第79話 おかえり
父さんの体が闇の側へ引かれていく。
黒い残滓が左腕から肩へ這い上がる。
「離せ……!」
父さんがもがく。
もがくほど、糸は深く食いこんだ。
「ソウマ、行け! 扉が閉じる!」
「行かない!」
叫び返して、俺は目をこらした。
糸を切るだけじゃ駄目だ。
この残滓は父さんの侵食に引き寄せられている。
侵食そのものを断たないかぎり、何度でも絡みつく。
視ろ。
五年ぶんの黒の、そのいちばん奥を。
父さんの体に、ステータスが浮かぶ。
文字化けだらけ。
読めない行がいくつも続く。
その下の下に、一行だけ。
侵食:核あり(胸部・深層)
胸の奥。
心臓のすぐ横に、小さな黒い点があった。
米粒ほどの点から、黒い根が全身へ伸びている。
「見つけた……!」
でも、心臓の横だ。
いつもの紅蓮の吐息じゃ、父さんごと焼いてしまう。
必要なのは針の先みたいな炎。
ヒノを見る。
ヒノも俺を見ていた。
大丈夫だ。
こいつにはあれがある。
◇
「メイ、茨で残滓をはがせ! 父さんの体には棘を立てるな!」
「ふよっ……!」
メイが蔦を伸ばす。
棘のない、やわらかな蔦だ。
父さんの腕と残滓の間に、一本ずつ差しこんでいく。
ぺり。
ぺり、ぺり。
黒い糸が少しずつ浮き上がる。
「ナギ、慈雨! 浮いたところを洗え!」
「コポポ……!」
細い雨が父さんの肩に降る。
浮いた残滓が溶けるように流れ落ちていく。
腕の黒が薄くなる。
胸の奥の点だけがしぶとく残った。
「ヒノ」
俺はヒノの頭に手を置いた。
「覚えてるか。ろうそくの火」
「キュ」
紅蓮の吐息を覚えてから、ずっと続けてきた夜の特訓。
一点に絞る技でもまだ太すぎる。細かい狙いがきかなかった。
だから毎晩、庭でろうそくを並べて練習した。
隣の芯を焦がさず、一本だけに火をつける。
ヒノは最初、何本も溶かしては拗ねていた。
百本目で、やっと一本だけ灯した。
あの夜の炎が、今ここにある。
「父さんを傷つけるな。黒い点だけだ。糸みたいに細く」
「キュア」
ヒノが目を細める。
口の先に、小さな紅い光が灯った。
大きくならない。
一本の、髪の毛みたいな線に絞られていく。
「紅蓮の吐息……細く!」
――チッ。
音はそれだけだった。
紅い線が父さんの胸に吸いこまれる。
皮膚は焦げない。
服も燃えない。
ただ奥の黒い点だけが、じゅっと縮んだ。
一瞬。
黒い根が全身から引いていく。
腕の揺らぎが止まる。
文字化けが一行ずつ消える。
侵食:なし
父さんの左腕がふつうの人の腕に戻っていた。
やせて細いけれど、ちゃんと肌の色をしている。
「……軽い」
父さんが自分の手のひらを見つめる。
「五年ぶりだ。この腕が、自分のものに感じるのは」
ヒノが胸を張って、俺を見上げる。
ほめろ、という顔だ。
「ああ。最高の火だった」
「キュキュ!」
◇
「全員、飛びこめ!」
光の柱まで、あと数歩。
ゴロがツキを背負ったまま跳ぶ。
ナギとメイが続く。
ソラが上から、ヒノが後ろから。
俺は父さんの手をつかんで、光の中へ身を投げた。
景色が溶ける。
上も下もなくなる。
背後で、向こう側の最後の地面が落ちていくのがわかった。
◇
どさり。
硬い床の感触。
学園最上の、石の床だ。
転がり出た俺の頭上で、縦穴の光がゆっくりと細くなる。
壁の模様が一本ずつ静かに消えていく。
赤い光はどこにもない。
扉は崩れもせず、眠るように閉じた。
その縁に、タマがいた。
四本の足がふるえている。
首輪はついたまま。
ずっと扉を保ってきた体はひとまわり痩せて見えた。
目が合った。
「……タマ」
タマが駆けだす。
よろけながら、転びそうになりながら。
そして、俺の胸に飛びこんだ。
どすん、と重い。
あったかい。
知っている重さだ。
何百回も抱き上げてきた、あの重さ。
「ただいま、タマ」
「キュー……」
甘えた声が胸に押しつけられる。
灰色の頭がぐりぐりと俺の顎を押す。
体中がふるえていた。
俺もふるえていた。
「待たせたな。……よく、こらえたな」
「キュー、キュー」
涙が止まらない。
止める気もなかった。
五匹も集まってきて、俺とタマをまとめて囲む。
ヒノがタマの頬をなめる。
メイが背中によじ登る。
ソラが頭の上をくるくる回り、ナギがみんなの足元を冷たく濡らした。
ゴロだけは、ツキを背負ったまま、ゆっくり近づいてきた。
◇
ゴロが身をかがめ、ツキを床に下ろす。
ツキが薄く目を開けた。
タマが俺の腕の中で固まる。
二匹の目が合う。
同じ灰色の鱗。
同じ、まん丸の目。
タマがおそるおそる近づく。
ツキが首を伸ばして、タマの頭を鼻先でそっとなでた。
「ルゥゥ」
「……キュ」
タマが小さく鳴いて、ツキの鼻に頭をこすりつける。
生まれてから一度も会ったことのない母親に。
扉ごしに、ずっと気配だけを感じていた相手に。
◇
円城寺が父さんの前に立っていた。
いつもの読めない笑みはどこにもない。
「……おかえりなさい」
「ただいま。待たせたね」
それだけだった。
円城寺は顔をそむけて、目元を押さえた。
じいちゃんが足を引きずりながら来る。
父さんの前で止まり、しばらく黙って顔を見た。
「……痩せたな、馬鹿息子」
「うん。ごめん、父さん」
じいちゃんの肩がぐしゃりと崩れた。
◇
その少し後ろで。
ひなたが動けずに立っていた。
父さんを見ている。
口がひらいて、また閉じる。
父さんが消えた日、ひなたはまだ小さかった。
写真の中の人がそこにいる。
ひなたの目がゆっくり動いた。
父さんから、俺へ。
───────
【あとがき】
第七十九話、読んでくれてありがとうございます。
父の侵食の核を焼いたのは、ヒノの「細い」紅蓮でした。強すぎる炎を、ろうそく一本だけに灯す練習。地味な積み重ねが、いちばん大事な場面で父を救う。この作品らしい決め手にしたかったんです。
そして、タマとの再会。「ただいま」と「キュー」。ここは書きながら、何度も手が止まりました。ずっと扉を保ってこらえ続けたタマを、やっと抱きしめられました。
ツキとタマ、母と子の初めての対面もありました。言葉はなくても、鼻先ひとつで伝わるものがあったと思います。
最後に、ひなたが父を見て、兄を見ました。彼女は何を言うのか。次回、第二部の最終話です。
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第80話 ただいま、そして
「……お父さん」
ひなたの声はかすれていた。
父さんが膝をつき、ゆっくり両腕を広げる。
ひなたは一歩だけ動いて、止まった。
それから俺を見て、また父さんを見て。
最後は走った。
あの夜のことはたぶんそれで全部だ。
◇
五日が過ぎた。
世界は静かになった。
ダンジョンは今もある。
竜も変わらず人のそばにいる。
始まりの星は消えたわけじゃない。
眠っているだけだ。
でも、あれから断片はひとつも出ていない。
綻びの報せもぴたりと止んだ。
学園に戻った朝、校門の前で足が止まった。
人だかりができていた。
「天野!」
いちばん先に飛んできたのはタケだった。
「お前、向こう側から帰ってきたって本当かよ! 親父さんまで連れて!」
「まあ、な」
「まあな、じゃねえよ! すげえよ!」
タケの横で、ノノが小さく頭を下げる。
「おかえりなさい、天野くん。……私、モグと一緒に、ちゃんと待ってたよ」
「ありがとう。モグにもよろしくな」
「モゴッ」
ノノの足元から、丸い頭がひょこりと出た。
人の輪が割れて、鷹宮が歩いてくる。
肩にシルバーホークを乗せたまま、俺の前で止まった。
「タマのことは、約束どおり守った」
「知ってる。ありがとう」
「礼はいい。……覚醒なしで、あれを還したそうだな」
「みんなでな」
鷹宮は鼻で笑った。
でも、その目はやわらかかった。
「お前は、僕が一生かけても届かない場所に行った。それを認めるのは、悔しいが気分がいい」
その後ろで、霧島レイが腕を組んでいる。
「規格外は潰される、って言ったの覚えてる?」
「覚えてる」
「撤回する。あなたは潰されなかった。……周りを、全部味方にしたから」
少し離れた柱の陰に、九条がいた。
目が合うと、ばつが悪そうにそっぽを向く。
「……ハズレ同士の傷の舐め合い、とか言って悪かったな」
それだけ言って、九条は早足で去っていった。
耳が赤かった。
最後に、榊先生が俺の頭に大きな手を置いた。
「あいつを連れて帰ってきたんだな」
「はい」
「あいつにできなかったことを、息子がやった。……見てるほうは、たまらんな」
榊先生の声は少しだけ湿っていた。
◇
夕方。天野竜具店。
店の前に、見慣れない車が止まっていた。
出てきたのは、背広の男と、卵を抱えた男の子だ。
「こちらで、竜を育てていただけると聞きまして」
じいちゃんが目をしばたたく。
「うちで、いいのか」
「ハズレと言われた卵なんです。でも、天野さんのところなら、と」
じいちゃんは卵を受け取った。
灰色の、少しいびつな卵。
しわだらけの手でそっとなでて、じいちゃんは笑った。
何年ぶりに見る顔だろう。
「任せとけ。どんな竜にも、活かし方がある」
それは父さんの口癖だった。
縁側では父さんが座っていた。
まだ痩せている。医者からはひと月は安静だと言われた。
隣に円城寺。その向こうに、湯呑みを持ったじいちゃん。
三人ともほとんど喋らない。
庭の隅ではツキが丸くなって眠っていた。
ゴロがその横に寄り添って、同じように目を閉じている。
平和だ。
五年ぶんの静けさがやっとこの家に戻ってきた。
◇
庭で、六匹が走り回っていた。
ソラがゴロの頭上をかすめて飛び、ゴロが「グモッ」と文句を言う。
ヒノとメイはまだ取っ組み合っている。
ナギはそれをにこにこ眺めている。
タマは俺の膝の上で、腹を出して寝ていた。
「ねえ」
隣に、ひなたが座った。
六匹を見たまま、ひなたが言う。
「来月、私の選定の儀なんだ」
「知ってるよ」
「どんな卵が出ても、お兄ちゃん、育てかた教えてくれる?」
驚いて、ひなたの横顔を見る。
ひなたは前を向いたままだ。
「当たり前だろ」
「……そっか」
ひなたは膝を抱えて、少し黙った。
それから、ぽつりと言った。
「学校で、みんなに聞かれたの。天野ソウマって、あんたのお兄ちゃんなのって」
「なんて答えたんだ」
ひなたがこっちを向く。
耳まで真っ赤だった。
「……うちのお兄ちゃんは、すごいんだから、って」
言葉が出なかった。
ハズレの卵を引いた日。
玄関で腕を組んで、うちはもうおしまいねと言った妹。
「その子たち、強そうな顔になってる」
ずっと前に一度だけ、そう言ってくれた妹。
いつか言わせてやると思っていた。
うちの兄貴はすごいんだって。
「ちょっとだけだからね」
「二回言わないのか」
「うるさい」
ひなたが俺の肩を叩く。
膝の上で、タマが目を開けて「キュルッ」と鳴いた。
◇
その夜。
ふと目が覚めた。
枕元がほんのり明るい。
タマが丸くなっていた。
何かを大事そうに抱えこんで。
そっと覗きこむ。
卵だった。
今まで産んだ、どの卵とも違う。
淡い金色の光が殻の内側からゆっくり脈打っている。
産卵をした気配なんて、なかった。
タマのHPも減っていない。
「タマ……それ、どうしたんだ」
タマは答えない。
ただ、まん丸の目で俺を見る。
あの日、始まりの星が最後に見せたのと、同じ目で。
俺はタマを視た。
タマ
レベル50
スキル:産卵/レベル上限なし/???
継承:始まりの星
見たことのない一行がそこにあった。
───────
【あとがき】
第八十話、そして第二部「別の道編」、最後まで読んでくれて本当にありがとうございます。
ハズレと笑われた卵から始まって、六匹の軍団で、覚醒に頼らず、父を連れて帰る。タマを犠牲にしない「別の道」を、ソウマはやりきりました。そしてひなたの「うちのお兄ちゃんは、すごいんだから」。第八話からずっと、この一言を書く日を待っていました。
ここまで一緒に走ってくれたあなたのおかげです。もし第二部を楽しんでもらえたなら、★とブックマークで応援してもらえると、第三部を書く大きな力になります。
第三部は、あの金色の卵から始まります。「継承」とは何なのか。タマは始まりの星から、何を受け取ったのか。そして、ひなたの選定の儀も。
また、天野の家の庭で会いましょう。




