CASE: EX 新人研修
東京怪異捜査録 − 警視庁特対室CASE:XXX −
午後三時──にもかかわらず、マンション『パークサイド武蔵小金井』の廊下はどこか深夜のような暗い雰囲気が漂っていた。雨の気配はないのに空気がどんよりと湿って重い。壁をなぞる指先が、じっとりと汗ばんでいる。轟雷蔵は足を止め、「302」の金属プレートを見上げる。プレートの縁だけ古びて、無理やり剥がしたシールの跡が白く残っている。何度も名札だけが貼り替えられ、そこに居た誰かの気配だけがずっと残っているようだった。背後、『特例』として特異事案対策室にスカウトされた女子高生の新人、南雲美優が書きかけのメモ帳を手持ち無沙汰に指で弄ぶ。
「なんか……気持ち悪い部屋っすね」
声が出た瞬間、言葉自体が廊下の湿度に溶けて消える。雷蔵は応えず、無言でポケットから手袋を出す。
いわゆる事故物件──十年前、火事で子どもが焼け死んだ。消防と警察の火災原因調査の結果、留守番中の火遊びによる失火が原因と判明した。その後、当時居住していた家族は何処かへと移り、部屋はリフォームをされ、事故の記憶が薄れた頃に再び賃貸となった──が、その部屋を借りた住人が相次いで失踪をしている。奇妙なのはエントランスの防犯カメラには帰宅した映像は残っている。しかし、出ていった姿が映っていない。つまり、マンション内で消息を絶ったということになる。失踪なのか、事件に巻き込まれたか、それとも自殺か──しかし警察の捜査でもそれらしい痕跡は見つからず、まるで神隠しのように住人が消えているだけだった。結果、事件性なしの失踪案件とするより他なかった。
ドアを開けると、白いクロス、つるりとしたフローリング。当然、十年前の火事の痕跡など残っていない。部屋には未だ家具がそのまま置かれ、シンクには放置された皿。生活の温度と息遣いが僅かばかり残っている。ふいに──焦げたタバコのにおいが鼻腔の奥を刺す。
「異常……ナシですかね」
美優の声は意図せず掠れていた。雷蔵は、黙って部屋を一周する。窓も鍵も触れるが異常はない。
「一旦帰るぞ」
気に入らなさそうに手袋を外しながら呟く雷蔵の声に、美優がホッとしたように返事をする。二人でエレベーター前に歩き、ボタンを押す。廊下の張り詰めた静けさがブゥゥン……という駆動音にかき消される。間が空いて、やっと扉が開いた。中は冷たい蛍光灯の光。雷蔵が乗り、美優が乗りかけたその時──雷蔵が眉間に皺を寄せ、何かをじっと睨みつけている。
「──あれ」
雷蔵の視線の先を追い美優がふと振り返ると、302号室。きっちり鍵を回したはずのドアが、今、何の前触れもなく──ギ、ギギ……と、湿った音を立てて歪んでいく。闇の奥、半開きの隙間。誰もいないはずの向こう側で、こちらを凝視する何かの気配が、じわりじわりと廊下に染み出してくる。何も見えないのに、見られている。雷蔵は閉じかけたエレベーターの扉に手を挟み、何も言わず静かに廊下を戻る。美優も、吸い寄せられるようについていく。気づけば廊下の空気が、まるで真夏のアスファルトに熱せられた陽炎のように揺らいでいる。美優の首筋を汗が伝う。
扉を押し開けると──熱。
肌を焼く炎の色が、現実を一気に塗りつぶす。
白かったはずの壁が、一瞬で煤けた黒に戻る。橙の火が天井を走り、窓ガラスが熱で割れていく。美優の頬に、焦げた肉の臭いが刺さる。その炎のただ中に、小さな人影──子ども。声もなく、ただ助けを求めるように両手をこちらに伸ばしている。だが、その足首には、暗い影のような何かがまとわりついていた。どろりと重く、這い寄る黒。
「助けなきゃ!」
美優は一瞬で駆け出しかける。だが、彼女が部屋に踏み入ろうとしたその瞬間、雷蔵の腕が美優の首根っこを掴み、後方に放り投げた。
「いった……なにするんですか! あれ、子ども……!」
廊下の壁に叩きつけられた美優の目に、抗議と怒りの色が宿る。雷蔵の目だけが静かに細められる。
「──行くなら、次は止めねぇ」
雷蔵の声は低い。目だけが真っ直ぐ美優を見据える。
「ただし、引き返せねぇぞ。本当に考えて、結果を想像したか?」
美優はもう一度、炎の奥の子どもに目を凝らす。熱気で揺れる空間、鼻を刺す焦げ臭さ、耳の奥で小さく爆ぜるガラスの音。現実味を失った景色、そして雷蔵の「考えろ」という言葉に、美優は逆に冷静さを少しばかり取り戻す。
(考えるって、この部屋は、あの子は──何? 本当にここにいるのか──十年前に、既に死んでいるはずだ。だとしたら、目の前にあるのは何? 焼け残った未練? 過去の記憶の残渣? あの黒い影に囚われ続けてる? この部屋で、住人が消えた理由。これを──助けようとしたから? 『終わったこと』に立ち入って、誰も帰ってこなかった。『終わったこと』は変えられない、それは身に沁みてわかってる──じゃあ私は今、何を『助けよう』としている? この子の過去? 自分の正しさ? ただ救いたい自分に酔っているだけ?)
「……っ」
美優は、唇を噛みしめる。
(助けなきゃ。違う、でもこれは……過去。『終わったこと』に手を伸ばしても、何も変わらない。──そう思いたいだけ? 本当に? 今ここにいる子どもは、私を見てる。目の奥に焼きつくような絶望。誰にも助けられず、炎に呑まれたまま、ずっとこの部屋に──)
心臓が喉までせり上がる。喉が痛いほど渇く。
(救いたい。だけど、それは私のためじゃないのか。救えなかった自分を誤魔化したいだけなのか──)
美優は息を呑み、もう一度子どもを見つめる。これは既に『終わった』ことなのだ。『今』に出てきていい存在ではない。十年前も今も──『この部屋』で誰も外に出た者はいない──美優は『これはもう終わったこと』、頭の中で何度も繰り返す。
「……だめだ、私……」
そう呟いて美優は一歩引いた。力の抜けた声が、焦げた匂いと共に空間に沈む。静寂の中、雷蔵はひとつ息を吐いた。視線だけで美優を射抜く。彼は無言でポケットを探り、レイバンのティアドロップサングラスを取り出す。濃い遮光レンズ越しに、302号室の金属プレートをじっと見上げた。
「入ったらどうなってたか、見とけ」
そう言い残し、無造作に部屋の敷居を越えた。何も起こらない。美優は思わず息を詰める。熱も焦げ臭さも、さっきまでの不穏な気配さえも、唐突に遠ざかったような、静けさが訪れる。ふっと子どもの表情が緩む。張りつめていたものがほどけて、どこか安堵したように微笑んだ、気がした──瞬間、空気が変わった。熱を孕んだ闇が部屋全体を満たす。雷蔵の背が闇に沈みかけたそのとき、子どもが──いや、『それ』が、唐突に歪んだ笑みを浮かべた。
「来て……くれタ」
声は小さい、しかし部屋中から響き渡った。その声の奥底には安堵ではなく、氷の刃を孕んでいた。次の瞬間、闇の底から腕──ちょうど今までの失踪者と同じ数の、焼け爛れ、爪の剥がれた腕が這い伸びて、雷蔵の四肢に、首に、腰に絡みつく。ゴリッ、と生身の骨が鳴る音。美優の目の前で、雷蔵の肌がじりじりと焦げ、服越しに焼けた肉のにおいが漂う。ドアが、ギギギ、と軋みながら閉まりはじめる。美優は咄嗟に飛び出し、ドアを抑えようとする──だが、その力を阻止することは出来なかった。ドアの隙間から熱風が噴き出し、視界が歪む。
「やめて……っ!」
叫ぶ声が、炎と闇に呑み込まれる。ドアの向こう、雷蔵はなおも絡みつく死者の手をそのまま引き受けて、振り返らない。
(そうだ、ドアを『分解』──)
自身の恩寵にようやく思い至った美優の耳に微かに届く、低く湿った声。
「『善意』は現場じゃ、喰われる」
その一言とともに、部屋が──閃光に裂かれた。雷蔵の腕が、空間ごと抉るような稲妻を叩き込む。雷光が、闇ごと全てを貫き、焦げた腕、歪んだ影、部屋そのものを焼き尽くす。美優は目を覆うしかなかった。目蓋の裏にも、熱と光が残る。
やがて、静寂だけが戻った。ドアは再びゆっくりと開き、雷蔵が、まだ煙る服のまま無言で現れた。腕には赤黒い痕が、幾本も残っている。美優の顔を一度だけ見て、呟く。
「『正しいこと』をしたいのは否定しねぇ──が、情で動くな。呑まれるぞ」
雷蔵の腕にはまだ『雷獄』の放電の余韻がパチパチと残っている。美優は驚愕とともに、理解した。そうだ、そもそも子どもが焼死した火事の原因は、不審さのないはっきりしたもの。あの『子供を捕えていた』黒い影、怪異によるものではない。ということは──。
「……な、ん、で」
ひび割れたガラスを爪でひっかくような、どこからともなく染み出す声。
「いっしょに、き、て、くれ、な……」
声が途切れ、次に続く音が空間に引っかかる。まるで、焼け焦げた肉片が床に貼りついて剥がれないみように。それは声ではなく、残滓だった。気づけば、目の前には真っ白な、ただの部屋。しかし鼻腔の奥に、焦げたにおいだけが消えずに残っている。美優はぼうっと口を開けたまま、雷蔵を見ていた。
「ここで『助けた』奴が、全員消えてる。現実はそれだけだ」
雷蔵はため息交じりに言い、もう一度エレベーターのボタンを押す。『善良さ』、それは人間の都合でしかない。『こちら側』で必要なのは『どうあるべきか』ではない。現実を見て相手の本質を見抜く、『何をすべきか』。美優は心のなかで何かをほんの少し失った気がした。しかし、それが何かはまだわからなかった。
──沈黙。廊下の空気の底で、まだ何かがこちらを見ているような気がする。しかし、雷蔵も美優も、もう振り返ることはしなかった。今度こそ、ドアはしっかりと閉まっていた。
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