第二章 アルセイスの少女(三)
統一暦六二五年、大陸七覇の一角たるアルセイス王国でひとつの事件が起きた。
時のアルセイス王国第三将軍リシャール・ド・オリオールが国王に叛旗を翻したのである。こともあろうに国王の膝元たる王都で、であった。
アルセイス王国では軍の高官の地位を一から十までの数字であらわしており、この数字を振られた将軍が軍部における主要な席を独占している。第一将軍は、すなわち元帥にあたる。
つまり、第三将軍であるリシャールはアルセイス軍で三番目の実力者だった。
くわえてこの時期、第一将軍は病に伏せ、第二将軍はシュタール帝国との戦いで国外に出撃していたため、王都守備軍を率いるリシャールは実質的にアルセイス国内で最大の兵力を握っていたことになる。
そのリシャールが王都で叛乱を起こせば、これを止められる者は存在しない――そのはずだった。
しかし、結果としてリシャールの叛乱は失敗に終わる。当時、第十将軍に任命されたばかりの若き将軍がリシャールの機先を制して叛乱を鎮定してのけたのだ。
テオドール・フルーリーという名を持つ平民出身の将軍は、謀反人とその一族をことごとく討ち果たした功績をもって躍進をはじめる。
国王の信頼と寵愛を得た彼は、わずか五年で故リシャールの地位であった第三将軍にまで上り詰めていた……
――過去の情報を簡潔に伝え終えたカイは、次のように話を続けた。
「もっとも、このオリオール伯の叛乱はおかしな点も多いんです。オリオール伯はもともと忠良な武人として知られていた方でした。帝国との戦いでは、当時の第二将軍で、今は第一将軍になっているディオン公と共に何度も武功をたてています。帝国はこのふたりをアルセイスの両翼と呼んで、最大限の警戒をしていました」
また、リシャールはいわゆる三大神の一柱である信義と情愛の女神ソフィアを信仰しており、伯爵領の統治は寛大で慈悲深いものであったという。
宮廷での評判も高く、貴族諸侯からの人望もあり、衆目の一致するところ、叛乱とはもっとも縁遠い人物とみなされていた。国王もそんなリシャールを深く信頼しておればこそ、王都の守りを委ねたのである。
それが一夜にして一変してしまった。
人々が裏面の事情に思いを馳せたのは当然のことであったろう。
ノエルが本当にリシャールの娘であるのなら、そのあたりの事情を知っているかもしれない。ノエルは当時、まだ六、七歳であったはずだが、姉や周囲の人間から事情を聞いている可能性もある。
しかし、インはそのあたりのことを一顧だにしなかった。
カイの説明の中から必要な部分だけを抜き取って口にする。
「要するに、アルセイスの人間から見れば、クロエとノエルは大罪人の娘ということか」
「そうなりますね。そして、それだけじゃありません。オリオール伯の一件はいまだにアルセイス国内で問題になっていて、ディオン公は国王とテオドール将軍が裁判もなしにオリオール伯を誅殺し、伯の一族を討ったことに激怒したと言われています。この時、彼らとの間に生じた隙は五年経った今でも埋まっていない、とも。オリオール伯の遺児であるノエル君やお姉さんが生きていることがわかったなら、アルセイス王国は大変な騒ぎに包まれるでしょう」
「国王と公爵、どちらにも取り入ることができる魔法の手札、というわけか。なるほど、これは俺たちどころじゃないな」
インはひとつうなずくと、緊張した面持ちのノエルをちらと見やる。
そして、ゆっくりと言った。
「こうなってくると、動いているのは評議会というより王国派の連中か」
「おそらくは」
その推測にカイがうなずきで応じる。
フレデリク・ゲドがアルセイス王国での栄達を願っているのは公然の秘密である。そのフレデリクがノエルたちの存在に勘付いたとすれば、これを放っておくはずがない。意地でも確保しようとするはずだし、姉妹のそばをうろつく不逞の輩を始末することもためらわないだろう。
インの口許に不敵な笑みが浮かんだ。
話の行く末を読むことができず、不安げにインたちを見つめていたノエルが、びくりと身をすくめてしまったほど邪まな表情だった。
「帝国派の次は王国派か。夏が近いとはいえ、わざわざ火の中に飛び込んでくる虫が多いな。好んで焼かれることもないだろうに」
「どうしますか、イン?」
「評議会の兵の対応はセッシュウに任せた。何かあれば言ってくるから、ふたりはそれに備えておけ。俺はフレデリク・ゲドのところに行ってくる。セーデの長として、ノエルは渡さないと伝えにな」
「……あ」
それはこれ以上ないほどはっきりとした意思の表明だった。不安を隠せずにいたノエルの顔にわずかだが光が射す。
カイにしても、アトにしても、インの決断に異を唱えるつもりはなく、素直に命令にうなずいたが、気になることはあった。
インの言う「行ってくる」という言葉が何を意味しているのかについて。
話し合いに「行ってくる」なのか。
襲撃に「行ってくる」なのか。
これについてもインは明言した。
「話し合いの方だ。ま、正門からごめんくださいと訪問する気はないし、クロエを助けた後はその限りじゃないが」
それはもうほとんど襲撃と同じではないかな、と二人は同時に思ったが、つつましく沈黙を保った。
主に対して遠慮したためであり、ノエルが何かを言いたげにしていることに気づいたためでもある。
「……あの、ごめん、なさい……わたしのせいで」
何度目のことか、ノエルはインに向かって深々と頭を下げた。
ノエルたち姉妹の主人である妓館主は評議会の意向に従った。どんな話し合いがもたれたのかはわからないが、姉妹は切り捨てられたのである。
この時点でノエルは孤立無援となった。ドレイクにおけるノエルやクロエの生活は、ほぼすべて妓館を中心として成り立っており、妓館から切り捨てられてしまえば、頼るあてなどまったくない。手を差し伸べてくれる人もいない。
インとの繋がりにしたところで妓館を介したものにすぎず、ノエルにしてみれば藁にもすがる思いだったのである。
今のノエルたちを受け容れるということは、自分のみならず周囲の人間をも破滅させかねない危険を背負い込むことを意味する。姉が連れ去られてからというもの、必死だったノエルはそこまで考える余裕を失っていたが、こうしてインに出会い、自分の素性を話し、またインとカイの会話を聞くにつれて、今さらながらそのことに思い至った。
受け容れてくれた感謝。巻き込んでしまった悔い。ノエルの謝罪は、そういった幾つもの感情を混ぜ合わせたものだった。
ところが、インはかぶりを振ってあっさりと少女の謝罪を退けてしまう。
「詫びるのはこちらの方だ。ノエルたちを巻き込んだのは俺の方だからな」
「え?」
ノエルは不思議そうに首をかしげてインを見上げる。
その視線の先で、インは気難しそうに眉をしかめていた。
「何年も伏せていた素性がいきなり突き止められたのなら、そこには何かしらのきっかけがあったはずだ。たぶん、俺のことを探っていた時にクロエの存在に気がついたんだろう」
インが贔屓にしている妓館を見つけることは簡単ではないが、金に糸目をつけなければ可能だろう。そこからクロエに行き着くことも難しくあるまい。
おそらく、その過程でアルセイスの事情に通じた者がオリオール姉妹の存在に気がついたのではないか。インはそう推測した。
「そういうわけで、ノエルが詫びる必要はないぞ。お前を評議会の手には渡さないし、クロエもすぐに連れて来る。いらない遠慮をした挙句、出て行ったりするなよ? 姉とすれ違いになるからな」
そう言うと、インは指で軽くノエルの額を弾き、そのまま部屋を出ていってしまう。
弾かれた額に両手をあてたノエルは、アトが優しく声をかけるまでの間、インが出て行った扉を呆然と見つめていた。
◆◆
白を基調として建設されたフレデリク・ゲドの邸宅は、ドレイクの評議会館を模したものだと考える者は多い。他者に訊ねられたとき、フレデリク自身がそう答えているからであるが、実際にはアルセイスの王都『白百合の都』リィスを意識してつくられた邸宅だった。
庭園にはアルセイスの国花である百合の花が多数植えられており、早咲きの種が庭の一画で華やかに咲き誇っている。
そして、その邸宅の一室にリムカの姿もあった。
やわらかなソファに腰を下ろしたリムカの口からため息がこぼれおちる。
リムカはこの邸宅で賓客として遇されており、邸内であれば自由に行動できる。外に出ることは禁じられていたが、これは緋賊の報復からリムカの身を守るための措置であって、リムカが不平を唱える筋はない。
庭であれば出歩くこともできるので、気詰まりになることもなかった。
今回の混乱が片付き、緋賊が都市内から排除されれば自由に出歩くことができる。フレデリクの側近であるブリスはそのようにリムカに保証してくれた。
それだけではない。
ブリスはリムカのもたらした情報を重要視しており、リムカに対しても最大限の好意と同情を示してくれていた。
一日に一度は様子を見にあらわれ、不自由がないかを確認し、望むならアルセイス王国へ移住できるように取り計らうとまで言ってくれている。
これまでのところ、リムカの選択は正しく報われているといってよい。
しかし、日が経つにつれて、リムカは自分の選択に迷いを抱くようになっていた。いや、すでに行動に移してしまっているのだから、迷いというより後悔といった方が正確だろう。
セーデを出たリムカが王国派であるフレデリクの邸宅に駆け込んだのは、ひとえに復讐心によるものだった。
セーデには自分と兄を虐げたラーカルトの家族がいる。そして、彼女らをかばっているのは兄を直接手にかけたインという野盗だ。
対応に出てきたブリスに対し、リムカは感情のおもむくままに洗いざらい全てをぶちまけたのである。
今になって思えば、とても冷静とはいえない振る舞いであったはずだが、ブリスはリムカの話を真剣に聞いてくれた。必ず賊徒を刑に服せしめる、とも約束してくれた。
その後、リムカはブリスに勧められるままにフレデリク邸で起居するようになる。はじめは辞退したのだが、今後の捜査や裁判でリムカの証言が必要になると言われれば従うしかない。
そうして今日まで豪奢な邸宅で何不自由なく過ごしてきたリムカであるが、日を経るにつれ、その顔には苦悩が浮かび上がるようになっていた。
すでにリムカの心から当初の激情は失せている。
自分の身を汚したラーカルトへの恨みは今なお尽きない。しかし、ラーカルトの妻子に向けた刃は果たして正しかったのか、そんな疑問にかられることもあった。
「……そう考えること自体、正しくなかったと認めているようなものよね」
小さく呟く。
家族にも罪があるとの言葉が間違っていたとは思わない。だが、その罪は頬を一つ二つはたく程度で償えるものではなかったか。
兄を手にかけたインの行いにしてもそうだった。
最後に見た兄の姿を思い起こし、リムカは顔を伏せる。見たこともないほどやつれ果てた顔、鼻を刺す異臭、獣じみた叫び声をあげて自分の血肉をむさぼっていた、あの姿。
狂っていた、というインの言葉が胸を苛む。
心を壊す薬を投与されていた、という緋賊の薬師の言葉はたぶん正しいのだろう。
助からなかったというインの言葉を全面的に是とする気にはどうしてもなれないが、それでも、そう判断されてもおかしくないほどに兄が酷い状態だったのは確かである。
なにより、インたちがラーカルトの邸宅を襲っていなければ、今なおリムカはあの男の虜囚であった。これは間違いない。兄も遠からず責め殺されていただろう。
リムカは兄の死を知らぬまま、兄を助けるためにラーカルトになぶられ続ける――そんな考えるだにおぞましい境遇に置かれていたかもしれないのだ。
インたちはそんな状況からリムカを解き放ってくれた。リムカを助けるために起こした行動ではないが、それはリムカが恩義を忘れていい理由にはならない。
そんな彼らを、自分はフレデリクに売ってしまった――リムカはそう考え、鬱々と楽しまない日々を送っていたのである。
時を戻す術がない以上、リムカは自分の行動が導いた結果を受け容れなければならない。それがどんなものであるにせよ、結果が出れば受け止めようはある。しかし、事態がいっかな動こうとしない現状は、リムカの神経をただただ苛むばかりであった。
◆◆
同時刻。
同じ邸宅の異なる部屋で、フレデリクはブリスから報告を受けていた。
フレデリクの顔には大きな満足と小さな不満が同居しており、王国派の評議員はその表情のまま口を開く。
「クロエ嬢は無事にお連れすることができた、ということだね。もちろん手荒なまねはしていないだろうね?」
「ご心配には及びません。妓館の長とも話はつけております。お二方の身柄を縛る証文はこちらに」
そういってブリスが差し出した数枚の紙にフレデリクは視線を走らせる。
そして、嘆かわしげにかぶりを振った。
「アルセイス王国で知らぬ者とてないオリオール伯爵家の姫君が、まさか妓女に身を落としていたとは。父君の叛逆ゆえとはいえ、あまりに酷い。その身を解き放つ一助となれたことを私は嬉しく思うよ。信愛の女神ソフィアも我が行いを嘉したもうことだろう」
そこまでいったフレデリクは、わずかに語調をかえて言葉を続けた。
その目には配下の不首尾を咎める色が浮き上がっている。
「ただ、妹君を逃がしてしまったのは不手際だったね、ブリス君。逃げ出したということは、君の行いに何かしら粗暴の空気を感じ取ったからではないのか? 彼女たちを不遇の身から助け出さんというのが私の願い。武器を突きつけて脅すがごときは賊徒の振る舞いだよ」
「は。申し訳ございません」
ブリスは深く頭を垂れる。
しかし、実のところ、ノエルを逃がしたのはブリスの密かな指示によるものだった。
ブリスがオリオール伯の遺児ふたりの行方を突き止めたと知って以来、フレデリクの頭はそのことで占められ、緋賊やセーデのことは二の次になってしまっていた。
アルセイス王国で栄達するというフレデリクの目的を考えれば、心の秤が緋賊より姉妹の方に傾くのは仕方のないことであろう。
が、ブリスの任務はフレデリクにドレイクの主権を握らせることにある。
そのためには緋賊討伐を後回しにするわけにはいかなかった。
姉妹の片割れが緋賊にかくまわれたと知れば、フレデリクもセーデ区の掃討のために腰をあげざるをえなくなる。そう考えたゆえにブリスはノエルを見逃したのである。
ノエルがセーデ区に向かう確証はなかったので、セーデ区以外に至る道筋には兵を配置することもした。
それらの措置の甲斐あって、事態はブリスの思惑どおりに進んでいる。あとはセーデ区を制してノエルを連れて来るだけだ。
討伐を恐れた緋賊がノエルの身柄を差し出してくる可能性もあったが、仮にそうなったとしても、なにかしら理由をつけて潰してしまえばよい。貧民窟で起居する者たちがどうなろうと、大半の市民は気にもしないだろう。
計画の成功を確信しているブリスの頭は、すでに次の段階に進んでいた。
「リィスのテオドール閣下には早馬を差し向けております」
「おお、手際の良いことだ。では、閣下のお迎えが到着するまで、お二人には我が屋敷でゆっくり静養していただくとしよう。さすがに外出を許可することはできないが、リムカ嬢と同じように過ごしていただく分には何の問題もあるまい。ここに手を出す命知らずがいるとも思えないしね」
フレデリクの言葉にブリスは黙然とうなずく。
あえて評議会に刃を向ける命知らずが緋賊の他にいるとは思えない。その緋賊とて、都市の外ではなく内の戦いとなれば勝手も違ってくるだろう。まして今日は奇襲をする側ではなく、される側にまわるのだ。この状況で訓練を積んだ正規兵が野盗に負けるはずがない。
ブリスは確かな自信をこめて話をしめくくった。
「まもなくノエル様と共に勝報が届きましょう」
「それが我が栄達を告げる天使の鐘となるわけだ。秘蔵の五十年物を出して祝うとしようか。ブリス君も付き合ってくれたまえ」
「は、恐縮です」




