第七話 真壁という男
声をかけてきたのは、向こうからだった。
龍馬が取引所の前で立ち止まっていると、日本語が聞こえた。
「坂本さんですね」
振り返ると、洋装の男が立っていた。
三十前後。細身。髪を横に分けて、油で固めていた。背広の仕立てが良く、靴が光っていた。日本人だと分かったのは、顔立ちと、わずかに残った訛りだけだった。
「真壁修二と申します」男は英国式に、軽く頭を下げた。「グレイさんから、来られると聞いていました」
龍馬は黙って男を見た。
グレイが、知らせていた。
――――――
真壁が連れて行ったのは、租界の外れにある茶館だった。
中国人と西洋人が半々に座っていた。真壁は慣れた様子で奥の席に座り、中国語で注文した。流暢だった。
「いつから上海におる」龍馬は聞いた。
「四年になります」真壁は茶を受け取りながら言った。「最初の二年は通訳。今は商社に籍を置いています」
「どこの商社じゃ」
「英国系です」
龍馬は茶を飲んだ。
「もとは何者じゃ」
真壁は少し笑った。笑い方が、日本人のものではなかった。
「佐賀の生まれです。父は下級武士でした」
「刀は」
「捨てました」真壁は当然のように言った。「長崎で英語を覚えて、上海に来た。それだけです」
それだけです、という言い方が引っかかった。
何かを削り落とした言い方だった。
――――――
真壁は話がうまかった。
上海の地理。租界の力関係。どの商社が今強く、どの銀行が次の波に乗るか。情報が整理されていて、無駄がなかった。
龍馬は聞きながら、別のことを考えていた。
この男は、何のために話しているのか。
グレイに頼まれたからか。それとも、自分で何かを見ている男なのか。
「坂本さん」真壁が言った。「取引所で何を見ていましたか」
「人を見ていた」
「人ですか」
「数字を見ている人間を、見ていた」
真壁はしばらく龍馬を見た。それから、少しだけ表情が変わった。何かを値踏みするような目だった。
「ここは速い街です」真壁は言った。「長崎の十倍速い。考える前に動かないと、流される」
「流された者はどうなる」
「中国人街に行けば分かります」
龍馬は黙った。
真壁は続けた。
「坂本さん、日本はあと何年で、この街に追いつけると思いますか」
「追いつく必要があるか」
真壁は笑った。今度は、少し違う笑い方だった。
「追いつかなければ、追いつかれます」
「誰に」
「この街に」真壁は窓の外を見た。「上海は待ちません。日本を待って止まるような街じゃない」
龍馬は窓の外を見た。
馬車が走っていた。電信柱が連なっていた。西洋人と中国人が、同じ速度で歩いていた。
真壁の言っていることは正しかった。
だからこそ、どこかが違う気がした。
――――――
別れ際、真壁は一枚の紙を渡した。
電信局の住所だった。
「何かあれば使ってください」真壁は言った。「上海では、情報が一番速い乗り物です」
龍馬は紙を受け取った。
「あんたは、日本に帰るつもりはあるか」
真壁は少し止まった。
「帰って、何をするんですか」
答えではなかった。
だが、答えだった。
龍馬は礼を言って、茶館を出た。
――――――
夕方の街を歩きながら、龍馬は真壁の顔を思い出していた。
洋装。流暢な中国語。英国式の礼。
全部、身につけたものだった。
だが何かを、脱いだ跡がある。
龍馬には分かった。
あの男は昔、刀を好きだったはずだ。
捨てたのではなく、捨てるしかなかった。
そしてそれを、もう悔やんでいない。
それが龍馬には、一番怖かった。




