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CASE:018-3 くねくね

東京怪異捜査録 − 警視庁特対室CASE:XXX −

3-1. 予兆


 夕闇が静かに降りてきた。空は薄墨を溶かしたように暗くなり始め、田圃一面の稲が静かに風を孕んで揺れている。緑の波は徐々に輪郭を失い、夜の気配に溶け始めていた。人払いが済んだ田圃に残るのは、灯里、蜘手、雷蔵、そして琵琶法師だけだった。畦道にひっそりと佇む地蔵が、唯一の傍観者のように無言で事態を見守っている。辺りは完全に静まり返り、遠くで微かな雷鳴が地響きのように低く響いた。灯里はふっと小さく息を吐き、湿った空気を肺に取り込んだ。肌を撫でる湿気は不快で、神経を逆撫でするような違和感をもたらしている。

(これが失敗したら、為す術がない……)

 そんな不安が胸の奥で揺れたが、すぐに意識の深みに押し込めた。今、迷っている場合ではない。

「蜘手さん、轟さん。念のため精神と外界の境界に防壁を張っておくことを勧めるけれど……」

 灯里が慎重に言葉を選ぶと、蜘手はかすかに笑いながら首を横に振った。

「いや、反応が鈍くなる。こいつは繊細な作業だからな」

「そういうこった。俺たちは俺たちの勘と腕を信じるしかねぇよ」

 雷蔵も短く応じる。その口調には、静かな覚悟が滲んでいた。

「わかった。無理はしないで」

 灯里は淡く微笑み、再び呼吸を整えた。彼女の意識が境界へと向けられ、周囲の空気がじわりと歪みを帯びるのを感じる。


「始めるわ」

 灯里の静かな合図に、蜘手が一歩前へ出て、目を閉じて両手を広げた。指先から霊糸がゆっくりと伸び、黒い勾玉の周囲の空間へと沈み込んでゆく。慎重に、慎重に──

「……こいつか? いや──いたぞ」

 蜘手が突然、顔をしかめた。

「うおっ、重い! でかいアカエイ釣っちまった時の十倍重い!」

 次の瞬間、蜘手の身体がよろめき、逆に境界に引き込まれそうになる。だが雷蔵が咄嗟に蜘手を支え、その霊糸に『雷獄』を流し込んだ。

「落ち着け!」

 その言葉と同時に霊糸がぴんと張り詰め、境界の向こうで何かが静かになる感覚が伝わった。

「お、効いたぞ。おとなしくなった……ん? 奴さん、こっち側に向かってきてるぞ」

 蜘手が乱れた呼吸を整えつつ、何とか体勢を立て直した。それを見届けた琵琶法師がゆっくりと琵琶を構え、古びた弦を静かに弾き始める。低く響く音は空間を撫で、歪ませ、微かな振動をもたらす。灯里は唇を軽く噛み、集中を保つ。視界の端で歪んだ光が揺れ、かすかな白い気配が再び田の中央に集まってきた。

「来る……」

 雷蔵が低く呟くのが聞こえた。湿った田の土を踏みしめる彼の靴音が微かに軋む。彼らの視界の端で、くねくねとした白い影がゆらゆらと揺れ始めた。それを直視しようとすると鋭い痛みが頭を襲い、灯里は慌てて目を伏せた。

(直接見てはいけない……)

 意識を境界の維持だけに集中させる。琵琶の音色がますます濃く、深く空気を支配していく。その瞬間、蜘手が小さく呻いた。

「黒い方も来るぞ……」

 黒い勾玉から、ずるりと滲み出るように、もう一つの影が現れた。それは見る者を不安にさせるほど濃厚な闇だった。歪み、揺れ動きながらも、視界の隅を侵食していく。白と黒、ふたつの影が田の空間を占めた瞬間、琵琶法師の音色が一層鋭く響き渡った。空間が軋み、ひび割れたような異質な音が耳の奥で反響する。灯里は必死に境界をコントロールし、両者を中央へと誘導するルートを作った。蜘手は目を瞑り、全感覚を霊糸に集中している。

「もう少しだ、こっちだ……」

 蜘手が微かに呟く。その声に応じるように、ふたつの影がじわりと中央へ集まり始める。二つの力が接近するにつれ、周囲の空気がぎゅっと押し潰されるような圧迫感に満ちていく。


「来るぞ──!」

 雷蔵が声を上げると同時に、琵琶の音色が突如として低く濁り、空間がまるで逆回転を始めたかのように感じられた。全身の感覚が狂い、上下も左右も、時間の流れさえも定まらない──。

「何が起きてるんだ!」

 雷蔵の苛立った叫びに、蜘手が歯を食いしばり応える。

「調和……いや、回転してる……!?」

 灯里は目を瞑りながらも境界を通して、白と黒の影が徐々に絡み合い、一つの回転を始めるのを感じていた。それは美しくも恐ろしく、感覚を離さない。

「始まった……太極図の回転が……!」

 その呟きが薄暗い空間に溶け、すべての輪郭が徐々に溶解していった。


───


3-2. 調和


 田の中心で、白と黒の影がゆらりとすれ違い、次第に絡み合いながら回転を始めた。その動きはまるで、長い間引き離されていた何かが互いを求め合い、ようやく再会を果たしたかのようだった。灯里は息を殺しながら、それを境界を通して捉えていた。脳の奥に鋭い痛みが走る。それでも彼女の感覚は研ぎ澄まされ、境界の振動を全身で感じ取っていた。

「陰陽道では、太極図をすべての調和の象徴と見る……」

 灯里の呟きは、吐息のように微かだった。

「もしこの影が式神として使役される存在なら、霊的・物理的な害意を調和できる究極の護符となる。でも……」

 彼女の言葉に、蜘手が鋭く反応した。

「バランスが崩れれば暴走して、逆に害をなす存在になるってことか?」

 灯里は静かに頷く。

「白は精神を、黒は肉体を侵し、完全に壊してしまうかもしれない」

 蜘手が苦笑混じりに頭を振った。

「まさかこれが、式神の片割れだったとはな。成功した──いや、失敗した式神化の成れの果て、か」

「つまり、昔にそんなことを試みた陰陽師がいたってわけか?」

 雷蔵が低く問いかける。灯里は小さく首を振り、それに応えた。

「わからない。でも、この歪さは何かが足りないまま動き出したもの。片割れのままだから、こんな歪んだ動きを繰り返していた……」

 蜘手は二つの勾玉を手に取り、慎重に並べてみせる。石が静かに重なり合い、一つの完璧な太極図が形作られた。


 だが次の瞬間、琵琶の音色が不自然なまでに低く濁り、空間全体が強烈に歪み始めた。風もないのに稲が突然ざわめきたち、渦巻く。ぶつぶつと水音が湧き立ち、天地が回転するような錯覚に全員が襲われる。

「な、なんだこれは……!」

 雷蔵が咄嗟に叫ぶが、その声は歪んだ空間に吸い込まれ、ほとんど聞き取れない。蜘手も何かを叫ぼうとしたが、声にならず、ただ強烈な眩暈に耐えながら膝をついた。高周波、低周波──あらゆる帯域のノイズが混ざり、吹き荒れる。稲もまた白と黒の回転を中心に、荒波のように大きくうねる。蜘手の腕に突如、ズキリと痛みが走る。雷蔵もまた、脚を気にしている。

(こいつは──失敗なのか?)

 白と黒の回転はますます激しくなり、吹き荒れ鼓膜すら破らんとするホワイトノイズの奔流に、蜘手たちは思わず耳を塞ぎ、屈む。台風──風はないが台風の暴風のような、少しでも気を緩めれば体ごと吹き飛ばされてしまいそうな暴圧。


「おい、こいつは──」

 雷蔵が何かを叫びかけた、その瞬間だった。今までの暴圧が嘘のように、唐突な静寂が訪れた。荒波のようにうねっていた稲は突如として凪ぎ、息を呑むような静けさの緑の中に、白と黒の陰陽模様がはっきりと現れる。吹き始めた生温かい風がゆっくりと螺旋状に渦を巻き、周囲の空気が不思議な気配を帯び始める。

「陰と陽、巡りて和となる──」

 琵琶法師が低く呟き、再び琵琶の音を響かせ始める。その音色は徐々に穏やかで澄んだものへと変化し、聴く者の心を静かに揺さぶった。

「調和、か……」

 雷蔵が静かに呟く。視界の端では白と黒の影が美しく絡み合い、ゆっくり渦となって調和を取り戻し始めているようだった。長く張り詰めていた緊張が緩み、肩の力が抜けてゆくのを感じる。

「おい、轟」

 蜘手が雷蔵に向けて呟く。その指先からは霊糸が漂っている。

「黒い染み、消えてるぜ。これが調和ってやつの影響かね」

 田の中央では、白と黒の影が完全に溶け合い、完璧な太極図として回転していた。

「これが、完全な調和……?」

 灯里は無意識に呟いたが、その言葉には疑問と不安が入り混じっていた。田の中心、凪いだ稲の緑を切り裂くように、白と黒の太極図が静かに──しかし確かな意志を持って回転している。静寂を超えた静寂、どこか異界じみた美しさ。その均衡は、恍惚のみならず不安すら呼び起こした。

雷蔵がぽつりと呟く。

「成程な、これが本来の姿なのか。片方だけじゃ決して届かなかった均衡、ってやつか」

 だが、その美しいはずの調和は、どこか禍々しい予兆を孕んでいるようにも思えた。灯里の胸には、不穏な余韻が残り続けている。

(本当に、これで終わり……?)

 彼女のその疑問に応えるように、琵琶法師がゆっくりと琵琶を止め、重い沈黙が辺りを支配した。


 その静けさを破ったのは、不気味な音だった。琵琶法師の口元が、不自然なほど大きく、みちみちと音を立てゆっくりと裂けてゆく。その異様な光景に、全員が凍りついたように動けず、ただ目を見開いていた。

「何だ……こいつ……!」

 雷蔵が呻いた時には、既に遅かった。琵琶法師──いや、式神『餓鬼』の裂けた口は体格の限界を遥かに超え、巨大な奈落のように広がっていた。そして、その深淵が美しい太極図の渦を丸ごと飲み込んでいく──。

「──主に、連れてくるよう頼まれたのでな」

 餓鬼の低く響く声が告げたその言葉は、雷鳴のように重く、残酷に響いた。田からは一切の痕跡が消え去り、勾玉も手元から失われ、そこにはただ虚無だけが広がっている。


 蜘手も雷蔵も、そして灯里さえも、何も言葉を発することができなかった。彼らの立つ畦道を撫でるのは、ただ空虚な闇を連れてくる風だけだった──。



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