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一般人が異世界に!?  作者: グリーン・シールド


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第四章

 翌朝、僕は見慣れぬ鳥の甲高い鳴き声で目を覚ました。

 大きく一つ伸びをすると、体に溜まっていた疲れが芯から抜けているのを実感する。やはり、石畳や冷たい地面ではなく、柔らかなベッドで眠るというのは、それだけで贅沢な回復魔法のようなものだ。

 支度を終え、僕より少し後に目を覚ましたリーブ先輩と共に街へと繰り出した。

 見上げる空は、あいにくの曇り模様だ。どんよりと分厚い雲が帝都の尖塔を押しつぶすように垂れ込め、午後からの雨を予感させる黒ずんだ色が広がっていた。

 そんな陰鬱な空気を吹き飛ばすように気を取り直して、まずは道行く人々に声をかけていく。幸いなことに、帝都の往来は昨日と変わらず活気に満ちていた。

「精鋭騎士団について、些細なことでも構いません。何か知っていることがあれば教えてください」

 二、三人に体よくあしらわれた後、ようやく足を止めてくれた男がいた。

 その話によれば、精鋭騎士団の宿舎は演習場と宮殿のちょうど中間あたりにあるらしい。帝国の象徴たる部隊ともなれば、与えられる住まいの立地も最高級というわけだ。

 僕たちは教えられた場所へと急いだ。時刻はまだ早朝。もしかしたら、任務に出発する前の彼らに接触できるかもしれない。

「……これが、精鋭騎士団の宿舎か」

 到着した僕たちを待ち受けていたのは、整然と整えられた外装が美しい、豪奢な建物だった。選ばれた少数のための施設だからか、階層こそ控えめだが、一棟一棟に贅を尽くした意匠が施されている。いかにも「国のお金がかかっています」という佇まいだ。

 正面から堂々と待つのは不審がられると思い、僕たちは近くの物陰に身を潜めて誰かが出てくるのを待つことにした。

(……冷静に考えると、やってることはかなり怪しいな)

 客観的に自分たちの行動を振り返り、少し苦笑いする。しかし、数十分待っても一向に人が出てくる気配がない。それどころか、生活音一つ聞こえてこないのだ。

(……さすがにおかしいな)

 たとえ今日が非番であっても、これだけの規模の宿舎が無音というのは不自然だ。僕は意を決して、一階の入口近くの部屋へと歩み寄った。

「ごめんくださーい!」

 ノックと共に声をかける。その音はやけに大きく響き渡った。

 しかし。

「……」

 返事はない。この時間になっても、誰もいない。

 ――ということは。

(……これが、精鋭というやつか)

 集合時刻があまりにも早いのか、あるいはすでに前線へと赴いているのか。いずれにせよ、精鋭部隊としての自覚と規律の高さが、この静寂に表れているようだった。

 僕は先輩の待つ場所へ戻り、状況を伝えた。それを聞いた先輩は、腕を組んで思案に耽る。

「そうか……。ではどうする? 彼らが帰宅するまでここで粘るか。……それとも」

 先輩はそこで一度言葉を切り、面白そうに口角を上げた。

「マノーの父親の方を、先に洗ってみるか」

 そうだ。いつ帰るかも知れぬ騎士を待つのは、今の僕たちにとって時間の浪費でしかない。マノーさんに費やせる猶予は、長くてあと三日。悠長に構えている暇はないのだ。

「そうですね。お父さんについて、街で改めて聞き込みをしてみましょう」

 

 僕たちは帝都の中心街から離れ、外壁に近い下町へと向かった。

 一般的に、中心に近いほど地価は跳ね上がる。多額の借金を背負っているというマノーさんの父親が住んでいるとするなら、この辺りだと踏んだのだ。

 ここは中心街の華やかさとは打って変わり、淀んだ空気が漂っていた。錆びた鉄と、古びた血の匂いが混じり合い、至る所でくたびれた溜め息が漏れている。どこか無法者たちが跋扈していそうな、殺伐とした雰囲気だ。

 とはいえ、ここも帝都の一部。表立って暴れる者はいない。――少なくとも、表向きは。

 僕は安タバコのようなものを燻らせ、俯き加減に歩いていた男に声をかけた。

「すみません。マノーさんの父親に関する情報を探しているのですが、何かご存知ありませんか?」

 男がすっと顔を上げた。額には皺を深く刻み、尖った目尻が僕を射抜くように凝視する。

「……なんだ。お前もバッカスに金を貸しちまったのか? 若いのに気の毒だが……止めておけ」

 バッカス。それがマノーの父親の名前か。

 しかし男はその名を発することすら忌み嫌うように顔を顰め、僕を無理やりにでも断念させようとするように、強い語気で続けた。

「……最悪、殺されるぞ」

 男の声は低く、重かった。それは単なる脅しではなく、地獄を見てきた者が語る「生きるための教訓」のように響いた。

「……殺される? なぜ、貸した方がそんな目に遭うんですか?」

 普通は逆だ。貸した側が取り立てのために荒事を行うのは聞くが、その逆というのは不可解極まりない。

 男は一瞬、答えるべきか迷ったようだが、僕の若さを不憫に思ったのか、ポツリと口を開いた。

「――『貸し手殺し』だ」

 その言葉が、不吉な響きを伴って耳に残る。

「奴にはな、そう呼ばれる必殺の守護人がついている。本名も顔も誰も知らねぇが、襲われた連中は口を揃えてこう言うんだ。『関わるんじゃなかった』とな。奴はその用心棒に、文字通り貸主を消させて借金を踏み倒し続けてるのさ。だからお前も、今回は運が悪かったと諦めて帰るんだな」

 息が詰まるような感覚だった。喉がひどく乾き、嫌な汗が背中を伝う。

 それでも。

 ここで引き下がるつもりは、最初からなかった。そもそも、僕は金を取り立てに来たわけではない。

「……教えてくれてありがとうございます。でも、僕は債権者じゃないんです。彼に別の用があって来ました。彼の住処や、よくいる場所を知っていたら教えてください」

 僕の告白に男は少し驚いたようだったが、やがて諦めたように肩をすくめた。

「……博打打ちの溜まり場だ。奴は毎日そこに通い詰めてる。場所はな……」

 男から教えられたその場所を聞いた瞬間、嫌な予感が全身を駆け巡った。

 僕は「ありがとうございます」と一礼し、隣で表情を硬くしている先輩と共に、その賭博場へと足を踏み出した。


 賭博場へと繋がる道は、驚くほど入り組んでいた。

 帝都の華やかな大通りから外れ、人一人が通るのがやっとの建物の隙間を、右へ左へと縫うように進む。そこは陽の光も届かない、湿り気を帯びた路地裏の世界だった。

 最後の角を曲がったところで、僕は目的の家屋を見つけた。

 周囲の建物から浮いている――明らかにそこだけ、空気の密度が違うのだ。

「ここが、賭博場……」

 僕は男の説明と照らし合わせながら、目の前の建物を仰ぎ見た。

 扉の上には「エールハウス」と刻まれた古びた看板が掲げられている。名目上は酒場のようだが、実態は酒を呼び水にした賭博の巣窟なのだろう。

 扉に近づいてみると、「準備中」と書かれた小さな札が不愛想に掛かっていた。

 今はまだ朝。夜の帳が下りてから動き出す店なのだろうか。だが、今の僕たちは一刻も早く情報が欲しかった。準備中であれば店主に煙たがられるだろうが、少しの時間を割いてもらえるよう交渉してみる価値はある。

 僕はトントンと軽くノックをした。

 少し待ってみるが、中から返答はない。不在だろうか。

 試しに軽く扉を押してみると、ギィ……と嫌な音を立てて、意外にもあっさりと隙間が空いた。鍵がかかっていない。

 僕は手をかけたまま、一瞬動きを止めた。

(……戻るか?)

 いや、ここまで来て手ぶらで帰るわけにはいかない。僕は振り返り、背後のリーブ先輩と目を合わせた。二人同時に、短く頷く。

 行こう。僕は意を決して扉を押し開け、中へと踏み込んだ。

 次の瞬間、僕の感覚を襲ったのは強烈な違和感だった。

 「準備中」のはずの店内には、野太い笑い声とジョッキのぶつかる音が満ちていたのだ。

 充満するタバコの煙と、鼻を刺すエールビールの匂い。そして、テーブルを囲んで語り合う男たちの背中。

(……営業中、なのか?)

 入口の札を思い出す。あれは「一見さんはお断り」という、この界隈の暗黙のルールだったのかもしれない。

 入口近くの席に座っていた五十代ほどの男二人が、侵入者に気づいて振り返った。

 机の上には酒と、二つの立方体が転がっている。各面に一から六の数字が刻まれた「サイコロ」だ。

 片方の男がそれを指先で弄びながら、低く言った。

「……なんだ、兄ちゃん? ここはただの酒場じゃねぇんだ。飲み食いしたいだけなら、他を当たりな」

 それは、この場に似つかわしくないほど穏やかな、だが「場違いだ」と明確に告げる忠告だった。手に持つサイコロが、ここが間違いなく賭博場であることを確信させる。

 マノーの父親、バッカスがいるかもしれない。

 僕は逃げ腰になりそうな心を奮い立たせ、目の前の男を射抜くように見据えた。

「……いいえ。僕はここに用があって来たんです。バッカスという男が、今ここにいらっしゃいませんか?」

 世間知らずな少年の口から出た意外な名前に、男は驚き、数秒間言葉を失った。

「……バッカスに用、だと……?」

 彼に用があるということは、大抵の場合、金を取り立てに来たということだ。だが、その貸主の多くが「守護人」に消され、命からがら逃げ帰った者がその残虐性を広めた今、面と向かって彼を探す者など絶滅したはずだった。

 それが今、年端もいかぬ少年が真っ向から彼を呼んでいる。

「おい、このガキ! バッカスに金を貸したらしいぞ!」

 男が店中に響き渡る声で叫んだ。

 その瞬間、一瞬で音が死んだ。

 喧騒がピタリと止み、店内の全員が同時に僕の方を向いた。

「バッカスだって……?」

「また一人、被害者が生まれたのか。かわいそうに……」

 じわじわと詰め寄ってくる男たち。向けられるのは同情と、見世物を眺めるような好奇の視線だ。

 僕は慌ててその誤解を打ち消した。

「待ってください! 金は貸していません。僕は彼の娘――マノーさんの情報が欲しいだけなんです。この中にバッカスさんがいたら名乗り出てください!」

 店中に響くよう声を張り上げたが、名乗りを上げる者はいない。男たちは互いに顔を見合わせ、「金貸し以外に何の用があるんだ」と不審げに囁き合っている。

 ガタッ、と奥で椅子を蹴る音がした。

 一人が拳を鳴らしながら、殺気を孕んだ声で凄む。

「……奴とどんな関係なんだ? 答えようによっちゃ、少し痛い目を見てもらうことになるが……」

 もし僕が治安維持部隊の密偵であれば、彼らの遊び場も危うい。包囲網が狭まり、空気がピリピリと張り詰める。答えを間違えれば、命の保証はない。

 だが、僕は引かなかった。

「……僕は治安部隊の人間ではありません。ただの一般人です。長年の憧れだったマノーさんの情報を求めて、その父親という唯一の手がかりを頼りにここまで来たんです」

 少し嘘を混ぜたが、その眼差しには本気の決意を込めた。

 沈黙の末、その重苦しい空気を破ったのは、奥から現れた一人の女性だった。一目でこの場を仕切っているとわかる、毅然とした佇まいだ。

「……君が嘘を言っているかどうか、正直、私にはわからない。だから、早いところ店から出ていってほしいんだ。その代わり、彼に関する情報は無料(タダ)で教えてあげよう。……お前たちも、それでいいな?」

 少年への暴力はやめろ、という無言の圧力。店主と思われる彼女の言葉に、誰も反論はしなかった。

「ありがとうございます」

 彼女は辺りを見回し、淡々と言う。

「まず、彼は今ここにはいない。それは確かだ」

「……そうですか。では、彼の住んでいる場所を教えていただけますか?」

「いきなり核心か」

 店主は僕の物怖じしない物腰に、不敵な笑みを浮かべた。

「いいだろう。場所はここだ……」

 彼女は手際よく紙に地図を書き記し、こちらへ差し出した。

「これだけでいいのか?」

「はい。あとは、本人に直接訊いてみます」

 あまり深入りして貸しを作るのも危うい。僕は地図を握りしめた。

「……そうか。じゃあ最後に、要るかはわからないが彼の定例を教えてやろう。奴は毎度、19:00に入店して22:00には帰る。きっちりとな。一度もズレたことはない。理由は知らないがね」

 決まった時間。それ以外の時間にはいられない理由があるのだろうか。

 僕はもう一度深く礼を伝え、先輩と共に酒場を後にした。

 背後で再び喧騒が戻るのを感じながら、僕の胸の中には、言葉にできない嫌な予感だけが静かに降り積もっていた。


 僕たちはバッカスが住んでいるという建物へと向かった。

 教えられた住所は、下町の中でも特に荒廃した一角にあり、周囲には腐臭が漂い、どこかから野良犬の遠吠えが聞こえてくる。そこにあったのは、家と呼ぶにはあまりに心許ない、ボロ小屋同然の小さな建物だった。

「ごめんくださーい!」

 ノックと共に中へと声を掛けたが、返ってくる反応は無かった。

「……不在でしょうか」

 それとも、僕たちのような見知らぬ輩の対応を嫌がって、不在を装っているだけなのか。扉にはしっかりと鍵がかけられており、中の様子を窺い知ることはできない。

 先輩が腕を組んで、深く思案に耽る。

「……新たな貸し手を探して、街を徘徊しているのかもな。あるいは、日中はどこかでまともに働いているのか」

 いくら「守護人」の力で踏み倒せるといっても、そもそも貸してくれる相手がいなければ成り立たない話だ。最近は彼と取り合ってくれる者も減ったと聞く。もはや、自分で日銭を稼がなければならない段階にきているのかもしれない。

「……どうする? 18:00頃にはさすがに帰宅すると思われるが、それまでここで張るか。……不思議なもんだな。マノーの帰宅も、恐らくはそのくらいの時間になる。どちらか一方しか待ち伏せはできないぞ」

 奇妙な一致。しかし、僕はどちらの案に対しても首を横に振った。

「……いえ、正門で待てば、精鋭騎士団の後の動きをより確実に追えるはずです。マノーさんには、解散した直後に接触するのがベストだと思います」

 リーブ先輩は僕の意見を聞いて、「それもそうだな」と納得したように頷いた。

「では、それまでの間は昼食をとりつつ、聞き込みに時間を費やすとしようか」


 時刻は十七時半。

 降り始めた雨が、僕たちの肩を冷たく叩いている。聞き込みで得た「精鋭騎士団の解散時刻は17:50」という情報を頼りに、僕たちは正門の前で彼らの帰還を待っていた。

「……傘とかって、ないんですか?」

 たまらず先輩に尋ねる。衣服が濡れ、じわじわと体温が奪われていくのは強烈な不快感を催す。しかし、周囲を通る人々は誰一人として傘を差してはいない。

「……傘? あんな物はダサいからな。この国じゃ必要ない。……それより、来たぞ」

 先輩が鋭く告げた瞬間、重厚な正門が音を立てて開いた。

 真紅の鎧に身を包んだ精鋭騎士団が、一糸乱れぬ隊列を成して堂々と入城してくる。後列には、本日の戦果を見せびらかすように荷車に括り付けられた獲物が運ばれていた。

 そして――いた。マノーだ。

 相変わらず前列を陣取り、凛とした空気を纏っている。常に先頭を任されるということは、やはり彼女が部隊の中でも傑出した存在であることを物語っていた。

「いくぞ」

 先輩の合図で、僕たちは彼女たちの後を追った。雨のおかげで視界が悪く、こちらの足音も紛れる。尾行には絶好の条件だった。

 精鋭騎士団は、先日の凱旋パレードとは違う道を通って、演習場近くの広間に腰を落ち着けた。

 整列の合図と共に、騎士団長らしき、意匠の凝らされた鎧を纏った男の前へと集合する。その後、簡潔な解散の号令が下され、騎士たちはそれぞれの行動に移った。

 ある者は積荷から戦果を下ろし始め、ある者は足早に帰路に着く。

 その中で、マノーは一人の女性騎士と話をしていた。

 僕たちは機を見計らって、彼女へと歩み寄った。

「すみません。マノーさんでよろしいでしょうか?」

 雨に靡く金髪を目印に、僕は声を掛けた。

 近くで見ると、その美しさはさらに際立っていた。凛々しい顔立ちに、意志の強そうな緑色の瞳。その瞳が、まっすぐに僕を射抜いた。

「お前は……」

 先日、パレードの最中に目が合った時のことを思い出したのだろうか。彼女は「誰だ」と問う代わりに、僕を静かに凝視した。

「いかにも。私がマノーだが」

「……二人きりでお話ししたいのですが、よろしいでしょうか?」

 大衆の面前で話せる内容ではない。場所を変えないかと提案した僕だったが、彼女の反応は冷ややかだった。

「……すまないが、今から私は行く宛がある。話なら、非番の日にしてくれ。……リグエス、頼む」

 マノーはそれだけ言い残すと、隣にいた銀髪の女性騎士にこの場を託し、背を向けて足早に去っていってしまった。

「了解。……というわけだから、君たちには悪いけど、彼女を追うのは止めてくれないかな?」

 残された銀髪の騎士――リグエスと呼ばれた女性が、困ったような笑顔で僕たちの前に立ちはだかった。

「さっきからずっとつけて来てたでしょ? ……しつこすぎると、女の子には嫌われちゃうよ?」

 初対面だが、ずいぶんと物腰の柔らかい女性だ。それとも、単に僕たちを子供扱いして見逃そうとしているのか。

 しかし、その態度の余裕こそが、付け入る隙になりそうだった。

 彼女はマノーさんのことを少なからず知っている様子だ。このリグエスという女性から話を引き出せれば、より本質的な情報に辿り着けるかもしれない。

 僕は決意を固め、目の前の女性騎士へと向き直った。まずは、この「盾」となっている彼女との対話を試みるべきだろう。

 三人で雨を凌げる軒下へと移動し、僕は早速、リグエスという女性騎士に交渉を持ち掛けた。

「……まだ、名乗っていませんでしたね。僕は……ウェイルと申します」

「私はリーブだ」

 二人で自己紹介をして、まずは怪しい者ではないことを主張する。

「僕たちはマノーさんに、一攫千金となる案件を依頼しに来たんです。……完遂すれば一生を遊んで暮らせるほどの大金。それを手に入れれば、きっとお父さんの借金も返せることでしょう。是非とも彼女に話を通してもらいたいのですが、いかがでしょうか?」

 僕は話の大枠をぼかしながら説明した。部外者であるリグエスに、いきなり「勇者パーティ」という国家機密をバラすわけにはいかない。しかし、その曖昧さのせいで、僕の説明はいかにも怪しい……まるで「闇バイト」の勧誘のような響きになってしまった。

 父親の借金についてこちらが掴んでいることには驚いたようだったが、リグエスは呆れた顔でその点を指摘した。

「……はぁ。呆れた。そんな怪しい商談に、彼女が乗るとでも思ってるの? 第一、こっちは精鋭よ。相応の報酬は約束されているわ。それを超えるメリットを提示してくれなきゃ、話にもならない。もっと具体的に説明してよ」

 突き放すような物言いだが、彼女は立ち去ろうとはせず、こちらの真意を測るように目を細めている。さっさと話を切り上げてもおかしくない状況で、あえて対話を続けようとする彼女の意図は何なのか。

 僕が考え込んでいると、スッとリーブ先輩が一歩前へ出た。

「……取り繕っていては埒が明かないな。ウェイル、彼女には本当のところを説明するしかないだろう」

「先輩、でも……!」

 リグエスが本当に信用に値する人物なのかは不明だ。もしこの話を吹聴されれば、帝国の奥の手が水泡に帰す。しかし、先輩はリグエスの「帝国精鋭騎士」としての誇りと肩書きを信頼したようだった。

「この女は、安易に口を割るタイプじゃない」

 そう付け足し、先輩はリグエスへと向き直った。

「……その件に関しては、私の方から説明しよう。ただし、これから話すことは帝国の最重要機密だ。軽々しく他言しないと約束してもらえるか?」

 先輩が重々しく確認を取る。例え相手が他国の密偵だとしても頷くだろうから、言葉だけの約束に法的な意味はない。それでも先輩が問うたのは、相手の声音や眼差しから信義を推し量れるという、実戦経験に裏打ちされた自負があるからだった。

 リグエスは少しの沈黙の後、「……うん。約束する」と深く頷いた。

 リーブ先輩は辺りを見回して誰もいないことを確認すると、帝国の「勇者パーティ」計画の全貌を詳細に語り始めた。

 雨音が激しさを増し、周囲の音をかき消していく。屋根の隙間から落ちる雫が僕の肩を濡らし、肌寒さが身に沁みる。

 一通りの説明を聞き終えたリグエスは、ゆっくりと目を閉じて息を吐いた。

「……なるほどね。国が直々に動いているプロジェクトなら、報酬の手厚さも納得だわ。皇帝陛下の名を語って詐欺を働くとも思えないし」

 皇帝の名が出たことで、ようやく疑念が晴れたのだろう。帝政国家において、その名を軽々しく出すことは死罪に等しい。

「でも、それこそそんな危険な仕事に彼女を送り出すわけにはいかないわ。今のままでも、彼女には十分なお金があるはずだから」

 しかし、再び目を開いたリグエスは、尚も拒絶の色を見せた。

 その「拒絶」の理由に、僕は違和感を覚えた。ある前提を元にした、あまりに矛盾した言葉。僕はその一点に深く切り込んだ。

「……妙ですね。多額の借金があるのに、『お金が足りている』だなんて」

 僕は彼女を正面から見据えた。

「つまりあなたは、『貸し手殺し』の存在を知っているんじゃないですか?」

 もし稼ぎをすべて返済に充てているなら、マノーさんはもっと困窮した生活を送っているはずだ。だが「足りている」という。それは、返済せずに借金を「消す」手段があることを示唆している。

 指摘されたリグエスは、ハッと目を見開いて咄嗟に口を手で押さえた。

「知っているのなら教えてください。その正体を」

 僕が一歩詰め寄ると、彼女は反射的に右足を引いて後退しようとしたが、その動きをぴたりと止めた。

「……言えない」

 彼女は目を逸らし、苦しげに唇を噛んだ。

「それが、マノーの……あの子の『幸せ』なんだから」

 核心に触れる台詞。重たい沈黙が、激しい雨音に混じって場を支配する。

「……これ以上は踏み込まないで。この話は内緒にしておいてあげるから、今日はもう帰って!」

 リグエスは迂闊に言葉を漏らした自分を悔やむように、一方的に話を切り上げて宿舎の中へと消えていった。

 僕はその背中をしばらく見送ってから、ポツリと独り言ちた。

「……うーん。協力的なのかそうじゃないのか、いまいち掴めない人でしたね」

「内容によっては協力する、ということなのだろう。彼女にとって『危険度』が判断基準だったようだ。本音では、マノーを精鋭騎士という死地から引き離したいのかもしれないな」

 リーブ先輩の推測に、僕は「なるほど」と頷いた。

「……とにかく、明日もう一度出直そう。その前に、今日中に『貸し手殺し』と接触できればいいのだが」

 リグエスが口にした「幸せ」という言葉。マノーと「貸し手殺し」の歪な関係。謎は深まるばかりだが、今のままでは明日リグエスに会っても門前払いされるのが関の山だ。

 それを避けるためにも、核心を突く情報を一つでも多く掴んでおかなければならない。

「……急ぐ理由ができたな」

「そうですね。それじゃあ、バッカスさんの家へ行きましょう!」

 僕たちは再び雨の中へと駆け出した。冷たく、不穏な雨が、夜を控えた帝都を濃く濡らしていた。


 時刻は十八時四十五分。

 僕たちはバッカスの家の玄関が見える物陰に身を潜め、じっとその時を待っていた。

 叩きつけるような雨の中、ボロ小屋の建付けの悪い扉が開き、ついにバッカスが姿を現した。

 くたびれた衣服を雨に濡らし、老いさらばれた背中を丸め、白髪の混じった長い髪を揺らしながら、彼は迷いのない足取りで歩き出す。ビチャ、ビチャと足元の水たまりを無造作に跳ね飛ばし、目指すはいつもの賭博場だ。

 僕たちは一定の距離を保ちながら、その背中を慎重に追った。

 ここで声をかけるのは簡単だ。けれど、まともに取り合ってもらえない可能性が高い。ならば、彼の行動の端々に隠された「真実」をこの目で確かめるべきだと判断したのだ。

 尾行を始めて五分ほど経っただろうか。

 周囲から人通りが完全に途絶え、耳に届くのは激しい雨音だけになった。そのはずだった。

 直後、天を切り裂くような一筋の雷鳴が轟いた。

 そして――。

「動くな!」

 闇の底から響くような、威圧的な声。

「貴様がバッカスか。主の(めい)により、その(いのち)、貰い受ける」

 声のした方を見上げると、黒いローブを纏った五人組が、雨に濡れる屋根の上に音もなく立っていた。

「……や、やばいですよ、先輩! とんでもない場面に出くわしちゃったかも……!」

 僕が小声で狼狽していると、リーブ先輩が素早く僕の口を塞いだ。

「落ち着け、大那。黙っていれば気づかれない。……それよりも、彼の身の方が心配だ……」

 ここでバッカスを失えば、マノーさんを仲間にする計画はすべて白紙に戻ってしまう。

 しかし、当のバッカスは動じるどころか、刺客たちを見上げて吐き捨てるように言った。

「……また奴の手先か。くだらねぇ」

 その不遜な態度に、男たちはバッカスが死を悟って自棄になったのだと勘違いしたのだろう。冷酷な笑みを浮かべ、殺気を膨らませる。

「恨むなら、借金を返せなかった自分を恨むことだな。覚悟!」

 両端にいた三人の男が懐から短刀を抜き、雨を切り裂く速度でバッカスへと肉薄する。屋根の上の二人は杖を構え、魔法の詠唱を開始した。

 逃げ場のない必殺の布陣。

 だが、バッカスは一片の怯えも見せなかった。むしろ、暗い愉悦を湛えて低く笑い飛ばしたのだ。

「……ククク。まさか自ら駒を差し向けてくれるとはな。助かったぜ。探す手間が省けた」

 そして、眼前に迫る刃を見据え、冷徹な一言を放った。

「――やれ」

 次の瞬間。

 何かが爆発したかのように動いた。

 風だ。猛烈な一陣の風が、路地を吹き抜けた。

 その風は空気を切り裂き、雨を弾き飛ばし、一直線にバッカスを囲う男たちの懐へと潜り込んだ。

 何が起こったのか、僕の動体視力では捉えきれなかった。

 一筋の閃光が通り過ぎたかと思うと、一人の男の胸がざっくりと裂けていた。勢いを止めることなく、隣の男の胸が抉り取られる。三人目の男は咄嗟に短刀で防ごうとしたが、残像がその脇をすり抜けた直後、遅れて噴水のように血が噴き出した。

 三人がほぼ同時に膝をつき、どさりと地面に崩れ落ちる。

「なッ――!?」

 屋根の上の魔法使いたちが、唖然として動きを止めた。

 その隙を、「風」は見逃さなかった。

 垂直に近い壁を蹴り、重力を無視したような動きで屋根の上へと駆け上がる。一瞬にして残る二人の懐へ。

 四人目の身体が、斬り上げの一閃によって両断された。

 そして、リーダーらしき最後の男へと、死神のような速度で迫る。

「……な、なんだ、貴様は……! くっ……! ライトニング!」

 男は狼狽し、闇雲に電撃を放った。だが、雷光は風の真横を空しく掠めただけに終わる。

 絶対的な死の間合い。

 男はその「意志を持った殺意」を間近に見た瞬間、喉を鳴らして震えだした。

「わかった! 主には猶予を設けるよう進言しておく! だからこの場は……! グアッ」

 しかし、風は一切の躊躇を見せなかった。

 人の心など持ち合わせていないかのように、無言で剣を横に一閃する。

 男の胴体から首が切り離された。放り出された首が無残に屋根を転がり、鈍い音を立てて止まる。

 僕は言葉を失い、立ち尽くした。脳の理解が、目の前の惨劇に追いつかない。

「……あれが、『貸し手殺し』か」

 隣でリーブ先輩が、絞り出すように呟いた。

 その言葉を噛み締めるように、僕は再び、刃と化した「風」の正体を見据えた。

「……そいつらの首は拾っておけ。後で貸主の家へ送りつけてやる」

 バッカスはこの凄惨な光景を見慣れているのか、何事もなかったかのように命令を下し、そのまま立ち去ろうとする。

 静寂が戻り、ついに風が止んだ。

 そこには、返り血を浴びても微動だにしない、人の形をした「何か」が立っていた。

 全身を覆うのは、黒く薄汚れたローブ。

 フードから滴る雨粒のせいで、その顔を窺うことはできない。

 しかし、激しい雨に打たれながら佇むその背中には、異様に長く、深い孤独のような影が寄り添っていた。

「待って」

 バッカスが背を向け、すべてが闇に葬られるかと思ったその時、ふいに背後の影が言葉を発した。

 抜き放たれた剣の切っ先が、僕たちが潜伏している暗がりを正確に捉える。

「……まだ、誰かいる」

 低く、だが剃刀のように鋭い殺気を孕んだ声。

「――なんだと……?」

 バッカスが驚愕に目を見開き、勢いよく振り返った。

(……バレてる!? まずい……!)

 僕は全身の血が凍りつくような感覚に陥り、硬直した。指先一つ、呼吸一つ動かすことすら許されない。

「ネズミか……? チッ」

 バッカスが忌々しげに舌打ちをする。

「尻尾を掴まれてはならん。……殺せ」

 影は無言で頷くと、剣を正眼に構えたまま、一歩、また一歩とこちらへ歩を進めてきた。

(どうする……!? いっそ自分から正体を明かすか!? ……でも、今の彼らは話が通じる雰囲気じゃない……!)

 穏便に切り抜ける方法を必死に模索する間にも、死の足音が近づいてくる。隣のリーブ先輩も、自らの口を強く押さえ、青ざめた顔で首を横に振った。もはや、どんなアクションを起こしても斬り伏せられる距離だ。ただ、見つからないことを天に祈るしかなかった。

 ドクンドクンと心臓の鼓動が耳元でうるさいほどに鳴り響く。

 顔を伝うのは雨か、それとも冷や汗か。

 影との距離は、ついに数メートルもないところまで迫った。

「……ここか」

 影が足を止めた。その足元では、先ほど浴びた刺客の返り血が、雨水に混じってポタポタと滴り落ちている。

 僕は緊張のあまり吐き気を催しそうだった。肺の中の空気を吐き出すことすらできず、世界から音が消えた。

「……」

 影は数秒間、ただ無言で僕たちの目の前を見つめていた。

 それは物理的には一瞬だったのかもしれない。だが僕にとっては、永遠にも等しい停滞だった。

 再び、上空で激しい雷鳴が轟いた。

 そして――。

「――ッ!」

 影が剣を傾け、ゆっくりと振り上げたかと思うと、次の瞬間、その空間すべてを断ち切るかのように大きく振り下ろした。

 衝撃波で周囲の家屋の窓ガラスが派手に破裂し、路地に捨て置かれていたゴミが空中に舞い上がって両断される。鋭い切断音が遅れて届いた。

 そして――そのゴミに(たか)るように飛んでいた一匹の羽虫が、容赦なく二つに分断され、無残に地へと落ちた。

 それを見届けた影は、感情の欠片もない声でポツリと言った。

「……すみません。ただの羽虫でした」

 剣を背の鞘へと納め、バッカスへと向き直る。

「……なんだ、そうか。……まあ、ネズミじゃないだけマシか。……じゃあ行くぞ。さっさと首を拾っておけよ」

 バッカスは興味を失ったように、再び賭博場の方へと歩き出した。影もまた、転がった首を無造作に拾い上げ、その後を追っていく。

 数分が経ち、周囲から完全に人の気配が消えたことを確認して、僕たちはようやく物陰から這い出した。

「――ふうっ……。死ぬかと思いました……」

 僕は肺に残っていた空気をすべて吐き出し、乱れた鼓動を鎮めようと必死に深呼吸を繰り返した。

「……大那。お前も見たか?」

「……はい。しっかりと」

 先輩は僕の肯定を聞き、自らの胸元に拳を当てて平静を取り戻すと、先ほどの光景を反芻した。

「あの殺気……只者ではないな。何度も死線を潜り抜けてきた者にしか放てない、冷徹な一振りだ……」

 だが、僕はその感想に、わずかな違和感を抱いていた。

「……違いますよ、先輩。……あの一閃は、ただ冷徹なだけじゃない。どこか物悲しい『寂しさ』を、確かに湛えていました」

 夜空を走った雷光。その一瞬の輝きの中で、僕は確かにその影の輪郭を網膜に焼き付けていた。

 顔こそフードに隠されていたが、その体躯は決して筋骨隆々とした大男のものではなく、しなやかさを残した細身のものだった。

 血と怨念に染まった凶刃に見えて、その実、闇夜を切り裂く聖剣のような気高ささえ感じさせた。

 そして何より――。

 間近で聞いたあの声は、間違いなく女性のものだった。

 これだけのピースが揃えば、もう答えは一つしかない。

 「貸し手殺し」の正体は――。

「……そうかもしれないな。……ということは、決定か」

 リーブ先輩も僕と同じ人物を思い浮かべていることを確信し、僕は明日を見据えて頷いた。

「ええ。明日、リグエスさんにこのことを打ち明けましょう」

 核心を突く情報を得た。これでようやく、事態は大きく動き出す。

「そして、マノーさんにも」

「ああ。明日で、すべてが決まるぞ」

 最悪の場合、口封じのために斬りかかってくる可能性もある。けれど、どんな結果になろうとも、真正面から彼女を受け止めなければならない。

 先輩が発破をかけるようにそう言い、僕も強く頷いた。

 降り続いていた雨が、わずかに弱まり始めていた。

 この分なら、明日の朝には止んでいるだろう。

 僕たちは濡れた体を震わせながら、夜闇を掻き分けて宿屋へと急いだ。


 翌朝、時刻は四時半を過ぎたところ。

 僕は重たい瞼をこじ開け、疲労の残る身体に鞭を打って、リーブ先輩と共に宿屋を出た。

 衣服は昨日と同じものだ。というより、この世界に来てから着替えなど持っていない。幸い、この世界には「魔道具」という便利なものがあるらしく、簡易的な熱発生装置のおかげで、昨夜の雨でぐっしょり濡れていた服もすっかり乾いていた。

 外はまだ深い闇に包まれ、人通りはまったくない。静まり返った帝都の空には、雨上がり特有の湿った冷気と、依然として居座り続ける黒い雲が垂れ込めていた。

 街灯の乏しい明かりを頼りに、僕たちは精鋭騎士団の宿舎の前へと辿り着いた。建物は寝静まっているようだが、そこには確かに「選ばれし強者たちが住まう」独特の重厚な空気が漂っていた。

「……よかった。まだ出発前のようですね」

 僕は宿舎を見上げながら、隣のリーブ先輩に小声で話しかけた。

「ああ。リグエスもまだ中にいるはずだ」

 眠気を押し殺して早起きした甲斐があった。この時間に来たのは、マノーさんに接触する前に、リグエスさんだけに話を通しておきたかったからだ。彼女を味方につけ、演習終了後に共にマノーさんを説得する。それが僕たちの立てた算段だった。

 肌寒い空気の中、僕たちは入口から死角になる場所に身を潜めた。

 二十分ほど経っただろうか。一人の男が自室の扉を開け、木刀を手に姿を現した。彼は広場に出ると、(おもむろ)に構えをとり、「はっ!」という鋭い呼気と共に素振りを始めた。

「……自主練か。感服だな。精鋭の名に甘んじず上を目指す姿勢……大那にも見習ってもらいたいものだ」

 先輩がジト目で僕を見る。僕は「アハハ……」と乾いた笑いを浮かべるしかなかった。もともと朝には弱い体質だし、ここ数日の激動で心身ともに余裕がないのだ。だが、魔王を討つという大義を掲げた以上、今後は僕もこうした鍛錬を避けては通れないだろう。背負ったハンマーの重みが、改めて肩に食い込む。

 五時を過ぎる頃には、ぽつりぽつりと人が増え始めた。ランニングに出る者、熱心に型を確認する者。私服姿の騎士たちが各々の研鑽に励んでいる。そして五時二十分。彼らは一度自室へ引き上げたかと思うと、すぐさま、精鋭の証である真紅の鎧に身を包んで再び現れた。

 皆一様に表情を引き締め、演習場へと向かっていく。その列の最後尾近く、大きなあくびをしながら現れたのがリグエスさんだった。

 ひどく眠そうだ。自主練にも姿を見せなかったところを見ると、昨夜はよほど遅くまで起きていたのだろうか。だが、僕たちにとっては好都合だ。思考が完全に覚醒していない今こそ、懐に飛び込むチャンス。

 僕たちは、一人で歩く彼女の横にさっと歩み寄った。

「おはようございます、リグエスさん」

 不意に声をかけられた彼女は、半分閉じていた瞳を大きく見開いた。

「……ん? ……あ、あなたたちは……!」

 昨日の記憶が繋がったのだろう。彼女は反射的に一歩引いて、僕たちと距離を取った。

「昨日の続きを、と思って来ちゃいました」

 僕がなるべく威圧感を与えないようぎこちない笑みを浮かべると、リグエスさんはそれを不気味に感じたのか、顔を引きつらせた。

「来ちゃいました、じゃないわよ! あなたたち何なの、ストーカー!? 」

 寝起きの顔を見られたくなかったのか、あるいは単に僕たちを追い払いたいのか。彼女は露骨に嫌そうな顔をする。

「……僕はあなたに、どうしても伝えたいことがあってここまで来たんです」

 僕は彼女の抗議をあえて聞き流し、主導権を握るために声色を落として言葉を畳み掛けた。

「僕は昨日、見てしまったんですよ。あそこで『貸し――」

「待て、ウェイル。その話はここじゃまずいかもしれん」

 核心に触れようとした瞬間、リーブ先輩が僕の言葉を遮った。そしてリグエスさんに鋭い視線を向ける。

「話の前に、マノーの姿が見えないようだが。彼女はここにはいないのか?」

 先輩の指摘に、僕はハッとした。

(……確かにそうだ。万が一にも、この段階でマノーさんに聞かれてはいけない内容だ……!)

 まずはリグエスさんを説得するという手順を、焦りのあまり飛ばしそうになっていた。周りを見渡せば、ほとんどの騎士が宿舎から出てきているはずなのに、マノーさんの姿だけがどこにもない。

 質問を投げかけられたリグエスさんは一瞬固まり、数秒の沈黙の後、絞り出すような声で答えた。

「……マノーは……あの子は、ここには住んでいないのよ……」

 その声には、深い悲しみが混じっていた。

(宿舎に住んでいない……?)

 それが意味する真実は何か。僕が思案するよりも早く、リーブ先輩が答えを導き出した。

「……なるほど。マノーは宿舎の賃料すら惜しんでいるということか」

「……ち、違っ……! そんなんじゃ……!」

 リグエスさんが狼狽し、咄嗟に先輩の肩を掴んだ。しかし、先輩は表情一つ変えず、さらに冷徹に推測を重ねる。

「……おそらく、あのボロ家でバッカスと同居しているのだろう。家賃を浮かせるために」

 その言葉に、僕は戦慄した。精鋭騎士としての高給がありながら、最低限の生活費すら削り、すべての金を父親の借金……あるいは別の目的のために注ぎ込んでいる。

「……ち、違うって……言ってるでしょ……!」

 リグエスさんは強気に否定し続けていたが、その視線は泳ぎ、僕たちを直視できなくなっていた。

 彼女を演習の時間に間に合わせるためにも、もう猶予はない。僕は一つ深く息を吐き、静寂を切り裂くように言葉を放った。

「リグエスさん。僕たちは昨日、見てしまったんです。マノーさんが――」

 僕は、逸らされた彼女の目を正面から射抜いた。

「『貸し手殺し』として、刺客を斬り伏せている場面を」

 三人の周囲から、すべての音が消えた。  僕の放った言葉は、冷たく湿った朝の空気の中で、あまりに重く響き渡った。

「は――!?」

 衝撃の告白を突きつけられたリグエスさんは、口をぽかんと開けて唖然と立ち尽くした。

「……なに、言ってるのよ……そんなわけ――!」

 動揺を隠すための、あてのない抗議。それを遮って、僕はさらに言葉を重ねた。

「証拠ならあります。今すぐにマノーさんの剣を調べてください。昨夜の刺客の血が、まだ付着しているはずです」

 DNA鑑定なんて高度な技術はこの世界にはないかもしれない。けれど、モンスターの返り血と人間の血液の区別くらいは、精鋭騎士なら一目で見抜けるはずだ。あの夜、彼女が背負っていたのは間違いなくその一振りのみ。言い逃れは、もうできない。

 リグエスさんは顔を伏せ、ギリ……と奥歯を噛み締めた。

 そして、震える声でこう言った。

「……そう。バレちゃったのなら、仕方ないわね。……あの子を守るためにも……あなたたちには悪いけど、ここで死んでもらうわ!」

 キッと鋭く目を尖らせ、僕を射抜く。

 一歩踏み込むと同時に、彼女は背中の剣を流れるような動作で引き抜き、僕の首筋へと斬りかかってきた。

「――ッ!」

 突きつけられた剥き出しの殺意。肺の空気が凍りつき、足が震える。

 それでも、僕は逃げなかった。こうなることは、最初から覚悟の上だ。

 僕は歯を食いしばり、正面から彼女の刃を迎え撃った。ハンマーを振るうのではなく、心からの「言葉」で。

「……なぜ、彼女はそこまでお金を欲しているんですか? 知っているなら、教えてください。それがきっと、現状を打開するための第一歩になるんです!」

 一秒後。

 リグエスさんの剣の切っ先は、僕の喉元にピタリと当てがわれていた。

 薄く切れた肌から、赤い雫が一筋溢れ落ちる。

 けれど、剣はそれ以上、一ミリも進まなかった。

 代わりに、剣を握るリグエスさんの右手が、わなわなと激しく震え出す。

「……あなたは彼女の親友なんでしょう!? なら、あなたにしか彼女を止めることはできないんです!」

 その言葉にハッとした彼女は、一度柄を強く握り直し、自らの意思で刃を押し込もうとする。

 けれど、身体が拒絶した。

 彼女は力なく右手を下ろした。カランカラン、と石畳に剣が落ちる乾いた音が響き渡る。

「……うっ……ううっ……」

 顔を両手で覆い、リグエスさんは堰を切ったように嗚咽を漏らした。

 支えを失ったように崩れ落ちてきた彼女の身体を、僕は咄嗟に受け止めた。

「……道を踏み外さなくて、本当によかった。もう大丈夫ですよ」

 震える彼女の背にそっと腕を回し、語りかける。

「僕はあなたも、マノーさんも、決して見捨てたりはしない。必ず救ってみせます」

 背後でその光景を見守っていたリーブ先輩は、かつて自分が救われた時の情景を重ね合わせるように、静かに目を細めていた。この少年の言葉には、理屈を超えた温かさがある――そう確信したかのように。

「……私は、ずっと目を背けてきた。あの子の今の生活を壊さないことが、一番の幸せなんだって。……変化を恐れて、前に進もうとはしなかった」

 リグエスさんはそっと僕から離れた。瞳にはまだ涙の跡が光っているが、そこには確かな決意が宿っていた。

「……でも、あなたは違った。死を前にしても恐れず、あの子のために闇を払おうとしてくれた」

 彼女と目が合う。

「……私じゃ、ダメだったのかもね。あなたなら……ううん。あなたの方が、きっとあの子の傍にいるのに相応しいわ」

 そう言って彼女が浮かべたのは、憑き物が落ちたような、清々しい笑顔だった。

「……それじゃあ、協力してくれるんですか!?」

「ええ。……でも勘違いしないで。これはあなたのためじゃなく、マノーのためなんだから」

「もちろんです」

 僕は深く頷き、彼女の厚意を胸に刻み込んだ。

 それを見届け、リーブ先輩が感情を抑えた声で問いかける。

「……それで? バッカスがそこまで金に執着する理由はなんだ?」

 すべての元凶とも言える父親の動機。リグエスさんは頷き、重い口を開いた。

「お父さんはね……かつて、大きな商売をしていたらしいの。……でも、失敗して多額の借金を背負ってしまった。それでも商人を辞めたくない、かつ借金を帳消しにしたい。だから今も、狂ったようにお金を求めている……」

 商人として再起したいのか、あるいは別の理由があるのか。けれど、リグエスさんにもそれ以上の詳細は分からないようだった。

「ゴメンね?それ以上の理由は、私も知らないの」

「……なるほど。では、彼女の生い立ちについてはどうだ?」

 先輩のさらなる追及に、リグエスさんは一度顔を伏せ、言い淀んだ。

 しかし、今度は意を決したように再び顔を上げた。

「……うん。これが、すべての根源。あの子の人格を作り上げ、あの子が死に物狂いで剣を磨いた理由。それは――」

 一瞬の静寂。

 リグエスさんは、震える声で続けた。

「あの子……マノーは、『連れ子』だったのよ」

 周囲の喧騒が遠のき、冷たい朝風が三人の間を吹き抜けていった。

「連れ子……?」

 僕は思わず、その言葉を復唱してしまった。

「……ええ。バッカスさんとは血が繋がっていないの。本当のお父さんは彼女が生まれる前に亡くなって、お母さんがバッカスさんと再婚したのよ。その後、そのお母さんも亡くしてしまったそうで……」

 あまりに重い告白に、僕とリーブ先輩はしばらく言葉を失った。

 マノーさんとバッカスさんは、血の繋がった親子ではない。その事実の重みは、両親と血の繋がりがある僕には、到底推し量れるものではなかった。

 けれど、だからこそ安易な疑問も浮かんでしまう。血が繋がっていないのなら、「貸し手殺し」のような命懸けの汚れ仕事を押し付ける父親から、もっと早く逃げ出せばよかったのではないか。

 そう考えつつも口に出せずにいた僕の心を読んだかのように、リグエスさんは自ら答えを口にした。

「……だからこそ、バッカスさんだけが、あの子にとって唯一の『家族』なのよ。彼を愛し、彼の助けになりたいと心から願ったからこそ、あの子はどんな理不尽にも耐えてこれたんでしょうね」

 「貸し手殺し」として人を手に掛ける。普通なら精神が崩壊してもおかしくない所業だ。けれど、彼女はそれをやり遂げてきた。その根源にあるのは、歪んでいても純粋な、家族への愛なのだとリグエスさんは言う。

「……ここまで来て図々しいのは分かってる。でも、私からもお願い! マノーを救ってあげて! あの子に本当の居場所を――愛を教えてあげてほしいの!」

 それは、親友を想うリグエスさんの魂の叫びだった。深く頭を下げた彼女を、拒絶することなどできるはずがない。

 僕は力強く頷いた。

「もちろんです。……それでは、今日の演習が終わった後に再び会いましょう」

 僕が右手を差し出すと、彼女は「……うん! こちらこそ、よろしくね!」と晴れやかな笑顔でその手を握り返した。


 同日、十八時。

 雨雲はどこかへ去り、夕焼けが帝都の空を燃えるような朱色に染め上げていた。

 僕は先輩と共に、約束の場所へと向かっていた。朝、リグエスさんが「私が彼女を呼び出しておく」と言ってくれた、その指定の場所へ。

 辿り着いたのは、古い教会に併設された時計塔だった。

 その最上階、街を一望できる展望台には、夕陽を背にした二つの影があった。手前がリグエスさん、そして街を見下ろすように背を向けて立っているのが、マノーさんだ。

 先に僕たちの到着に気づいたのはリグエスさんだった。しかし、その直後――。

「やはり、お前たちだったか」

 気配だけで僕たちの接近を悟ったマノーさんが、静かに振り返った。

「私をここへ呼んだ、張本人は」

 直接声をかけたのはリグエスさんだったが、その裏に僕たちがいることを彼女は最初から見抜いていたようだ。

 鋭い緑の瞳が、僕と先輩を射抜く。僕は臆することなく、その視線を受け止めた。

「そうです。あなたと直接、お話ししたかったんです」

 四人の間に、張り詰めた沈黙が流れる。風がマノーさんの美しい金髪を激しく揺らした。僕は思わず息を呑む。

 ついに実現した、彼女との真っ向からの対面。手の平に嫌な汗が滲む。ここで失敗すれば、もう次はない。

「……リグエス。この場所を選んだ理由は何だ?」

 マノーさんは僕から視線を外し、あえて親友へと話題を振った。問われたリグエスさんは、少し無理をしたような作り笑いを浮かべる。

「忘れちゃった? ここは、あなたが初めて私に秘密を打ち明けてくれた場所よ。これから話す内容には、ぴったりだと思ってね」

 二人にとっての特別な場所。それを聞き、マノーさんの表情にわずかな動揺が走る。

「これから話す内容……? まさか――!」

 彼女は再び僕たちを凝視した。

「そうです。今からマノーさんには、心を開いてもらいます」

 僕の言葉を継ぐように、リーブ先輩が冷徹な事実を突きつけた。

「私たちはお前の裏の顔を知っている。昨夜、『貸し手殺し』として刺客を斬っていた現場を見させてもらった」

 その言葉に、マノーさんは目を見開き、数秒間石のように固まった。

 やがて、その細い肩が怒りで激しく震え始める。

「なん……だと……。見ていたのか……貴様らッ!」

 言い訳をする余裕すらなく、彼女は咄嗟に腰の剣に手をかけた。それを身を挺して止めたのは、リグエスさんだった。

「待って、マノー! 話を最後まで聞いて!」

 僕たちの前に立ちはだかるリグエスさん。マノーさんは、親友が自分と同じように怒っていないことに気づき、わずかに剣を引いた。殺気は収まったものの、その瞳には依然として激情が渦巻いている。

 リグエスさんが作ってくれたこの好機を、無駄にはできない。僕は一気に言葉を畳み掛けた。

「僕たちはあなたを怒らせるためや、困らせるために来たんじゃない! 救うためにここまで来たんです!」

 僕は一歩、彼女の方へ踏み出す。

「人を斬ってまでして手にする平穏が、あなたの本当の幸せなんですか!?」

 その言葉に、マノーさんは顔を伏せた。その瞳に、じわりと涙が浮かぶ。

「……何も! 何も知らないくせに、私のことを語るなッ!」

 彼女はリグエスさんを押し退けるような勢いで前に出た。しかし、僕は静かに首を横に振った。

「……いいえ。知っていますよ、全部。……あなたが『連れ子』だということも!」

 出会ったばかりの少年が、決して知るはずのない最深の秘密。

 なぜ、こいつがそれを――!

 驚愕に染まったマノーさんは、ハッとしてリグエスさんを見下ろした。裏切られた、という絶望が彼女の顔を歪ませる。

「貴様――ッ!」

 激昂してリグエスさんに掴みかかろうとする彼女を、僕は言葉で制止した。

「リグエスさんは間違っていません! 彼女も、あなたの未来を心から案じているんです!」

「変える必要なんてない! 私の幸せは、今のまま変わらないことだ! 第一、部外者が私の幸せを勝手に決めることこそ、間違っている!」

 強い拒絶。確かに幸せの形は人それぞれだ。けれど、今の彼女の生活が「幸せ」だなんて、口が裂けても言わせたくない。彼女の献身は、愛ではなく呪縛だ。

 僕は一度深く呼吸を整えてから、静かに告げた。

「……もちろん、最後に決めるのはあなた自身です。でもマノーさん、一度だけ僕たちの提案を聞いてはくれませんか? 人を殺さず、あなたがあなたとして胸を張って生きられる道を、僕たちは提示できるんです」

 マノーさんはその言葉を聞き、ぴたりと動きを止めた。

 これ以上、人前で取り乱し続けるのは誇りが許さなかったのか。彼女は荒い呼吸を整え、ようやく平静を取り戻した。

「……わかった。一度だけだ。聞くだけなら、聞いてやる」

 時計塔に差し込む夕陽が、彼女の横顔を赤く照らし出していた。

 ようやく、本題を切り出す準備が整ったのだ。

「その提案とは――勇者として、僕たちと共に魔王討伐の旅に出ることです」

 静寂が時計塔を支配した。

 マノーさんは、まるで理解の及ばない言語を聞かされたかのように、呆然と立ち尽くしていた。無理もない、一介の騎士に突然「世界の命運」を託そうというのだ。僕は一つずつ、噛み砕くように説明を続けた。

 帝国が水面下で進めている秘策、勇者パーティの存在。皇帝公認の任務であり、成し遂げれば家が建つどころではない莫大な報奨金が約束されること。しかし、その標的である魔王はあまりに強大で、討伐に成功しなければ生きては帰れない死地への片道切符であること。そして、僕たちに残された時間は、あと半月しかないこと。

 一通りの説明を終え、リーブ先輩がその「対価」の大きさに改めて言及した。

「……その金さえあれば、バッカスの借金もすべて清算できるだろう。余った分で、お前も彼と悠々自適な余生を過ごせるはずだ。だが、リスクのない博打などない。相応の報酬には、相応の命懸けがつきものだ。……そのリスク、引き受けてはくれないか?」

 ギャンブルに溺れるバッカスの娘として育った彼女に合わせるように、先輩は言葉を選んだ。マノーさんは終始無言で、食い入るように話を聞いていた。最初は半信半疑だったのだろうが、皇帝の名、そして具体的な報酬とリスクを提示されたことで、その瞳には明らかな迷いの色が浮かんでいた。

「……なぜ、私でなければならないの? 腕に自信がある者なら、他にも大勢いるはず……」

 すべてを聞き終えた彼女から漏れた第一声は、技術的な「選定理由」だった。

 報奨金云々はあくまで交渉の材料に過ぎない。彼女が真に問うているのは、なぜ数多の騎士の中から自分という「闇」を抱えた人間を選んだのか、その根源的な理由だった。

 僕は、すぐには答えられなかった。

 建前を言えば、ローザス閣下の推薦だ。勇者選定会議で名前が挙がるほどの実力者だろうからだ。けれど、それは僕が彼女を選んだ理由にはならない。彼女は今、僕自身の意志を問うているのだ。

 数秒の空白の後、僕は深く呼吸を整え、心の奥底にある裸の感情を言葉にした。

「……初めてパレードであなたを見た時、僕は驚いたんです。『なんて細い身体なんだろう』って」

「え?」

 僕以外の三人の視線が一斉に突き刺さった。困惑するリグエスさん、焦る先輩。けれど僕は構わずに続けた。

「『ブラックドラゴンを討伐した』という情報だけを聞いた時、僕の頭の中では、岩のように屈強な大女を想像していました。でも、本物は違った。しなやかな足取り、鍛え抜かれた筋肉、そして何より……その瞳に宿る、敵を断つという確かな意志」

 僕は一度言葉を切り、日本にいた頃に憧れた物語を思い出していた。

「第一線で戦い、国民から歓声を集めるその姿は、僕の目にはまさに『ヒーロー』そのものに見えたんです」

 マノーさんの拳が、胸の前でぎゅっと握りしめられた。あの凱旋の日の光景が、彼女の脳裏にも蘇っているのかもしれない。

「マノーさん。僕はあなたに、最後までヒーローとして格好良くあってほしいんです。だからその剣を、誰かを斬るために振るのではなく、世界の闇を切り開くために振ってほしい!」

 僕は片膝を突き、正面から彼女へ右手を差し出した。

「……僕と共に、勇者として魔王を斃しに行きましょう!」

 それを見たリーブ先輩も、静かに頭を下げた。

「私も、全力でこいつをサポートするつもりだ。私からも頼む」

「お願い……!」

 リグエスさんも、祈るような目で親友を見つめる。

 三人が一人の少女に懇願する、異様な光景。

 時計塔を風が吹き抜け、再び沈黙が訪れた。自分の心臓が跳ねる音だけが、耳元でやけに大きく響く。

 僕から言えることは、もう何もない。

 あとは彼女が、その「誇り」を取り戻し、この手を取ってくれるのを待つだけだった。

 

 マノーの心は、激しく揺れていた。

 脳裏に過るのは、自分を育ててくれた恩義ある義父(ちち)、バッカスとの記憶。剣の手解きをしてくれたのも彼だった。

 そして、初めて「貸し手殺し」の命を受けた日のことを思い出す。

 最初は、ただ怖かった。しくじれば殺されるのは自分。剣を握る手の震え、初めて人を手にかけて浴びた返り血の熱さと、耳にこびりついた断末魔。それは今でも、幾度となくフラッシュバックする。

 それでも、どんなに恐ろしくとも、私は剣を振るうことを止めなかった。いや、止められなかったのだ。義父への恩義を果たすため。そして何より、彼と過ごすこの歪な時間こそが、自分にとって最大の「幸福」なのだと言い聞かせてきた。

 だが、その日常に潜む違和感から目を逸らせなかった自分もいた。

 だからこそ、唯一の親友であるリグエスにだけは真実を打ち明けたのだ。それを「単なる愚痴」だと自分に言い聞かせながらも、心のどこかでは、誰かにこの連鎖を止めてほしいと切望していた。

 けれど、リグエスから返ってきたのは、現状を肯定する優しい言葉だけだった。あの時はその同情に救われた気がしていた。しかし、今ならはっきりとわかる。それは解決ではなく、ただの猶予でしかなかったのだ。私は、私自身の心をずっと偽り続けてきた。

 だから――。

「……一つだけ、確認させて。私が帝都を離れている間、義父(ちち)には安全が保障されるの?」

 最後に口を突いて出た条件は、やはり義父の身の安全だった。自分がいなくなれば、逆恨みした貸主に彼が殺されるかもしれない。これだけは、どうしても譲れなかった。

「もちろん! 私が護衛として毎日ついていてあげるよ!」

 リグエスが即座に請け負う。しかし、それを遮るように少年が続けた。

「大丈夫です、リグエスさん。僕にはある伝手があって、説得さえできれば、もっと安全な地への移住と、毎日の護衛も頼めるはずです」

 少年は僕の目をまっすぐに見据え、力強く断言した。

「だから、安心してください」

 その言葉が、最後の決定打となった。

 私は数秒かけて溢れ出しそうな感情を整理し、フーッと大きく息を吐き出した。

「……ヒーロー、か。そんな風に言われたのは、初めてだった。……悪く、ないな。うん、了解した。その提案、受け入れよう」

 少年の瞳が、パッと輝く。

「じゃあ……!」

 私は頷き、差し出されたその手を通わせた。

「ああ。私、マノーは、お前の剣として、勇者パーティに加わろう」

 迷いはもうない。胸の奥に澱んでいたしこりが、清々しい風に吹き飛ばされていくのを感じた。

 その瞬間、三人が一斉に駆け寄ってきた。皆の顔に浮かんでいるのは、一滴の混じり気もない、純粋な喜び。夕焼けの時計塔に笑い声がこだまする。その輪の中に自分がいることが、どこかこそばゆくて、それでいて心から嬉しかった。

「――後は、バッカスに聞き入れさせるだけだな」

 リーブ先輩が、「最悪、無理矢理にでも連れて行く」と言いたげな表情で先を促す。しかし、僕は首を横に振った。

「いえ、ここまできたら彼も説得しましょう。彼が納得して、快く送り出してくれた方が嬉しいじゃないですか。……ですよね、マノーさん?」

 仲間の思いを最大限に汲み取った僕の言葉に、彼女は初めての「仲間」としてのやり取りに少しぎこちなく頷いた。

「……そうだな。そうと決まれば、早速行くとしようか」

 先輩も否定はせず、四人はバッカスの家へと向かった。

 

 道中、まだ自己紹介が済んでいなかったことを思い出し、簡潔に済ませる。僕はまだ本名を名乗る段階ではないと判断し、引き続き偽名を使ったが、いつか本当の目的を話せる日が待ち遠しかった。

 日は地平線の下へと沈み、辺りはすっかり夜の帳が下りていた。

 次第に人気が消え、寂れた街の一角にある、あのボロ小屋へと到着する。何度見ても心許ない建物だが、それは彼女が極限まで切り詰めてきた生活の証だった。

 タン、タタン――。

 マノーさんが独特のリズムでノックを刻む。それが彼女であることを知らせる合図なのだろう。

「……ただいま」

 緊張した面持ちで、静かに帰宅を告げる。不審に思われないよう、僕たちは息を潜めて背後に控えた。

 奥から床を蹴る鈍い音が聞こえ、ガチャリと、建て付けの悪い扉が開いた。

 現れたのは、白髪混じりの長髪に髭を蓄え、酷く疲弊した顔をしたバッカスだった。

「――!? 誰だ、お前たちは……ッ!?」

 濁った目を見開き、彼は即座に扉を閉じようとした。しかし、それをマノーさんが制する。

「待って、お義父(とう)さん。私から彼らを紹介させて。その上で、今後に関する重要な話があるの」

 家の中に他人を招くなど、今まではあり得なかったことだろう。バッカスは義娘(むすめ)のあまりに不審な行動に驚愕し、言葉を失っていた。

「とりあえず、中に入れて」

「ならん! 話なら外でもできるだろう!」

 食い気味に、鋭い声で拒絶するバッカス。しかし、マノーは静かに首を横に振った。

「誰かに見られたら、まずいでしょ?」

 ここが自分の拠点だと悟られたくない。その言葉に、バッカスは苦虫を噛み潰したような顔で、渋々扉を開けた。

 狭い室内には、物が散乱していた。

 脱ぎ散らかされた衣服、転がる酒瓶、湿り気を帯びた掛け布団。そして、それらとはあまりに不釣り合いな、千変万化の表情を持つ人形たちの数々。

 薄汚れた部屋の中で、その人形たちだけは埃一つ被っておらず、鈍い光を放っている。

壁に目をやると、一式の黒いローブが掛けられていた。

 昨夜、マノーさんが「貸し手殺し」として身に纏っていたものだ。彼女がそれを隠そうともしない様子を見て、バッカスさんもすべてを察したようだった。

「……それで? 話ってのは何だ。手短に話せ」

 苛立ちを隠そうともせず、一刻も早く僕たちを追い出したいといった声音でバッカスさんが促す。

 マノーさんは深く頷き、僕たちとの出会いから「勇者パーティ」の提案までを順を追って語り始めた。途中、僕とリーブ先輩がさりげなくフォローを入れ、帝国公認の任務であることや、もたらされる莫大なメリットを主張していく。

 しかし、一通り聞き終えたバッカスさんの顔に浮かんだのは、隠しようのない激昂だった。

「ふざけるな! 俺の義娘を奪うつもりか! そんな危険な任務に、お前を行かせることなどできん!」

 あくまで、父親としての怒りを全面に表すバッカスさん。

 「貸し手殺し」という死地へ義娘を追い込んできたことを棚に上げて、彼はそう言ったのだ。けれど彼は、本気で怒っていた。

「それに、お前を失えば、いよいよ俺の立場もなくなる。借金はもちろん、立ち直る術すら……」

 その言葉に、僕は昼間に聞いたリグエスさんの話を思い出した。彼は商人として再起するための元手を欲している。だが、なぜそこまで商人に固執するのか。失敗して地獄を見たのなら、もっと手堅い職に就けばいいはずだ。

 僕は疑問に思ったことを、そのままぶつけてみた。

「……バッカスさんは、なぜそこまで商人に固執するんですか? 人生はギャンブルとは違うんです。一度、確実に稼げる職種に身を置いて立て直した方が……」

「知った風な口を利くなッ、ガキがッ!!」

 怒号が飛び、部屋の空気が一瞬で凍りついた。

 冷や汗が背中を伝う。確かに、社会経験のない僕が他人の生き方に口を出すのは越権行為だったかもしれない。僕は少し後悔する。けれど、彼の怒りは単なる「若造への反発」ではない、もっと根源的な……何かに触れられたような激しさだった。

 様子を窺っていたマノーさんが、静かに、けれど逃がさないような口調で言った。

「……私にも教えて、お義父さん。今まで一度も、聞かされたことはなかったから」

 最愛の義娘ですら知らない秘密。バッカスさんはその言葉に毒気を抜かれたように肩を落とし、閉ざしていた心の蓋をゆっくりと開けた。

「……そうか。お前にも、言ってなかったか……」

 虚ろな目で天井を見上げ、彼は誰にも語ることのなかった、あまりに悲惨な過去を吐露し始めた。

「……俺は、お前の母親と再婚する前、別の女性と結婚していた。ソイツは……王国の出身だったんだ」

 衝撃の事実に、僕以外の三人が目を見開いた。いまいちピンとこない僕に、リーブ先輩が耳元でささやく。

「帝国と王国は、古くから断絶状態にある敵国同士だ。人の行き来など、まずあり得ない」

 敵国同士の男女が、どうして結ばれるに至ったのか。その理由を細々と語り始めた。

「出会ったのは大聖堂だ。俺が一目惚れしてな、なんとか口で言いくるめたんだ。……昔から舌だけは回ったからな」

 商人としてのスキルが、人生で唯一正しく活きた瞬間だったと、彼は自嘲気味に笑った。

「互いの素性を明かした時は緊張が走ったが、不思議と嫌悪感はなかった。その後、結婚して『教会の街』に住む話も出たが、アイツはどうしても帝国を見てみたいと言ってな。ここに居を構えたんだ」

 教会の街というのは、不可侵領域なのだろうか。何気に新しい情報だ。

「それで俺も男を見せたくなってな。商人として、王国の品を密かに取り寄せようとした。稼ぐためじゃない、アイツを喜ばせたかっただけなんだ。……だが、待っていたのは地獄だった」

 バッカスさんの声が悲痛に震える。

「品物を買えば領主に横領され、賊に襲われ、痣だけが増えて金は底を突いた。……そしてアイツは、病で死んだ。残ったのは、これだけだ」

 彼が顎で示したのは、あの奇妙な人形たちだった。

 妻の故郷の品か、あるいは彼女が愛した思い出の形見か。埃一つないのは、彼が毎日、後悔と共に拭き続けてきた証だったのだ。

「だから俺は見返してやりてぇんだ。商人として王国の品を正当に流通させる……そうやって王国には王国の良さがあるって知らしめることが、この惨い戦争を止める唯一の鍵だと信じてる」

 俯くバッカスさんの頬を、涙が伝った。

「……マノー、悪かったな。俺の勝手な夢に、お前を巻き込んで。行きたいなら行け。お前の背中を押すのが、父親としての俺の最期の務めだ」

 彼は不器用に笑い、その手に小さなナイフを握りしめた。

 そして、その刃先を自らの首筋に向け、一気に突き立てようとした――。

「――ッ!!」

 その手を力いっぱい掴んで止めたのは、僕だった。

「な――っ!?」

 驚愕に目を見開くバッカスさん。僕の身体は、思考よりも先に、ただ「生きてほしい」という本能で動いていた。

「死んじゃダメだ! じゃあ、マノーさんをここまで育てたのも、単なる自分の都合なんですか!? そこに、愛はなかったんですか!?」

 叫びが、狭い部屋の中に木霊する。

 バッカスさんの目から、さらに大粒の涙が溢れ出した。そして、マノーさんもまた、衝撃を受けたように立ち尽くしていた。

「少なくともマノーさんは、あなたのことを愛しているように見えました! だったらあなたも、最期までマノーさんを愛し抜いてやってください!!」

 僕の決死の叫びは、壊れかけていた親子の絆を、もう一度繋ぎ止めようとしていた。

 狭い室内だというのに、さっと僕の横を鋭く温かい風が吹き抜けた。

 気づいた時には、マノーさんがなりふり構わず義父へと抱きついていた。その衝撃で、バッカスさんの手からナイフが滑り落ちる。

 乾いた音を立てて床を転がる刃を、拾おうとする者は誰もいなかった。

「死なないで……! お義父さんが待っててくれるなら、それだけで……それだけで私は、いくらでも勇気をもらえるから……!」

 それは、彼女がこれまでの人生で初めて口にした、義父への剥き出しの懇願だった。

 僕とマノーさん、二人の必死な制止を受け、バッカスさんはようやく己の過ちに気づいたようだった。彼は堰を切ったように泣き出し、震える腕でマノーさんを抱き返した。

「すまん……! すまなかった、マノー……っ!」

 二人は互いの腕の中で、言葉にならない声を漏らしながらひたすらに泣き続けた。

 互いの名を呼び合う声が、狭い部屋に響く。それは誰にも踏み込めない、親子二人だけの、止まっていた時間が動き出すための儀式だった。

 やがて呼吸を整え、落ち着きを取り戻した二人は、示し合わせたようにこちらへと向き直った。

「……みっともないところを見せてしまったな。……承知した。君たちの申し出を受け入れよう」

 その言葉に、その場にいた全員の顔がパッと華やいだ。けれど、誰よりも深い喜びを噛み締めていたのは、他でもないマノーさんだった。

「お義父さん――!」

「ああ。言っただろう。娘の背中を押してやるのが、親の務めだってな」

 バッカスさんは憑き物が落ちたような、けれど照れ隠しに少しぶっきらぼうな笑顔で言った。

「だから遠慮せずに行ってこい。――だが、くれぐれも死ぬんじゃないぞ。絶対に生きて帰ってこい。ここで待ってるからな」

 マノーさんは、力強く、深く頷いた。

 四人で玄関先に立つと、バッカスさんが外まで見送りに立ってくれた。僕が改めて深々と一礼すると、彼は不意に近づき、僕にだけ聞こえるような低い声で耳元に囁いた。

「……あの子を、立派な大人にしてやってくれ」

 抽象的な言葉だったけれど、そこには確かに、一つの命を託された重みがあった。彼からの信頼を勝ち取れたことが何より嬉しくて、僕は勢いよく「はいっ!」と返事をした。

 そのあまりに真っ直ぐな反応に、バッカスさんは一瞬虚を突かれたような顔をしたが、直後に「ガッハッハ!」と腹の底から大笑いした。

 僕はわけがわからず、目をぱちくりさせる。

「おもしれぇ奴だ。だがその純真さ……それがお前の武器なのかもしれんな。闇を照らす光になれることを、俺も心から願っているよ」

 最後に力強い発破をかけてもらい、僕は再び礼をしてその場を後にした。

 そして、リグエスさんとの別れの時。

 精鋭騎士団の宿舎の前で、彼女は僕たちに向き直ると、清々しい表情で手を振ってくれた。

「頑張ってね。私もここで応援してるから。マノーのこと、よろしく頼んだわよ!」

 三人は夜の街を歩き出した。

 先ほどまでの重苦しい暗雲はどこかへ消え去り、夜空には星と月が鮮やかに輝いて、僕たちの行く先を照らし出している。

 マノーさんという心強い仲間を加えた、新生勇者パーティ。

 今、僕たちが纏っているのは、未来への確かな希望だ。

 次は、どんな仲間と出会えるのだろうか。

 先行きはまだ不透明だ。けれど、それ故に込み上げてくるワクワクとした高揚感が、僕の胸を熱く満たしていた。

マノー。178cm。66kg。21歳

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