CASE:018-2 くねくね
東京怪異捜査録 − 警視庁特対室CASE:XXX −
2-1. 黒影
夜明けの淡い光が、民宿をぼんやりと照らしていた。徹夜の痕跡を隠すように、灯里は小さく欠伸を噛み殺しながら資料を閉じる。机の上には付近の古代遺跡や民俗信仰についての古びた文献が積まれていた。
「やっぱり、特定の勾玉信仰があったとは記録にないのよね……」
彼女の視線は昨晩拾った白い勾玉に向かった。その石は何かを訴えるかのように、ひんやりと手のひらに馴染んでいる。
「眠そうだな、灯里くん」
部屋の扉を軽く叩きながら蜘手が顔を出した。
「少しね。それで、透真くんからの追加情報って?」
「ああ。面倒な話だ」
蜘手は苦笑いしながらスマホを掲げた。
「しばらく前に登山中の男性が、黒く『くねくね』と動く影を目撃したらしい。その数日後、交通事故に遭って重傷。まだリハビリ入院しているようだが、もう歩けない身体だそうだ」
灯里の背筋に冷たい痺れが走った。昨夜の白い影に続いての、黒い影──。
「山……」
「灯里くん、何か気付いたか?」
「ええ。明治の文献に、山の禁足地……というほどではないけれど、地元では『近寄らないほうがいい』と昔から噂されているところがあったわ。具体的な伝承は残ってないけれど、いわゆる『曰くつき』の場所」
「また随分と物騒な話だな……」
蜘手は小さくため息をついた。
「蜘手さん、轟さんと病院で男性から直接証言を聞いてきてくれる? 私はもう少し、この勾玉のことを調べるから」
「了解。無理するなよ」
蜘手が去ると、灯里は改めて机上の勾玉を指先で軽く撫でた。
(白と黒──一体、どういう関係なの……?)
薄暗い病室には、乾いた薬品臭が染みついていた。窓辺に置かれた車椅子の上で、男性は空虚な視線を床に落としていた。
「──背後から急に、ぞわっと気配を感じたんだ」
男性の声は細く、震えていた。
「振り返ったら、そこに黒くてくねくねとしたものが揺れていて……その瞬間、頭の奥で何かがぐらりと揺らいで、恐ろしくなった」
「その四日後に事故か」
雷蔵が淡々と確認すると、男性は掠れた声で頷いた。
「あれを見た瞬間から、何かが狂った気がする。それに事故の直前──目の前に、視界に黒い染みみたいなものがブワッとひろがったんだ。絶対に関係がある。とにかく、俺はもう山には登れない体になった……」
男性は唇を噛んで目を伏せた。その沈黙の中で、蜘手はそっと男性の肩に手を置き、目を閉じた。指先から不可視の霊糸がするすると伸び、男性の精神を静かに探る。──何もない。いや、正確には何もないというよりも、何かが奪われたような、冷たい裂け目がぽっかりと開いている。
「──話からすると、黒は見たら即座に何かが起こるってわけでもなさそうだが……蜘手、どうだった?」
「……たしかに精神自体には問題なかった。ただ、痕跡がある」
「それは何だ?」
「黒い染みのような、穴のような……記憶──というか、わからん。初めて見た。とにかく『欠落』がそこに残っている」
蜘手の言葉に雷蔵は眉間を寄せた。
「見分調書によれば、フロントガラスにガラスが変質したような黒い染みってことだったな。また得体の知れないものが増えたってわけか」
「そういうことだ」
帰りの廊下で討議をしつつ二人が病院を出ると、玄関前で待っていた灯里が合流した。
「何かわかったか?」
「やっぱりこの辺りには特別な勾玉信仰は見つからない。でも、高校の校章に勾玉のモチーフがあったり、古代遺跡が発見された記録もある。完全な無縁とも言い切れない」
「つまり、隠された信仰の可能性か」
蜘手が難しい顔で呟くと、灯里は静かに頷いた。
「ええ。そこに意味があるかどうかは分からないけど……」
その後、三人は男性が黒いくねくねを目撃したという山の現場を訪れた。鬱蒼と茂った林は妙に静かで、風のざわめきすら聞こえない。探索の途中、雷蔵が不意にしゃがみ込み、黒く煤けた何かを摘み上げた。
「──また勾玉か」
蜘手の呟きが、静かな山林に妙に響いた。雷蔵の掌の上で、小さな勾玉が奇妙な黒さを放っている。
「白と黒──これだけ偶然が重なるものかしら」
灯里は喉元までせり上がる不安を押し込むように言った。
「白いくねくねと黒いくねくね。発狂と事故。精神と肉体。まるで対称的」
「まったくだ。吹っ飛ばして終わりなら楽なんだが、まだ得体が知れない。田と山、神霊の類が絡んでるのかもな」
雷蔵が忌々しそうに呟き、拳を握りしめた。
「二体の『くねくね』か。悪趣味な冗談だぜ……」
その言葉が静かな林の奥へ吸い込まれた。彼らの心に刻まれた不穏な予感は、次第に確かな輪郭を帯びつつあった。
───
2-2. 対影
民宿に戻った三人は、拾った黒い勾玉を白いそれの隣に並べ、しばらく無言で見つめていた。
「偶然にしては、できすぎてるよな」
沈黙を破ったのは蜘手だった。冗談めかした口調だったが、その目は決して笑っていない。
「被害者の症状、くねくねの動き、そしてこの勾玉。白と黒が対称を成している」
灯里も慎重に頷いた。
「役小角の前鬼と後鬼のように、ペアで現れる存在は伝承にも残ってる。でも、『くねくね』に似た存在は知らないわ」
雷蔵が眉を顰め、苛立ちを隠さず口を開く。
「前鬼と後鬼って式神だろ? 式神なんて、そんなもんが野良で出てくるもんなのか? 式神なら使役者がいるだろうが、うちの室長以外に今どき式神を使う奴がいるとは思えねぇが」
「そこが問題なのよね……」
灯里はそっと黒い勾玉を指先でなぞった。白と同じように、冷たく湿った感触が指に残った。
「……やっぱり勾玉よね、これ。この遺跡出土のものの写真と形が似てるわ」
蜘手が軽く勾玉を指で弾く。
「お守りの形とか? 勾玉ってあれだろ? 元は動物の牙とか、そういうのを身に着けてその力を得るって」
雷蔵が眉を寄せる。
「それじゃ、やっぱり封印じゃないのか。消えた後に残ってたってことは。本来は力を得るために身につけるものが、封印が弱まってて出てきちまうんじゃねえか? 『境界』で封印を強化してみたらどうだ?」
灯里が少し困ったように首をひねる。
「……でも、封印っていうには軽すぎるし……呪物や形代って雰囲気でもない。やっぱり最初に感じた印象は、『残渣』なのだけれど──」
しばらく石を弄んでいた蜘手は、無意識に指先で勾玉をテーブルの上で弾いていた。その小さな音が、静かな室内に響いた。一瞬、ふたつの勾玉が互いに凹み合うように並ぶ。
「おい、蜘手。イライラするのはわかるが、さっきからうるさいぞ」
雷蔵が小声で呟く。ふと窓から差し込んだ夕日が、テーブルの上のふたつの石の影を伸ばし、奇妙に絡み合った一つの模様に変えた。灯里はその瞬間、妙な違和感を覚え、思わず声を上げた。
「……いや、私たち、形から先入観で勾玉って思っていたけれど……」
「ん?」
「魚?」
「魚って、これがか?」
蜘手が怪訝そうに尋ねる。
「──太極図。陰陽魚の……」
その呟きを聞いて、蜘手が小さく笑った。
「ああ、そっちの魚か。ってことは『調和』ってやつだな?」
灯里の表情が硬くなった。
「もしこれが陰陽を示すものだとすれば、今の白黒の『くねくね』は極端に寄っている状態かもしれない。二体を引き合わせれば、バランスがとれて調和が戻るかも」
「それが答えか?」
「わからない。でも、試す価値はあるかもしれない」
灯里の目には、かすかな決意が灯っていた。雷蔵が腕を組んで、壁にもたれながら言った。
「おい爺さん。あんた白い方は呼び寄せてたよな。黒い方も可能なのか?」
雷蔵の問いに、部屋の隅に静かに座っていた琵琶法師がゆっくりと頷いた。その仕草には、妙な迫力があった。
「なら、やることは決まりだ」
雷蔵が低く呟く。灯里が目を伏せ、わずかに頷くと、蜘手は肩を竦めて小さく息を吐いた。
「まだ即時的な危険が少なそうな黒の方から捕獲するか。まず轟が雷獄で弱らせて、俺が霊糸で捕まえ、そのまま白のくねくねが現れた田んぼに誘導する」
蜘手の言葉に、雷蔵が小さく鼻を鳴らした。
「単純でわかりやすいな」
「念の為、精神と外界との境界を厚くしておくわ。少しぼんやりするかもしれないけれど、接触の影響は多少でも抑えられるはずよ」
灯里の声が静寂に溶けていく。深夜の山中には、蒸したような熱気が重く漂っていた。琵琶法師が琵琶の弦を静かに弾くと、歪んだ音が闇に広がり、山の空気が急速に冷え込んでいく。三人の息が白く浮かび、目の前の闇が濃度を増していった。
「来るぞ」
蜘手の警告と同時に、黒い影が視界の隅に浮かび上がる。ゆらりゆらりと揺れるその動きは、見る者の遠近感を狂わせるように不安定だった。
「見るなよ。こっちの方も念の為、直視すんな」
雷蔵が囁き、掌から青白い稲妻が迸った。瞬間、影はわずかに震えたように見えたが、雷蔵の表情は険しかった。
「手応えが変だ。当たってはいるはずだが、受け流されているような、暖簾を押しているような感じだ」
「それでも動きは鈍ってる。今だ!」
蜘手が指先を伸ばし、霊糸を放った。不可視の糸が黒い影をしっかりと絡め取り、その場に固定する。しかし次の瞬間、蜘手の眉が険しく歪んだ。
「重い……! 予想以上だ。移動は無理だぞ、これ」
彼の額に汗が浮かぶ。霊糸が張り詰め、わずかに軋む音が聞こえた。
「ちっ、久世! 俺の精神の境界、ギリギリまで厚くしろ!」
「轟さん、まさか──」
「いいから、やれ!」
雷蔵の勢いに気圧され、灯里は言われた通りに境界を操作する。その瞬間、雷蔵は意識が厚い膜に覆われたような感覚に包まれる。視界も、音も、触覚もまるで水底にいるように曖昧なものになる。雷蔵はそのまま千鳥足のようにふらふらと黒い影に近寄り、それを押し始めた。
「おい、轟! そんなもん直接触るな!」
蜘手が叫ぶが、雷蔵は聞こえていないのか構わず押し続ける。『雷獄』の出力は更に上がり、神経に雷流のパルスが巡る。肌には火花が走り、筋肉に静脈が浮かび上がり、破裂しそうなほどに盛り上がる。その脚が土に沈み込み、ミシミシと音を立てる。神代に書かれる雷神、益荒男の想起──と、黒い影が、まるで巨大な鉛が引きずられるかのようにずず……と動き始めた。踏まれた地中の小石が弾け、舞い上がった土がパラパラと降り注ぐ。
「くっそ! こんなんじゃ夜どころか年が明けちまうぞ! 蜘手、もっと気張れ!」
雷蔵が叫ぶと、蜘手がそれに応えるように霊糸を手繰る腕にさらなる力を込める。霊糸の高周波の軋み、つまりは蜘手の精神の軋む音が耳を刺す、黒い影の移動する勢いが更に増した瞬間──プツンと糸が切れた。急な張力の抜けに、蜘手は地面にもんどり打って倒れた。
「あー、ダメだ。参ったな、埒が明かねぇ。このまま続けても朝まで引きずることになる。住民に目撃されりゃ二次被害確定だ」
灯里が雷蔵の精神の境界を戻しつつ、小さく唇を噛んだ。
「仕方ないわ。今は撤退しましょう」
琵琶法師が終わりと判断したのか、何かをぶつぶつと呟きながら弦を鳴らす。まるで物語の終わりを告げるかのような音色が響き、それに応えるように黒い影は音もなく闇に溶けて消えた。
「しかし、黒に接触したってことは──」
蜘手の霊糸が、蜘手自身と雷蔵を探る。
「あーあ。俺は両腕、お前は両足だ。例の黒い染みが出来てる。俺たちにも時間制限ができちまったな、轟。骨折り損の厄災儲けだ」
蜘手が苦笑いで呟くと、雷蔵は舌打ちをひとつしただけだった。山の静寂の中に、三人の苛立ちだけが妙に鋭く響いていた。
───
2-3. 糸口
灰色の静寂が、夜明け前の室内を支配していた。三人はそれぞれ腰を落ち着け、目の前に並ぶ二つの勾玉をぼんやりと見つめていた。まるで重い影が背中に貼り付いたように、誰もが口を閉ざしたままだった。
「結局、怪異を無理に動かそうってのが間違いだったんじゃねぇか? よくあるだろ、四つ辻とかの地形に執着してる怪異。あれもそんな類じゃねえか?」
雷蔵の低い声がその沈黙を破る。指先に軽く火花を走らせては消し、その繰り返しをしながら苛立ちを紛らわせているようだった。蜘手が椅子の背にもたれ、ため息まじりに応じた。
「ああ。あれだけ重けりゃ、引っ張ってどうにかなるもんじゃないってことだな。透真の奴がこれを『視』れば、何かが分かるかもしれんが……」
勾玉を見ながら、蜘手は口を噤んだ。怪異の「見るな」の特性ゆえに、透真に不確定要素を踏ませるわけにはいかない。役割の限界──そのもどかしさが、室内の空気をさらに重くしていた。
灯里は無言のまま、目の前の勾玉を指先でゆっくりと撫でていた。感触を確かめるように指がその表面を滑る。やがて彼女は目を細め、小さく呟いた。
「……残渣、か」
蜘手と雷蔵が、同時に灯里に視線を向ける。
「これ自体は本体じゃない。ただ、この石は『何か』が強く作用した時に現れる痕跡──つまり『力の残渣』」
蜘手が興味深げに身を乗り出した。
「残渣があるってことは、それを通じて本体にアクセスできる可能性がある、ってことか?」
「ええ。境界を少しだけ開けば、この残渣を糸口に向こう側の本流を探れるかもしれない」
蜘手は不敵に唇の端を歪めた。
「つまり、俺の霊糸を境界に通して、本体を直接引きずり出す、と?」
「危険だけど、他に手がないの」
灯里は躊躇なく頷いた。三人の間に、一瞬の沈黙が訪れる。その静寂を破ったのは、琵琶法師だった。
「陰と陽、片割れのまま泣き続ける──」
ひび割れた、低い声音が部屋の隅から響く。その一言は妙に深い余韻を残した。
「引き合わせれば調和できるかもしれない……でも、失敗すればもっと酷いことになる可能性もある」
灯里が慎重に続ける。彼女の声には不安と覚悟が同居していた。
「どちらにしても、時間は限られている。やるしかねぇだろ」
雷蔵のその言葉に、全員が沈黙のまま頷いた。
室内の時計が、秒針の音を残酷に刻んでいく。やがて灯里がゆっくりと椅子から立ち上がり、指示を出し始めた。
「今夜が勝負。境界を開く準備をしましょう。式神さん、また協力してもらえますか?」
琵琶法師は無言のまま、ゆっくりと頷いた。彼の指先が静かに琵琶の弦を撫でる。その動きは奇妙に儀式めいていた。
灯里は小さく深呼吸をした。胸の奥で鼓動が激しく打つ。
「──次に失敗は許されない」
呟きは自分に言い聞かせるようだった。
作戦会議が終わった後、灯里は一人で部屋を出て、狭い廊下の壁に背を預けた。室内の重い空気から解放されてもなお、彼女の中には不安が渦巻いていた。黒と白、精神と肉体、対称性を持った二つの怪異。その正体はいまだ掴みきれない。灯里は軽く目を閉じ、静かな廊下で頭を整理した。脳裏に浮かぶのは、見てはいけないと叫ぶ本能の警告と、それを振り切って境界を開こうとする自分たちの姿だった。
ふと、彼女の背後で微かな琵琶の音色が響いた。琵琶法師が静かに弾いているようだった。弦が揺れるたびに、境界が軋むような、見えない世界との境目が緩んでいくような感覚が灯里を襲った。蜘手が廊下に出てきて、壁にもたれながら灯里を見つめた。
「大丈夫か、灯里くん?」
「ええ。ただ、境界を開くということは──」
「向こう側と繋がるリスクもあるってことか?」
「そう。私たちが怪異を見つめている間に、向こうもこちらを見つめている」
灯里の声は低く、深刻だった。蜘手は肩を竦めて、無理に微笑を作った。
「ま、俺たち特対室はいつだってそんなギリギリの境界線上にいるさ」
「ええ……分かってるわ」
灯里は微かに笑ってみせたが、その表情にはやはり影が残った。
そして、蜘手が背を向けてオフィスへ戻ると、灯里はそっと掌を開いた。そこには白い勾玉が静かに冷たさを放っている。
(調和か災厄か──)
その問いに答えるように、琵琶の音が再び響き、廊下を満たした。夜明けが迫る中、灯里はもう一度だけ小さく息を吐き出した。
次の作戦は、決して後戻りのできないものとなる──それは誰もが理解していた。
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