第十一話 真壁の答え
翌朝、龍馬は真壁を訪ねた。
昨日グレイと話したことを、誰かに言わなければならなかった。グレイには言えない。海援隊の隊士には、まだ早い。
真壁しかいなかった。
それが龍馬には、少し怖かった。
――――――
商社の事務所ではなく、真壁の部屋だった。
租界の中の、小さなアパートだった。洋風の家具が並んでいたが、隅に刀掛けがあった。刀はなかった。掛けだけが残っていた。
龍馬はそれを見た。
真壁は見なかった。
「昨日、グレイに会った」龍馬は座りながら言った。
「知っています」真壁は茶を出した。「この街では、誰が誰に会ったか、すぐ分かる」
「情報の街じゃな」
「ええ」
龍馬は茶を受け取った。
「真壁、儂は昨日、おかしなことを言った」
「何をですか」
「日本も、会社になるしかない、と言った」
真壁は表情を変えなかった。
「おかしくないと思います」
「そうか」
「むしろ」真壁は自分の茶を持った。「坂本さんが上海に来て、最初にたどり着く答えとして、正しい順番だと思います」
龍馬は真壁を見た。
「最初に、か」
「ええ」真壁は窓の外を見た。「私も、同じ答えにたどり着きました。四年前に」
「で、今はどう思う」
真壁は少し間を置いた。
「今も、間違っていないと思います」それから言った。「ただ」
「ただ」
「会社になることと、会社に飲まれることは、紙一重です」
龍馬は黙った。
真壁は続けた。
「東インド会社も、最初は民間の組織でした。国家より速く動くために作られた。でも今は」
「国家より大きくなった」
「ええ」真壁は静かに言った。「飲み込んだはずが、飲み込まれた。その逆転がいつ起きたか、当事者には分からなかったと思います」
龍馬は刀掛けを見た。
刀のない刀掛けが、そこにあった。
「真壁」龍馬は言った。「あんたは四年前、刀を捨てた」
「ええ」
「後悔しとるか」
真壁はしばらく黙った。
窓の外で、馬車が通った。蹄の音が遠ざかった。
「捨てたことは、後悔していません」真壁はゆっくり言った。「ただ」
「ただ」
「捨てた時に何かを一緒に捨てた気がして」真壁は刀掛けを見た。「それが何だったか、まだ分かりません」
部屋が静かだった。
龍馬は茶を飲んだ。
冷めていた。
――――――
しばらくして、真壁が言った。
「坂本さんは、海援隊を会社にしたいんですか」
「まだ分からん」
「でも、考えている」
「考えとる」
真壁は頷いた。
「やるなら、一つだけ忠告があります」
「聞こう」
「速度を持つことと、速度に支配されることは違います」真壁は言った。「上海で速く動ける者は、みんな何かを担保に入れている」
「何を」
「人によって違います」真壁は窓を見た。「国を担保に入れた者もいる。仲間を担保に入れた者もいる。自分自身を担保に入れた者もいる」
「あんたは何を入れた」
真壁は答えなかった。
少し間を置いて、言った。
「それが、まだ分からないんです」
龍馬は真壁を見た。
四年間、上海で生きてきた男が、まだ分からないと言っていた。
嘘ではなかった。
だから龍馬には、怖かった。
――――――
帰り際、龍馬は部屋を出ようとして、振り返った。
「真壁、一つ聞いていいか」
「どうぞ」
「儂が海援隊を会社にしようとしたら、あんたは手伝うか」
真壁は少し止まった。
それから、静かに言った。
「条件によります」
「どんな条件じゃ」
「日本のためになるかどうか」
龍馬は真壁を見た。
「あんた、日本のためと言うたな」
「ええ」
「さっき、帰ったら夢が覚めると言うとった」
真壁は黙った。
「帰れんのに、日本のためか」
真壁はしばらく答えなかった。
それから、窓の外を向いたまま言った。
「帰れないから、日本のためなんです」
龍馬は何も言わなかった。
扉を開けた。
廊下に出た。
閉まった扉の向こうで、真壁がまだそこにいる気がした。
刀のない刀掛けの前で。
――――――
街に出ると、風があった。
龍馬は歩きながら、真壁の言葉を反芻した。
飲み込んだはずが、飲み込まれる。
速度を持つことと、速度に支配されることは違う。
帰れないから、日本のため。
全部、龍馬には刺さった。
そして全部、答えではなかった。
龍馬は足を速めた。
上海の喧騒が、四方から来た。
中国語と英語とフランス語と、馬の嘶きと蒸気の音と。
その中で龍馬は、初めて長崎の静けさを思い出した。
波止場の朝。
霧。
煙草の煙。
汐の声。
——英国人は、銃より先に港を見ます。
龍馬は立ち止まった。
汐はあの時、笑う龍馬を見ていた。
そして龍馬は笑った。
まだ分かっていなかったから。
今なら、笑えない。
分かってしまったから。
でも分かったからといって、どうすればいいのか。
まだ、出なかった。
龍馬は歩き出した。
黄浦江の方へ。
船の見える場所へ。




