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Company ―仕組みで戦え―  作者: 八雲 海


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第十二話 上海を出る朝

出発の前日、龍馬は一人で中国人街に入った。


 租界の境界を越えると、空気が変わった。


 看板が中国語だけになった。道が狭くなった。匂いが変わった。香辛料と、油と、古い木の匂い。


 人が多かった。


 だが賑やかさが違った。


 租界の賑やかさは、速度の音だった。馬車と電信と取引所の声。


 こちらの賑やかさは、生活の音だった。子供と洗濯物と、路地の奥から聞こえる老人の咳。


 龍馬は歩きながら、両方を比べた。


 どちらも本物だった。


 どちらかが嘘というわけではなかった。


 ただ、速度が違った。


 そして速度の遅い方が、少しずつ狭くなっていた。


――――――


 路地の奥に、小さな茶屋があった。


 老人が一人で店をやっていた。龍馬は身振りで茶を頼んだ。老人は黙って出した。


 龍馬は座って、路地を見た。


 子供が走っていた。女が洗濯物を干していた。どこかで鶏が鳴いた。


 租界からは、ここが見えない。


 ここからは、租界が見えない。


 同じ街の中に、見えない壁があった。


 龍馬は茶を飲んだ。


 汐の言葉が戻ってきた。


 ——人が、そこしか選べなくなるようにするんです。


 この路地の人々は、租界を選んでいない。


 選べなくなっていた。


 あるいは最初から、選択肢に入っていなかった。


 龍馬は茶碗を置いた。


 老人が龍馬を見ていた。


 何も言わなかった。


 ただ見ていた。


 龍馬は銭を置いて立ち上がった。


 老人は受け取って、また黙った。


 それだけだった。


 だがその目が、龍馬には長く残った。


――――――


 宿に戻ると、グレイが待っていた。


 珍しかった。グレイから訪ねてくることは、今まで一度もなかった。


 「座ってください」龍馬は言った。


 「いいえ」グレイは立ったままだった。「すぐ失礼します」


 龍馬は黙って待った。


 グレイは窓の外を見た。


 黄浦江が見えた。


 「坂本さん」グレイは言った。「あなたは明日、長崎に帰りますね」


 「ええ」


 「上海で、何を持って帰りますか」


 龍馬は少し考えた。


 「問いを持って帰ります」


 グレイは龍馬を見た。


 「答えではなく」


 「答えはまだ出ていません」


 グレイはしばらく龍馬を見ていた。


 それから、静かに言った。


 「一つだけ、言わせてください」


 「どうぞ」


 「あなたが上海で見たことは、正しい」グレイは言った。「世界はこの方向に動いている。止まらない。誰が望んでも、止まらない」


 「知っとります」


 「では」グレイは続けた。「あなたが長崎に帰って、日本のために何かをしようとする時、一つだけ覚えていてほしいことがあります」


 龍馬は黙って聞いた。


 「速度は、道具です」グレイは言った。「電信も、蒸気船も、保険も、物流も。全部、道具だ」


 「ええ」


 「道具を持った者が、強い」


 「それも知っとります」


 「しかし」グレイは少し間を置いた。「道具を持った者が、必ず正しいわけではない」


 龍馬は驚いた。


 グレイが、そう言うとは思っていなかった。


 「あなたは、インドで何を見たんですか」龍馬は聞いた。


 グレイは答えなかった。


 ただ、窓の外を見た。


 黄浦江に船が行き来していた。


 しばらくして、グレイは言った。


 「私は正しいと思ってやってきました」静かだった。「今も、間違っていないと思っています」


 「でも」


 「でも」グレイは繰り返した。「正しいことが、全てを許すわけではない」


 部屋が静かになった。


 龍馬はグレイを見た。


 この男が、こんなことを言う。


 長崎で「文明化です」と言った男が。


 「グレイ」龍馬は言った。「あんたは苦しいか」


 グレイは少し止まった。


 「……時々」


 それだけ言った。


 龍馬は黙った。


 グレイも黙った。


 二人で、しばらく黄浦江を見た。


 船が一隻、ゆっくりと通り過ぎた。


 「坂本さん」グレイが言った。「日本が、自分で道具を持てるといいですね」


 嫌みではなかった。


 本心だった。


 だから龍馬には、返す言葉がなかった。


――――――


 グレイが帰った後、龍馬は荷をまとめた。


 大したものはなかった。着替えと、地図と、書き溜めた紙が数枚。


 地図を広げた。


 世界地図だった。


 電信ケーブルの線。航路の線。港の印。


 日本には、まだ線が少なかった。


 龍馬は日本の位置に指を置いた。


 長崎は、端にあった。


 上海から見れば、隣だった。


 ロンドンから見れば、果てだった。


 どこから見るかで、場所の意味が変わる。


 龍馬は地図を閉じた。


――――――


 翌朝、船が出た。


 真壁が埠頭まで来ていた。


 「世話になった」龍馬は言った。


 「またいつか」真壁は言った。


 「日本に来い」


 真壁は少し笑った。


 「いつかは」


 「いつかじゃなく、早う来い」


 真壁は何も言わなかった。


 ただ、少し目を細めた。


 龍馬は船に乗った。


 埠頭が遠ざかった。


 真壁の洋装姿が、小さくなった。


 龍馬は甲板に立ち、上海を見た。


 石造りの建物。電信柱。蒸気船の煙。


 全部が、動いていた。


 止まらなかった。


 龍馬は目を閉じた。


 上海に来る前の自分と、今の自分は、同じではなかった。


 何かが変わっていた。


 何が変わったか、まだ言葉にできなかった。


 だが、変わった感触だけはあった。


 目を開けた。


 上海が遠くなっていた。


 龍馬は東を向いた。


 長崎の方へ。


 汐のいる方へ。


 海は広かった。


 風は向かい風だった。


 それでも船は進んだ。


――――――


 船が沖に出た頃、龍馬は甲板で紙を出した。


 上海で書きかけた、あの一行の続きを書こうとした。


 「国では遅い」


 その下に、今度は書けた。


 「じゃが、速さだけでは、何かが死ぬ」


 「その何かが、何かを分からんうちは」


 「動いたら、いかん」


 龍馬は筆を置いた。


 風が来て、紙の端を揺らした。


 龍馬は紙を押さえた。


 海を見た。


 どこまでも続く海を。


 この海の向こうに、ロンドンがある。


 帝国の中枢が。


 世界を設計した者たちが。


 いつか、行かにゃならん。


 龍馬はそう思った。


 まだ、その時ではなかった。


 だが、いつかは。


 必ず。



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