CASE:001-1 カカオの友達
東京怪異捜査録 − 警視庁特対室CASE:XXX −
1-1. 友達申請
午前二時三十三分。
──送信者:不明
本文:「ねえ、わたしと 友達に なってよ」
少女は、布団の中で画面を見つめていた。いじめられているわけではない。無視されているわけでもない。ただ、昼休みになると、彼女の机だけが少し離れていた。移動教室では、いつも最後尾をひとりで歩いた。グループの通知は鳴るのに、そこに自分の名前だけが出てこなかった。
誰かに何かをされたわけじゃない。だから、誰にも言えなかった。
次の通知が来た。
「みんな、ひどいね」
「私だけは、ちゃんとあなたの味方だから」
怖いと思うべきだった。
けれど少女は、泣きそうになった。
味方がいた。
自分の味方が、いた。
返信欄には、いつの間にか文字が入っていた。
「うん」
送信した瞬間、画面の黒い余白に目が映った。
「ひとりじゃないよ」
1-2. 雷獄と分解
雨でもないのに水音がしていた。終電後の線路が頭上で鈍く唸り、コンクリートの柱には古い貼り紙の跡が幾重にも残っている。駐輪禁止。立入禁止。痴漢注意。消えかけた文字の上を、点滅する街灯の光が薄くなぞっていた。その光の届かない柱の陰で男がひとり、首を傾けたまま立っている。
男は会社員らしかった。濡れたスーツの袖から、スマートフォンを握った手だけがだらりと垂れている。画面には何も映っていない。ただ、真っ黒なガラス面に、男自身ではない誰かの顔がぼんやりと浮かんでいた。
「おい、聞こえてるか!」
轟雷蔵の声が、高架下に叩きつけられた。返事はない。男の足元に、黒い水たまりのようなものが広がっている。それは水ではなかった。影でもない。街灯の位置に関係なくゆっくりと脈打ち、男の靴底から膝へと、腰へと這い上がろうとしている。
「意識持ってかれてますね」
少し離れた場所で、南雲美優が息を整えながら言った。セーラー服の上にナイロンのジャケットを羽織っている。
「封鎖は?」
「灯里先輩が、『境界』で」
「なら、よし」
「で、あれ雷で吹っ飛ばせます?」
「吹っ飛ばせる」
「言い切るの早」
「ただし、このままだとあいつごとになる」
雷蔵の掌に細い光が走った。青白い火花が指の節を伝い、かすかにオゾン臭が立ち昇る。男の足元の黒いものが、それに反応した。水面のようだった表面が盛り上がり、中から顔が浮かぶ。
いや──顔、と呼ぶには足りない。目も鼻も口も、ただの穴だった。穴が三つ、のっぺりした黒の中に開いている。それなのに美優には、それが笑っているように見えた。
「キモっ」
「見えてるか」
「穴だらけの顔みたいなのが」
「じゃあ当たりだ。俺には黒い塊にしか見えねえ」
怪異は人間によって見え方が変わることがある。見えない者、見えても輪郭だけの者、過剰に見えてしまう者。今夜のそれは、どうやら美優の方をよく見ていた。黒いものが、男の足元から一筋だけ剥がれた。鞭のようにしなり、地面を叩く。アスファルトが湿った紙のように裂けた。
「来た!」
「下がってろ!」
雷蔵が前に出た。腕を振る。
雷光が高架下の低い天井で爆ぜた。青白い光が一直線に伸び、黒い鞭を焼き切る。破片のように飛び散った影が壁に貼りつき、すぐにずるりと落ち動かなくなった。
男はまだ動かない。黒いものは足元から離れず、むしろ男の身体を盾にするように広がっていく。
「人質ムーブか。かわいくねえな」
「かわいかったら困りますけどね」
「美優、足元だけ剥がせるか」
「やりますけど、ちょっとでもズレたら靴とか足とか分解しますよ」
「靴なら後で買わせる」
「足は?」
「まあ、なんとかしろ」
美優は短く息を吐いた。恐怖がないわけではない。黒いものの向こうで、男の顔は妙に穏やかだった。目を開けたまま眠っているような表情。助けを求めている様子はない。だから余計に、急がなければならない気がした。
触れれば、壊せる。
触れなければ、壊せない。
それが南雲美優の恩寵だった。
「三秒、目くらましください」
「三秒だけでいいのか?」
「長いと私まで焦げるんで」
雷蔵の口角がわずかに上がった。
「上等だ」
次の瞬間、高架下が白くなった。雷蔵の足元から放たれた雷光が、床を這うように走る。黒いものは本能的にそれを避け、男の身体へさらに寄り集まった。美優はその一瞬を逃さず低く走った。
手を伸ばす。
黒いものが、彼女の指先へ向けて細い触手を伸ばす。
近い。
冷たい。
触れた瞬間、頭の奥で誰かの声がした。
──さびしい。
「知るか!」
美優は叫び、黒い影の端を掴んだ。世界から名前が剥がれる。影。水。膜。呪い。どれでもない。ただ、何かに貼りついて離れないためだけの構造。それを、ほどく。
ぱらりと黒いものが崩れた。墨汁を水に落としたときのように、空気に影がひろがり滲み、粒子となって宙へ散る。男の足首を締めつけていた影が剥がれ、靴底から黒い糸のようなものが抜けていく。だが、中心は残った。柱の陰で穴だらけの顔が、もう一度笑った。
「離れました!」
「伏せろ!」
雷蔵の声に、美優は男の肩を掴んで地面へ倒れ込んだ。その頭上を、雷撃が過ぎた。高架下に、ほんの一瞬だけ昼のような明るさが満ちる。黒い顔は雷光の中で膨れ上がり、抵抗するように穴を広げた。だが、雷蔵はさらに一歩踏み込む。手加減のための距離を捨てる。拳が、光を纏ったまま黒い中心を撃ち抜いた。
「寝てろ」
空気が破裂し、黒いものは内側から弾けた。焼けた紙の匂いと生臭いオゾンの匂いが混ざり、高架下に広がる。数秒後、残ったのは倒れた男と、焦げたアスファルトと、靴の片方を握ったまま尻餅をついている美優だけだった。
「……靴、分解しちゃった」
「足は?」
「無事っぽい……」
「なら上出来だ」
雷蔵は男の脈を取り、無線で短く搬送要請を入れた。表向きには、意識混濁の通行人を発見しただけの通報になる。怪異のことは記録に残らない。焼けたアスファルトは漏電、男の記憶は一時的な混乱、なくなった靴は救助時の紛失。そうやって、世界はいつもの顔を取り戻す。
美優は手のひらを見た。
黒いものに触れた感覚はまだ残っている。寂しい、という声も。
だからといって同情できる相手ではなかった。あれは人を連れていこうとしていた。理由が何であれ、人間の側へ踏み込んできたなら、こちらも踏み返すしかない。
「大丈夫か」
雷蔵が言った。
「大丈夫です。ちょっと、というかだいぶ感触キモかったですけど」
「なら帰るぞ」
「報告書、誰が書くんですか」
「お前に決まってるだろ。俺が書くと全部、雷獄により制圧になる」
「間違ってはいないけどゴリ押しすぎる」
雷蔵はふんと鼻で笑い、歩き出した。高架下の遠くで、救急車のサイレンが近づいてくる。美優はもう一度だけ、黒いものがいた場所を振り返った。焦げ跡の中心に紙片が一枚だけ落ちていた。その黒い余白だけが、妙に目のように見えた。
1-3. 転校生案
特異事案対策室に戻ると、蜘手創次郎はソファで缶コーヒーを飲んでいた。蜘手とともに夜勤の引き継ぎで既に出勤していた葦名透真と、一足先に帰投していた久世灯里の姿も見える。
警視庁の地下、その奥にある部屋は夜も朝も感じられない。蛍光灯のジジジという陰鬱なノイズ。ぎっしりと過去事案の資料の詰まった古い資料棚。電源の落ちない端末。片づいた机と片づいていない机。その中で美優の席だけは、教科書と菓子の袋と報告書が同じ高さに積まれている。存在しないことになっている部署に、女子高生の私物だけがやたら現実的に置かれているのは、何度見ても少し変だった。
「おお、ご苦労さん」
蜘手は軽い調子で片手を上げた。
「高架下の件、片づいた? 表沙汰にならなかったろうね?」
「片づきました。雷蔵さんが派手にやりすぎて、アスファルトがちょっと焦げました」
「だろうね。轟が出ると、いつもそうだ」
「必要経費だ」
雷蔵はジャケットを脱ぎながら言った。
「その必要経費、誰が報告書にすると思ってるんですか」
「美優くん」
蜘手が即答した。
「なんでそっちまで即答なんですか」
「若い子の文章は勢いがあるからねえ」
「報告書に勢いいります?」
「ないよりはいいんじゃない?」
美優は返事の代わりに、机の上の未開封のグミを掴んだ。袋を開けると甘い匂いが、端末の排熱と古い紙の匂いに混ざった。
透真は奥のデスクで別件の資料を見ていた。灯里は湯気の立つマグカップを両手で包み、いつものように静かにこちらを見ている。室長の姿はない。だが、天井近くの配線の上に小さなリスの式神が座っているので、たぶん聞いてはいるのだろう。
「それで、報告は後でいい」
蜘手が缶コーヒーを置いた。
「美優くん、次の仕事なんだけどね」
「今帰ってきたばっかなんですけど」
「若いっていいよねえ、元気があって」
「よくないです」
蜘手はにやりと笑いながら、薄いファイルを机の上へ滑らせた。表紙には、清嶺学園と印字されていた。
都内の私立校。美優も名前くらいは知っている。制服のデザインがかわいいとか、文化祭の写真がよく回ってくるとか、そういう方向で。
「清嶺学園?」
「九月に入ってから、欠席者が妙に増えてる。不登校、休学扱い、連絡の取れない生徒。表向きには学校の問題だけどね」
透真が資料から目を上げた。
「SNS上にも共通した痕跡がある。削除された投稿、空白の履歴、同じような文面。通常のいじめや炎上とは少し違う」
「それ、サイバー犯罪じゃないんですか」
「それだけなら二課や生活安全で済む」
透真は淡々と言った。
「済まない可能性が出てきたから、ここに来ている」
美優はファイルを開いた。写真が数枚。どれも普通の生徒の自撮りだった。笑っている。ピースしている。友達と写っている。
普通に見える。
普通に見えすぎる。
そのうち一枚の余白に、小さくメモが貼られていた。
カカオの友達。
「カカオ?」
美優は眉を寄せた。
「チョコですか」
蜘手が肩をすくめる。嫌な流れだった。美優はグミを噛む手を止め、ゆっくり顔を上げた。
「同世代の美優くんが行くのが、一番いいと思ってね」
「行くって、聞き込みですか」
「もっと自然なやつ」
「自然なやつ?」
蜘手は、実に何でもないことのように言った。
「美優くん。転校してもらうから」
「……は?」
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