02
それから2日後の、大型連休明けの月曜日。
雲海市は、きょうもよく晴れていて、適度にひんやりとしたさわやかな朝方だ。
山々に囲まれているが、それほど険しくない平野部に、ゼブラマートというスーパーがある。駅から少し歩いた距離だ。二階建ての大きめのスーパーで、駐車場もなかなか広いが、外観はやや古めかしい。
ゼブラマートは閉まっている。まだ朝の8時だからね。
そこへ、謎の少女と中年女性が連れだってやってきた。
少女は制服姿でカバン持ち。高校生に見えるが、このあたりの学校の制服ではない。一緒にいる中年女性は、どうやら少女の母親のようだ。
謎の少女の目は大きく、ひとみはこげ茶で、顔立ちは整っており、いかにも利発そうだ。髪型はロブで(肩まである)、右耳の上をヘアピンで止めており、爽やかな印象を与えている。身体は健康そのもので、柔らかいバネのような体躯はリズミカルに動く。この土地に慣れていないのだろうか、いくらか緊張しているのが表情から見て取れる。
少女は、ゼブラマートの駐車場の入り口にくると、警備員がいないのを確かめてから、チェーンを跨いで駐車場への侵入を試みた。いま駐車場はガラガラだ。右足はすんなりチェーンを超えたが、左足がちょっと引っかかって体勢を崩した。母親はたいそう驚いているようすで、心配そうに娘に注意している。少女は慌てず騒がず、足に引っかかったチェーンを慎重にほどいて、そのまま駐車場に入った。
少女は散策を始めたが、それはすぐに本格的な探索になった。中腰になったり立ったりと、なにやら忙しそうだ。駐車場の外にいる母親は何度か止めたが、少女は無視している。母親はいらだちを見せている。何かを探すようにうろうろすること数分、少女は駐車場の一角にやって来た。
「間違いない、ここだ。いろいろ景色は変わってるけど、12年前わたしはここで死にかけた。……でも、まだ生きてる。キャンディちゃんに会えるかな」
少女はそう言うと、少し緊張が解けたようで、優しい笑みを見せた。
彼女は駐車場から脱出すると、母親と合流して、ゼブラマートを後にした。
謎の少女の名前は、倉田惠美、17歳で、高校3年生だ。そして転校生でもある。
この物語のヒロインといったほうが正確かもしれない。
そのゼブラマートの近く、街の外れに古びた洋館がある。
古びたといっても定期的に手入れがされているようで、モダンな外観も相まり、それほど古くは感じられない。
門に沿って生け垣があり、ユリの花が咲き誇っている。建物は2階建てで、紅い屋根が特徴の、こじゃれた洋館だ。ヨーロッパをすみずみまで旅した人なら(あるいは海外の紀行番組が大好物の人なら)、おとぎの国として知られる、チェコ共和国を想起することだろう。紅いかわらにはちょっとした秘密があるのだが、それはまた後で。
この洋館の持ち主が、渡辺璃々杏、48歳だ。おっと、淑女の年齢を書くのは失礼かな。では皆さん、彼女の年齢は忘れてくれたまえ。
この洋館からは、ピアノやヴァイオリンやフルートなどの音色が聞こえてくることがある。ティンパニが鳴り響いて、近所の人や往来の人を驚かせることもある。音楽が途中で止まったり、間違えたりすることがあるので、生演奏であることは明らかだ。
璃々杏は、クラシック音楽の評論とライターをしながら暮らしている。音楽評論家の家から楽器の演奏が聞こえてくるのは、とても自然なことだろう。彼女は、音楽大学に在学中に、ピアノと作曲を専攻していたのだ。
ここで重大な秘密を明かしてしまおう。渡辺璃々杏は魔女である。それもかなりの大魔女で、その界隈では有名人なのだ。
璃々杏が魔女であることを知っている者は、ほとんどいない。はっきり言ってしまえば、その秘密を知っているのは、魔法使いの仲間だけだ。これを読んでいるあなたも、たぶんそのひとりだろう。
世界に魔女はそう多くいない。その総数は2万人程度だろうか。日本にも、400人くらいしか魔女はいない。渡辺璃々杏は、その数少ない魔女のひとりなのだ。
魔女たちは、デジタルが支配する現代社会で、その正体を知られないように、ひっそりと生きている。だが安心して欲しい。魔女だと暴露されるケースはほとんどなく、あっても、その悪い噂のさざ波を巧みに覆い隠すすべを、魔女たちはよく心得ている。
魔女は、かくもしたたかな存在なのだ。
璃々杏には四人の子供がいる。長女みらい24歳、次女あすか23歳、三女かれん20歳、長男真18歳である。血筋だろうか、みらい、あすか、かれんの三姉妹は全員魔女だ。
末っ子の真のことは、もう知っているね。先日ナオトくんを助けた青年だ。彼は魔法使いもどきなのだが……もどきの説明はもう少し待ってね。
真は、姉たちと同様に、様々な魔法を覚えながら育っていった。
面白くないのは、三女のかれんだ。彼女は弟の真を憎んでいる。母親を取られたと思っているのだ。璃々杏は、初めての男の子である真をかまって、姉のかれんを何度か放置したことがあった。かれんはそれが、どうにもこうにも気に食わないようなのだ。真とかれんは3つはなれているが、その年数は、かれんに聡明な思考をもたらすには充分ではなかった。
真が高校生になった時、かれんは大学に進学し、洋館から巣立っていった。
長女のみらいと次女のあすかは、とっくに独り立ちしている。
前置きはここまでにして、話を進めよう。
ここは朝の渡辺邸前だ。黒のワンピースを着た璃々杏が玄関から出てきて、家の右脇の車庫にある軽自動車に搭乗し、シートベルトをつけてエンジンをかけた。
続いて、私服の真が玄関から出てきて鍵をかけると、同じ車の後部座席に座ってシートベルトをつけた。
璃々杏は、バックミラー越しに真を見た。
「キャンディ、マスクをしなさい」
真は、コートのポケットからマスクを出してつけた。キャンディとはどういう意味だろう。
その様子を見ていた、近所のおばさんが、何事かと近づいてきた。
璃々杏は車を出て、おばさんと立ち話をはじめた。
「おはようございます」
「おはようございます、渡辺さん。真くん学校は? マスクしてどうかしたの」
おばさんは心配そうに、真を見ている。
「それがですね、うちの真が熱を出しまして。インフルエンザだとまずいんで、病院へ見せに行くところなんです」
「おや、そうかい。たいへんだねぇ」
「インフルじゃないとは思うんですが」
しばらく会話をすると、璃々杏はまた車に乗り込んだ。
近所のおばさんは、車から離れて真を見ている。
「なるほど、真くんが風邪か。インフルエンザじゃないといいんだけど。でも渡辺さん、黒のワンピースをいったい何着持っているんだろう。7つまで数えて、それからやめてしまったんだったわ」
近所のおばさんは、ひとりごとを言いながら去っていった。
車のエンジンが暖まるまでの時間潰しに、璃々杏と真が会話を始めた。
「インフルエンザじゃないのは、魔法でわかってるんだけどね。でも、病院に連れて行かないと不審がられるからね。しかし、まぁ、4時間以上もゲームを……」
璃々杏はあきれた様子だ。
「日曜の夜に、深夜までゲームをしてたぼくが悪いよ」
「あら殊勝ね。わかってるならいいわ。迷子の子供を助けたくらいで調子に乗ってるからこうなるのよ」
璃々杏は容赦ない。
「ねえ母さん、魔法で熱を下げようよ」
「だめ。なんでもかんでも魔法に頼っていたら、免疫力が弱るって、魔術教本にも書いてあるでしょう」
璃々杏は、車のダッシュボードをリズミカルに叩き始めた。どうやら曲はバッハのようだ。それは、音楽を学んだ者の単なる退屈しのぎか、ゲームは1日1時間、休日2時間の約束を破った息子への苛立ちか。
「さぁ病院へいくよ。キャンディ」
「そのあだ名で呼ばないで」
真は不満を漏らした。璃々杏の運転する軽自動車が公道に出た。
どうやら、〝キャンディ〟は、璃々杏が息子を呼ぶときの愛称のようだ。倉田惠美が言った『キャンディちゃん』と、何か関係があるのだろうか。