雷蔵は苦々しい表情で自分の缶コーヒーを傾けた。雷蔵もまた右脛骨にヒビが見つかったが「こんなものすぐに治る」とサポーターすらしていない。

「しかし、あの爺さんが最後に『喰った』のは何だったんだ? 怪異そのものを喰えるってのか?」

「さあな。式神なんて、それ自身が怪異みたいなもんだ。考えるだけ無駄さ」

 蜘手の皮肉に雷蔵は短く鼻を鳴らしたが、その目には疑念の色が浮かんでいる。

「結局、俺たちも目撃者でしかなかったわけだ。室長の野郎があれを回収して何に使うつもりなのか、何もわかっちゃいねぇ。単に蒐集欲ってならまだしも、あいつが駒を握ったままほくそ笑んでるなら、東京が丸ごと将棋盤だ」

 雷蔵の呟きに、誰も返事を返さなかった。ただ沈黙が、オフィスの空気を重くした。

(それでも、飢えは尽きぬ……)

 灯里は背筋に薄ら寒いものを感じ、小さく身を震わせた。結局、何が調和したのか。問いは虚しく空中に漂うだけで、答えは出ない。灯里の手は無意識に、デスクの端に置かれた白紙のメモ用紙をそっと摘み取った。指先が紙に触れると、ふと昨日まで手にしていたあの冷たい勾玉の感触が蘇る。

「……もう何も残っていないはずなのに」

 彼女の呟きは、かすかな余滴のように室内に響いたが、すぐに空気に溶けて消えた。


 特対室はこうして、いつも通りの日常に戻っていく。事件の痕跡はごく短い報告書に纏められ、データベースに収められる。その後は再び類する怪異が出現するまで、誰もそれを開くことはないだろう。灯里が資料を整理している間、蜘手と雷蔵は軽い雑談を交わしながらそれぞれの作業に戻っていった。オフィスには再び日常の空気が漂い始めたが、その表面を薄く覆う虚無感は、決して拭い去れない。

(怪異は本当に消えたの? それともただ、またどこかで静かに息を潜めているだけ?)

 灯里の胸に去来した疑念は、彼女自身をひどく居心地悪くさせるものだった。やがて夜が近づき、昼と夜の境のないオフィスには変わらず人工の蛍光灯の明かりだけが冷たく注がれ続ける。その中で灯里はもう一度、静かに報告書のファイルを閉じた。

「結局、私たちはいつも通り目の前の『結果』を受け取っただけ」

 彼女の独白に返る言葉はない。この事件は特対室の記録の片隅に小さく刻まれ、やがて記憶からも薄れていくだろう。けれど、灯里の胸の奥深くには何かが小さく引っかかり続けている。静かなオフィスの沈黙が、彼女の心を再び包み込んだ。


───


4-4. 静夜


 事件の幕が降り、それぞれが静かな夜を迎えていた。雷蔵は自宅のベランダに立ち、夏の夜空を見上げていた。いつもならば肌に感じる、微かな雷の予感が今夜は全くない。平穏で、静かで、それが逆に不安を煽った。

「静かすぎて気味が悪いな……」

 呟きながら煙草に火をつけると、煙はまっすぐ空へ溶けていった。まるで今回の事件で何かが奪われたように、雷雲さえ影も形もなく消え去ったかのようだった。


 一方、蜘手は誰もいないオフィスに残っていた。指先でゆっくりと霊糸を紡ぎながら、彼は蛍光灯をぼんやりと見つめている。いつもなら糸を軽快に動かす指先も、今夜はどこか鈍く、絡まりがちだった。

「……まるで、操るべき糸が見つからねぇみたいだな」

 低く呟き、指先を止める。糸は静かに崩れ、床に落ちて溶けて消えた。蛍光灯はかすかにノイズを放ち、その音が彼の内面にも染み込んでいるようだった。


 灯里は、自室のデスクで一人ノートに向かっていた。無意識にペン先はゆっくりと動き、調和という文字を書きつけると、それ以上は進まなかった。

「本当に調和したのか……?」

 疑問は喉元に詰まったまま、飲み込めずに胸の奥で揺れていた。完全に調和したように見えた陰陽の渦も、結局は餓鬼によって飲み込まれたのだ。その行為が調和の完成を意味するのか、それとも単なる『回収』に過ぎないのか──答えは出ないまま、ペン先は力なくノートの上をさまよった。


 彼女はふと手元の資料に目を落とした。そこには陰陽道の太極図や、式神に関する古い伝承が書かれている。黒いくねくねが現れた区域、文献で曰く付きという記載が突如現れたのは、陰陽道が禁止された明治時代。隠れ潜んでいた何某かの陰陽師が近代化の波、変化に呑まれ、何かを守る──いや、変化を拒むために『陰陽道そのもの』の式神を作ろうとしたのだろうか。それは時代への執着、妄執──狂気か。そして失敗し、自身が狂気に呑まれ、消えていったのか。文献が残っていない以上、全ては推測に頼るしかない。調和と対称、片割れの欠落──陰と陽が巡り合い、完全な和を取り戻す象徴だったはずだ。なのに、心の底で引っ掛かる小さな違和感が消えない。

「陰と陽、巡りて和となる──」

 どこか遠く、餓鬼の低く乾いた呟きが耳に蘇る。その言葉には深い余韻と、救われぬ飢えが滲んでいた。


 そして、深夜の東京の下町。街灯の届かぬ暗がりの路地裏で、餓鬼がひっそりと立ち尽くしていた。その姿は闇の中に溶け込み、誰の目にも触れない。だが、その指先がゆっくりと琵琶の弦を撫でると、低く深い音色が微かに空気を震わせる。

「主の……飢えもまた……尽きぬ……困り者よ」

 骨ばった指で腹をさすり、琵琶を静かに爪弾く。その音色は夜の静けさの中に染み込み、やがてどこにも届かず消えていった。


 くねくねが『回収』された田圃では、再び風が稲を撫でていた。誰も見ていない場所で、稲穂がかすかに揺れ、まるで何かを探しているかのようにささやき合っている。


 怪異は本当に去ったのか──それともただ、再び目覚める時を待ち、静かに息を潜めているだけなのか。答える者はなく、夜は深まり、東京は静かな闇に包まれていった。



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