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一般人が異世界に!?  作者: グリーン・シールド


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第三章半

「よし、それじゃあ早速、マノーさんに関する身辺調査を……」

 ローザス閣下と別れた後、僕が意気込んでリーブ先輩にそう声をかけると、先輩は「待って」と掌を向けて僕を制した。

「大那。お前、お腹は空いていないのか? 考えてみれば、昨日から全く何も食べていないだろう」

 先輩の言葉で、自分の空腹具合を急激に自覚した。その瞬間、僕の腹が「ぐう……」と情けない音を立てた。

「あっ、そういえば……」

 昨日から今日にかけて、命の危険と怒涛の展開に追われ続けていたせいで、空腹に気づく暇もなかったのだ。とはいっても、僕はこの世界に来たばかりの一文無し。今すぐ近場の店で何かを買うことなんてできない。

「……狩りにでも行くんですか?」

 僕は、ファンタジーの定番を思い描いて質問した。

「いや」

 しかし、先輩は首を横に振り、より現実的で堅実な案を提示した。

「この際、今日の宿代も兼ねて、まとまったお金を稼ごう。実を言うと、私も手持ちがほとんど無くてな」

「確かに、その方が良さそうですね。……それで、どんな方法があるんですか?」

 こう提案してくるからには、先輩の中に勝算があるはずだ。僕は期待を込めて尋ねた。

「冒険者だ。ギルドで登録さえすれば、今日から働くこともできる」

 先輩は僕を真っ直ぐに見据えて言った。

「冒険者……」

 だが、僕はその言葉に小さく引っ掛かりを覚えた。

(今日中に金を稼ぐ話じゃなかったのか……?)

「そんなの、本当に大丈夫なんですか!? 冒険っていうと、物によっては世界を旅するのに一体何日かかるか……」

 僕は脳内のRPG知識からくる疑問を、素直に先輩にぶつけてみた。すると先輩は、僕のあまりの焦りようを見て、少しぎこちない苦笑を浮かべた。

「名ばかりだよ……。実際はもっと泥臭い、その日暮らしの仕事だ」

「日雇い、ってことですか……?」

 困惑を隠せない僕に、先輩は頷く。

「ああ。まあ、実際に冒険者ギルドへ行って、自分の目で見てみればわかる。今から行こう。登録すれば身分も保証してもらえるからな。入国のたびに閣下の手を煩わせるわけにもいかないだろう?」

 先輩は冗談混じりにそう言い、僕は無言で首を縦に振って彼女の後に続いた。


 冒険者ギルド。

 それは帝国の中心街の喧騒から少し離れた、街の一角にひっそりと佇んでいた。人通りはまばらで、通りに漂うのは安酒と埃の匂い。聞こえてくるのは景気の良い笑い声よりも、湿った溜息の方が多い、そんな場所だった。

 外観こそ小綺麗だが、冷たい風が嘲笑うかのように窓を揺らす建物。入り口の扉の左側には二、三人の男たちがたむろしていた。皆一様に、同じ「何か」をじっと見つめている。先輩も室内へは入らず、その人だかりの方へ僕を導いていく。

 近づくにつれ、彼らの視線の先にあるものの正体が明らかになった。それは、何枚もの紙がびっしりと貼り出された、大きな木の板だった。

「クエストボードだ」

 その前に到着し、先輩が解説を始める。

「この紙に依頼内容が書かれていて、条件に納得できれば受注する。……ほら、これを見てみろ」

 先輩が指さした一枚の紙には、「依頼者の名前、依頼内容、期限、報酬」がこの世界の文字で記されていた。不思議なことに、読めないはずの文字が自然と意味として頭に入ってくる。理屈は不明だが、今の僕にとって有利に働く現象なら、あえて解明しようとは思わなかった。

「受注したいものが見つかったら、それを剥がして受付まで持っていくんだ」

 横を見ると、ちょうど二人組の男が相談しながら一枚の紙を剥がし、室内の受付へと運んでいくところだった。

「なるほど、システムは分かりました」

 僕は理解を示すように頷いた。だが、どうしても一つだけ、腑に落ちないことがあった。

 この建物には、生活のために汗を流す者たちの「活気」が決定的に欠けているのだ。

 メインストリートでは今頃、精鋭騎士団の凱旋パレードで国中が沸いているはずなのに。日雇い労働とはいえ、誰でも働ける場所ならもっと人がいてもいいはずだ。

(……なのに、この異様な静けさはなんだ?)

 僕はたまらず先輩に質問した。

「先輩、なぜこのギルドにはあまり人がいないんですか? それとも、ここが不人気なだけで、他の場所はもっと賑わっているとか?」

 僕の声が少し大きかったのか、隣にいた薄汚れた身なりの男が「チッ」と露骨に舌打ちをして僕を睨みつけた。

「……あまり大きな声でそういうことを言うな、大那!」

 慌てた先輩は周囲を伺い、辺りの安全を確認すると、声を潜めてその理由を教えてくれた。

「いいか……。この国が異常なまでに軍事に力を入れているのは、これまでの過程でお前も理解しただろう?」

 僕は、あの精鋭騎士団の圧倒的な威容を思い浮かべて頷く。

「だから、モンスター退治や護衛といった『華のある依頼』は、そのほとんどが軍へ回ってしまうんだ。国も軍を維持するために実力者を積極的に登用し、破格の待遇を用意している。つまり、腕に覚えのある者は皆、自ずと軍へ入る仕組みが出来上がっているんだ。帝国民にとって最大の誉れは、精鋭部隊の席を勝ち取ることだからな」

 先輩は一拍置き、ギルドの寂れた光景を苦そうに眺めながら続けた。

「逆を言えば、ここに下りてくるのは……軍にはとても回せないようなアングラな汚れ仕事か、誰でもできるような、報酬の安い平易な雑用ばかりということだ」

 横にいた男が力なく一枚の紙を剥ぎ取り、受付へと消えていく。

 軍という巨大な「光」が差す陰で、ひっそりと息を潜める冒険者という「闇」。

 誰もが光に照らされた英雄になれるわけではない。ギルドを包む冷めた空気は、この帝国の歪な二面性を静かに物語っていた。

「よし。じゃあ、これに決めました」

 僕がボードから引き抜いた依頼書には、簡潔にこう記されていた。

『依頼者:ゲイリー。内容:フリーズ・スライムの粘体を3kg集めてくれ。期限:○月×日。報酬:800ゴールド』

(3kg……!? スライムって、そんなに体積があるものなのか?)

 正直、想像もつかない。用途も不明だし、なぜそれほど大量に必要なのか。依頼者のゲイリーという人物の事情についても一切は謎に包まれている。

 それを見たリーブ先輩が、頭の中でさっと計算を弾く。

「800か……。切り詰めれば3日は持つな。報酬は少し安めだが、その分、危険は少ない。慣らし運転にはちょうどいいだろう」

 先輩の確認を取り、僕は正式に受注するため室内へと通じる扉に手をかけた。すると、その背中を先輩の声が引き留める。

「待って、大那。登録をする前に、お前に一つ言っておきたいことがある」

 その瞳に一瞬だけ翳ったのは、不確定な未来を案じる憂い。

「今のうちに偽名を考えておけ。相手に無駄な警戒をさせる必要はない。多少素性を疑われたとしても、向こうがこちらの真実に辿り着く手立てはないんだからな」

 余計なことを口にして混乱を招く必要はない。それは、この異世界で生き抜くための先輩なりの忠告だった。

 僕は深く首を縦に振り、重い扉を押し開けて中へ入った。

 室内は事務的な、至って簡素な造りだった。二人の女性が立つ受付カウンターがあり、その手前には待合室を兼ねたような簡素なテーブルと椅子のセットが並んでいる。そこでは三人組の男たちが腰を下ろし、低い声で駄弁っていた。

 先に入っていった二人組が手続きを終え、僕とすれ違って出ていく。

「次の方、どうぞ」

 事務的な、感情の起伏がない声がかかった。僕は導かれるまま、カウンターの奥へと足を運ぶ。

「新規登録ですね。手続きを行いますので、お一人ずつお名前をお願いします」

 なぜ新規だと見抜かれたのだろう。二十代後半らしき、眼鏡をかけた知的な雰囲気の受付嬢は、流れるような手つきで書類を準備していく。僕はそのあまりの効率の良さに若干気圧されながらも、咄嗟にひねり出した偽名を口にした。

「え、えーっと……。うぇ、ウェイルです!」

 ――また変な名前だと思われたらどうしよう。

 嫌な汗が背筋を伝う。

 受付嬢は一瞬だけ、眼鏡の奥から僕を凝視した。だが、すぐに何事もなかったかのように視線を隣の先輩へと移す。

(よかった……)

 内心で激しく安堵し、僕はそっと胸を撫で下ろした。

「私はリーブと言います」

 先輩も淀みなく名を名乗り終え、記名の手続きはあっさりと完了した。

「これで登録は完了いたしました」

(……口頭試問だけ? ずいぶん簡単な登録だな)

 日本での、何枚もの書類に記入させられる面倒な手続きを思い出し、拍子抜けする。だが、すぐに思い直した。

(僕みたいな住所不定の人間や、食い詰めた者たちが集まる場所なんだ。元より、確かな身元証明なんて求めても意味がないのかもしれないな)

「登録した証として、こちらをお受け取りください」

 差し出されたのは、無骨な革製の腕輪だった。

「冒険者であることを示す腕章です。業務中は必ず着用してください」

 ――ああ、これか。

 さっきの視線の意味がようやくわかった。腕章をつけていないから、一目で新参だとバレたのだ。

 僕と先輩がそれぞれ腕に装着すると、受付嬢はさらに言葉を続ける。

「そして、新規登録の方にはこちらの支給品をお渡ししています。依頼物の回収には、この布をお使いください」

 渡されたのは、白い無地の風呂敷のような大きな布だった。二人分を受け取り、僕はその一つを先輩に手渡した。

「登録は以上です。それでは、本日受ける予定の依頼書を」

 促されるまま、さっきボードから剥がした紙を差し出す。受付嬢は手際よく事務処理を済ませると、最後にギルドの公印を力強く押し、僕に返してくれた。

「受注を完了しました。それでは、期日までに納品をお願いいたします」

 受付嬢が丁寧に一礼したので、僕も慌ててそれに合わせて礼をし、カウンターを後にした。

 建物を出ようと扉へ向かう道中。椅子に深く腰掛けていた三人組の一人が、獲物を見つけたような目で僕を呼び止めた。

「おいおい、兄ちゃん。新参か? 触っただけで潰れちまいそうな細さじゃねぇか、お前」

 その言葉に釣られ、他の二人もニヤニヤと下品な笑みを浮かべてこちらを見る。

「そんなひょろい腕じゃ、何も守れねぇぞ? ほら、そっちの姉ちゃん。そんな弱そうな男より、俺たちと遊ばねぇか? きっと三倍は楽しめるぜ?」

 ヒヒヒ、と卑しい笑い声が静かな室内に響く。

 その瞬間、僕の中に言いようのない激しい怒りが湧き上がった。

 リーブ先輩は、冷ややかな侮蔑を瞳に宿し、そのまま黙って過ぎ去ろうとしていた。

 だが、僕は足を止めた。一歩踏み出し、彼らを真っ向から見据える。迷う暇なんてなかった。

 気づいた時には、反射的に先輩の肩を抱き寄せ、その身を守るように引き寄せていた。

 肩越しに伝わる彼女の確かな体温を勇気に変えて、僕は彼らに言い放った。

「な、何であなたたちみたいな知らない人のところへ、先輩が行くと思っているんですか! 彼女は、僕の……僕の、大切な仲間なんですよ!」

 渾身の怒りを込めた僕の叫びに、隣の先輩は「えっ……?」と侮蔑の感情を忘れ、耳たぶまで赤く染めて硬直してしまった。

 一方で、三人組は一瞬の沈黙の後、ハハハ! と盛大に僕を馬鹿にするように笑い転げた。

「仲間だってよ! 傑作だ!」

 手を叩いて笑う彼らの様子に、僕は急激に恥ずかしさが込み上げ、顔を赤くして俯いた。これが冒険者なりの、手荒い洗礼というやつなのだろうか。

「……いい目をしてるじゃねぇか」

 不意に、笑い声が止まった。

 一人が、さっきまでの卑しさを消した、どこか重みのある声で言った。

「どんなことにしろ、熱があるってのはいいことだ。その熱を冷まさねぇうちに、さっさと動けよ。兄ちゃん」

「え……?」

 先ほどまでの刺々しい空気が消え、どこか寂寥感の漂う静けさが場を支配する。

 しかし、三人組はそれ以上僕らに構うつもりはないようで、すぐにまた別の他愛もない話題に興じ始めた。

 光の当たらない場所で燻りながらも、どこか人間臭い冒険者たち。

 僕は先輩を促すように肩から手を離し、前を見据えてギルドの扉を蹴り出した。


 リーブ先輩にフリーズ・スライムの居場所に心当たりがあるようで、そこまで案内してもらうことになった。辿り着いたのは、帝国領の北方に位置する寒冷な森だった。

「さむっ……!」

 一歩足を踏み入れるごとに、気温が急激に下がっていくのがわかる。吐き出す息は瞬時に白く凍りつき、指先の感覚はじわじわと麻痺し始めた。僕は前傾姿勢になり、自分の肩を抱え込むようにして体を縮めた。

「先輩は大丈夫ですか? 風邪をひかないうちに、さっさと集めて帰りましょう」

 隣を歩く先輩に声をかけるが、彼女は全く気にする様子もなく、平然とした足取りだ。どうやらこの程度の寒さには慣れきっているらしい。

 森を少し進むと、視界が開け、広大な沼が見えてきた。どうやらこの森全体が、この巨大な沼を囲うようにして形成されているらしい。湿った空気の中に、ぴちぴちと何かが跳ねる音が響く。目を凝らすと、そこには複数の動く影があった。

「あれがフリーズ・スライムか!」

 体長は僕の膝丈ほど。淡い空色をした、透き通るような丸い体――正直、かわいい。こんな愛らしい生き物が人に危害を加えるだなんて、俄かには信じがたかった。今からこれを「殺す」のだと思うと、胸の奥にちくりとした罪悪感が走る。

 見たところ凶暴性はなさそうだ。僕は意を決して背中からハンマーを引き抜いた。腕にずしりと、命を奪うための重みが乗る。足元の霜を踏み締め、一気にスライムへと距離を詰めた。

 しかし。

「迂闊に近づくな、大那!」

 背後から先輩の鋭い叫びが飛んだ。

「え?」

 足を止めて振り返った瞬間、こちらに気づいた目の前のスライムが、その身を震わせて全身から小さなブリザードを発生させた。視界が一瞬で白く染まり、足元の地面がバリバリと音を立てて凍りつく。

「うわあっ!」

 僕は慌てて後退したが、滑る地面にバランスを崩し、無様に尻もちをついてしまった。先輩が背後から駆け寄り、フリーズ・スライムの生態を冷戦に説明してくれる。

「フリーズ・スライム……。こいつらは見た目とは裏腹に、周囲のものを瞬時に凍らせる局所的な吹雪を放つ。それが止むのを待ってから叩くのが定石だ」

 先輩が差し出してくれた手を掴み、僕は立ち上がった。

「ありがとうございます、先輩。一人だったら、今頃氷像になるところでした……」

 僕が感謝を述べると、先輩は少し得意げに鼻を鳴らした。

「どんな相手だろうと見くびるんじゃないぞ。閣下も仰っていただろう、『相手を見ろ』とな」

 戦闘とは、武器を振る前から始まっている。敵の予備動作を見極め、攻撃に備える――「戦闘の先輩」としてのアドバイスを、僕は心のメモ帳に深く刻み込んだ。

 小ブリザードが収まったのを見届け、僕は再びハンマーを構えて駆け出した。スライムは吹雪を連発できないようで、僕に背を向けて一目散に逃げようとする。だが、バスケで鍛えた僕の脚の方が速かった。

 間合いに捉えた瞬間、僕は高く跳躍した。

「はああっ!」

 渾身の力でハンマーを振り下ろす。

「ぎゅむっ!」

 短い断末魔と共に、一匹のフリーズ・スライムがぺしゃんこに潰れ、絶命した。ハンマーを持ち上げると、内側から粘体が弾け飛んだ無惨な姿が目に入る。

「……」

 さっきまで確かに生きて、この場所で動いていた命。それが、僕の一撃によって見る影もない「死体」へと変わった。かわいいなんて思った自分が、甘かったのかもしれない。

 ハンマーを握る手が、微かに震えていた。消えない罪悪感が、泥のように胸にこびりつく。

「どうした?」

 動けずにいた僕の背中に、先輩の声が届く。

「先輩……」

 僕は何も言えず、ただ自分が仕留めたスライムの残骸を、ハンマーの先で示すことしかできなかった。

「……そうか。まだ、その重みに慣れていないのだな」

 演習場での出来事を思い出したのか、先輩の声が和らいだ。

「やっぱりお前は、優しいんだな」

 彼女は僕の背中にそっと手を当て、励ますように言葉を紡ぎ始めた。

「……良い機会だ。私の『初めて』の話をしよう」

 先輩は遠い過去をなぞるように、虚空を見つめた。

「あれは私が11歳の頃だ。辺境の村で育った私の日常は、ある夜の魔物の侵攻で、一夜にして灰に帰した。一面の炎が村を覆い、焼け落ちる家の中から、誰かの名を呼ぶ絶叫だけが聞こえていた。両親も、いつの間にか亡くなっていた。暗闇の中で、私だけが一人残されたんだ」

 先輩は少しだけ間を置いた。

「自分も同じように死ぬのだという恐怖。だがそれ以上に、私の中には確かな『怒り』があった。なぜ私たちの平穏を壊したのか。なぜ未来を奪ったのか。怒りが膨れ上がるまま、私は無我夢中で魔法を放った。気づけば目の前には魔物の死体の山ができていたよ。恐れをなした敵が退却しても、私は攻撃を止められなかった。胸の炎が、鎮まらなかったんだ。……その炎は、今も消えずに燃え続けている。だから私は、躊躇なく敵を殺せる」

 彼女がお金に無頓着だったのも、きっとその怒りのままに魔法の研究に没頭していたからだろう。凄惨な過去の重みが、彼女の体温を通じて伝わってくるようだった。

「だが大那、お前の心にはその憎悪も絶望もない。あるのは、他者を慈しむ心だけだ」

 彼女の瞳が、柔らかな光を帯びて僕に向けられた。

「でも、それでいい。きっと復讐に駆られている私たちの方が狂っているんだろう。閣下はあのように仰ったが、お前はこの地獄に慣れる必要はない。……いや、慣れてはいけないんだ」

 先輩は、上官であるローザス閣下の教えを否定してまで、僕の「人間らしさ」を守ろうとしてくれた。

「一回ごとに罪悪感を覚えて、それを嫌だと思う心こそが、お前の真の強さに繋がるはずだから。……だから魔王を斃して、一緒にこの地獄を終わらせよう」

 彼女は再び、僕に向かって手を差し出した。

「……はい。ありがとうございます、先輩」

 胸に溜まっていた重い澱みが、少しだけ軽くなった気がした。僕は彼女の小さな手を、今度はしっかりと握り返した。

 一匹目の粘体を袋に詰め終えると、僕は意を決して再びハンマーを握り締めた。

 罪悪感は依然として胸の奥に燻っている。しかし、フリーズ・スライムたちもまた、奪われまいと必死だった。彼らは懸命に小ブリザードを発生させ、凍てつく冷気で僕の命を執拗に狙ってくる。

 これは僕と彼ら、互いの生を賭けた、どちらかの灯火が消えるまで終わらない生存競争なのだ。

(生きるためだ……!)

 僕は奥歯を噛み締めた。


 逃げるスライムを追い、森の深部へと足を踏み入れる。「はああっ!」と声を上げ、振り下ろした一撃でさらに一匹を仕留めた。だが。

「危ない!」

 背後でパチリと一筋の電撃が走ったかと思うと、次の瞬間、僕の背後を狙って突進してきていた別の個体が、電撃を浴びて空中からボトリと墜落した。

「――っ! 助かりました!」

 リーブ先輩の援護射撃だった。痺れて動けずにいたそれを、僕は即座に叩き潰す。

「周りを見ろ、大那。ここはすでに奴らの巣窟だ。……もう十分集まっただろう。これ以上深追いはせず、帝都へ戻って納品するぞ。それで今回のクエストは完了だ」

 僕は頷き、斃した個体の粘体を袋に詰める。リーブ先輩の分と合わせれば、すでに相当な重量になっていた。

 しかし次の瞬間、周囲の気温がさらにもう一段階、底冷えするように下がった。

 スライムが密集しているからではない。何か別の、巨大な寒気そのものが実体化したかのような激烈な違和感。

 そして――ズシン。

 大地を震わせる大きな震動が起こった。

 いや、地震ではない。ズシン。また一歩。

 森の奥から、何かが確実に、一段ずつ階梯を降りるように近づいてきている。その音と震動は、こちらに近づくにつれて容赦なく大きくなっていく。

「なんだ……?」

 僕が巣窟の最奥へと目を凝らした瞬間――それは姿を現した。

 体長は二メートルを超え、恰幅よく膨らんだ、まるで大玉転がしの玉を数倍に巨大化させたような生物。

「フリーズ・キングスライム……だと……!?」

 隣で先輩が目を見開いた。その声には、驚愕と、隠しきれない恐怖が混じっていた。

 その名の通り、フリーズ・スライムの頂点に立つ王。圧倒的な巨躯と、周囲を威圧する氷の波動。顔らしき部分の上部には、氷を削り出して作ったような王冠が鎮座していた。

「まずい……! 今の私たちでは、万に一つも勝ち目はない! 逃げるぞ、大那!」

 先輩は言うや否や、脱兎のごとく反転して巣窟の外へと駆け出した。

「あっ、待って、置いていかないでください!」

 僕も慌てて尻尾を巻いて後に続く。

 当然、王がそれを易々と許すはずもなかった。キングスライムは地響きを立てながら、恐るべき速度で追撃してくる。さらに前方には、逃げ道を塞ぐように先回りしたスライムたちが立ちはだかり、僕たちの足を鈍らせる。

「くっ……!」

 先回り組をなんとか蹴散らしたが、そのロスでキングスライムとの距離が致命的なまでに詰まってしまった。背後、わずか数メートル。振り返れば、もうその巨体が視界を埋め尽くす距離だ。

「グググググッ!」

 奴が咆哮のような音を上げたかと思うと、目前に複数の巨大な氷柱が形成され、鋭い弾丸となって僕たちの背をめがけて発射された。

「うわあああっ!」

 僕はバスケのステップのようにジグザグに走ることで、間一髪それを回避した。しかし、これでは直線距離が稼げず、遅かれ早かれ追いつかれるのは明白だった。

 肺が焼けるように痛い。足がもつれる。もう、猶予はない。

 走りながら、僕は必死に周囲を見渡した。

(何か……何か使えるものはないか……!?)

 ここは森だ。至る所に巨木が生い茂っている。これを倒せば――。

(これだ!)

 僕は通り過ぎようとした一本の木の前で、唐突に足を止めた。

「大那!? 何をしてる、止まれば餌食に……!」

 先輩が驚愕の表情で振り返る。だが、僕の足はすでに木の根元を捉えていた。

「……先輩はそのまま走り続けてください! 僕が奴を足止めします!」

 言い終えるより速く、僕は背中からハンマーを引き抜き、溜めた力を一気に幹へと叩き込んだ。凄まじい破壊音と共に幹が折れ、巨木が道を塞ぐように倒れ込む。

「よしっ!」

 だが、キングスライムにとってそれは、進撃をわずかに遅らせる障害物に過ぎなかった。奴は巨体を唸らせ、倒れた幹を紙細工のように踏み砕いて進んでくる。

「――っ!」

 足りない。これじゃ止まらない。

 僕が自分の判断ミスに落胆しかけたその時。先輩もまた、僕の意図と、そしてその「限界」を見ていた。

(逃げているだけじゃダメ……! 私も、大那の力になってみせる!)

 そう、大那一人の力だけでは足りなかった。だが、二人なら。

 リーブは走りながら、進行方向の側面にある木の幹に狙いを定めると、鋭く叫んだ。

「アイス・スピア!」

 放たれた氷の槍は、幹を倒すほどの威力はなかった。しかし、その根元に深い亀裂を刻むには十分だった。

「大那っ!」

 先輩の叫びが響く。――視線の先には、ヒビの入った幹。

「先輩……!」

 瞬時にその意図を理解した。僕は目に決意を湛え、不敵な笑みを浮かべた。

「任せてください!」

 キングスライムに向き直り、再びハンマーを横に一閃する。先ほどよりも遥かに容易く幹がなぎ倒された。それだけではない。余った衝撃に押し出された幹が、空中へと吹き飛び、迫りくるキングスライムの顔面に直接激突したのだ。

「ググッ……!」

 奴が初めて怯みを見せた。ダメージ自体は軽微だろうが、その一瞬の停滞が、僕たちが逃げ切るための決定的な距離を生んだ。

 先輩が『アイス・スピア』で幹にヒビを作り、僕がそれを『ハンマー』でぶつける。この即席のコンビネーションを数回繰り返し、奴との距離を確実に引き離していく。

 やがて、森の終わりを告げる外の光が見えてきた。

 あとはもう、ひたすらに駆けるのみ。

 最後の力を振り絞り、僕たちはついに森の外へと飛び出した。

 幸いなことに、フリーズ・キングスライムは森の境界でピタリと足を止めた。まるで、見えない壁に阻まれてそこから先へは出られないかのように。

 僕たちが脱出したのを確認すると、奴は忌々しげに森の奥へと引き返していった。

「……ありがとうございます、先輩!」

 荒い呼吸を整えながら、僕は先輩に深く礼を言った。

「ううん。あなたのおかげだよ、大那。やっぱり咄嗟の判断力において、あなたの右に出る者はいないね」

 死線を乗り越えた高揚感と、初めての協力作業を成功させた喜び。僕たちは意気揚々と、納品のために冒険者ギルドへと足を進めた。


 冒険者ギルドへと到着し、僕は扉を開ける。

 中の様相はさっき訪れた時とそれほど変わらない――いや、むしろ時間が止まっているかのようだった。手荒い歓迎をしてくれたあの三人組も、相変わらず同じ椅子に座って駄弁っている。よほど暇なのだろうか。

 幸い受付は空いており、二人の受付嬢はどちらも手持ち無沙汰にしていた。僕は先ほど手続きをしてくれた、奥の眼鏡をかけた女性の下へと足を運んだ。

「依頼品の納品をしに来ました」

 僕の声と背負っている袋の重みから判断して、受付嬢は手際よく受注内容を照合する。

「かしこまりました。……フリーズ・スライムの粘体を3kgですね」

 僕は頷いて袋を差し出し、リーブ先輩もそれに倣って自分の分の袋をカウンターに置いた。

「……ありがとうございます。それでは、計測いたしますね」

 受付嬢が奥から年季の入った秤を持ってくると、目の前で針が振れる。

「これは……。合計で4kgありますね。規定の3kgを超えた分については、1kgあたり200ゴールドで追加買取いたしますが、いかがなさいますか?」

 僕は思わず目を見開いた。命懸けの採取が、予想以上の成果を結んだ瞬間だった。

「はい! お願いします!」

 勢いよく返答すると、受付嬢は淡々と精算に入った。

「……承りました。では、報奨金の800ゴールドと余剰分の200ゴールド、合わせて1000ゴールドをお支払いいたします」

 受付嬢はレジのような木箱から、表面に見慣れない紋章が刻まれ、「100」の数字が打たれた金貨を十枚取り出し、僕の手のひらに載せてくれた。

(これが、この世界の通貨か……!)

 僕はそれを受け取り、まじまじと見つめてしまう。自分で稼いだお金だからか、ただの金属の塊のはずなのに、やけに眩しく、そしてずっしりと重く感じられた。アルバイトもしたことがなかった僕にとって、これは人生で初めて手にした「労働の対価」だった。

 すると隣から、先輩が小さな革の布袋を差し出してきた。

 「これに入れておけ」という合図だろう。僕は財布すら持っていなかったので、ありがたくそれを使わせてもらうことにした。金貨を詰め込み、紐を締めてから先輩に預ける。この世界の物価も治安もまだ把握しきれていない僕にとって、大金を自分で持っているのは少し怖かったのだ。

「ありがとうございました」

 受付嬢が事務的に一礼し、これでクエストは完遂となった。一連の流れは掴めたし、またお世話になることもあるだろう。僕はカウンターを後にした。

 建物を出ようとしたところで、再びあの三人組に声をかけられた。

「よお、兄ちゃん! その細い腕で、無事に仕事をこなせたようだな。死んでなくて安心したぜ!」

 ハハハ!と笑われる。相手にしても無駄だということは、さっき学んだばかりだ。ここは無視して立ち去るのが得策だろう。

 ――いや、待てよ。

 僕は思い直した。世の中、誰がどんな情報を持っているか分からない。

 「彼女」について、ここで一度探ってみる価値はある。

「……あの、お兄さんたち。一つ訊いてみたいことがあるんですけど、いいですか?」

 なるべく下手(したて)に出て尋ねてみる。三人組は、「ああん?」と僕の方から声をかけたことに意外そうな顔をしたが、どこか不敵な笑みを浮かべてこちらを見た。

「実は……『マノー』という女性について調べているんです。何か知っていることはありませんか? どんな些細なことでも構いません」

 僕が頭を下げると、三人は一度顔を見合わせた。

 「仕返しをしにきたわけじゃなさそうだな」と小声で囁き合うと、彼らは頭を捻って考え始めた。

「あ、そういや……」

 小太りの男が、何かを思い出したように口を開いた。

「『マノー』って言うと、あの精鋭騎士団の奴だろ。本人については『クソ強ぇ』ってことぐらいしか知らねぇが、奴の親父に関しては妙な噂を聞いたことがあるぜ」

 その一言で、他の二人も膝を打った。

「マノーの親父か! ああ、アイツな」

「……なんでも、相当な額の借金を抱えてるらしい。娘が精鋭騎士団に入ったときは、これで返せるとたいそう喜んでたって話だぜ」

「ああ。アイツの借金はこの界隈じゃ有名だ。あちこちから借りては踏み倒してるようでな。『奴にだけは絶対に金を貸すな』ってのが、貸した連中の合言葉になってるくらいだ」

 胸の奥が、ざわついた。

 思いがけない場所で、重い情報を得てしまった。マノーさんが精鋭騎士団という過酷な道を選んだのは、父親の借金を肩代わりするためだったのかもしれない。

「……ありがとうございます!」

 僕は深く礼をした。見た目だけでは、人の背景など分からないものだ。

(人は見かけに寄らない、か……)

 僕は内心でそう噛み締め、ギルドの重い扉を押し開けた。


 街の至る所に街灯が灯り、石畳を淡く照らし始める頃。僕たちは稼いだばかりの報酬を握りしめ、一軒の酒場へと向かった。

 扉を開けた瞬間、凄まじい熱気と喧騒が押し寄せてくる。笑い声、怒鳴り声、そして豪快にジョッキがぶつかり合う音。それらに混じって、鼻腔をくすぐるのは香ばしい焼きたてパンの匂いだ。

 案内されたのは、使い込まれて黒光りしている木製の四角いテーブル。僕とリーブ先輩は向かい合って座り、さっそくパンとスープのセットを注文した。

 この世界で初めて口にする食事。期待と緊張で、食べる前からワクワクが抑えきれない。

「お前も一杯どうだ?」

 先輩が酒を注文するついでに誘ってきたが、僕は「い、いえ! 僕はまだ未成年ですから!」と丁重に遠慮した。彼女は「ミセイネン?」と不思議そうに首を傾げていたが、幸いこの店には水魔法の使い手がいるようで、澄んだ水を提供してくれた。

 少し待つと、湯気を立てるパンとスープが運ばれてきた。

「おーっ……!」

 僕は目を輝かせ、思わず生唾を飲み込む。丸二日近くまともな食事をしておらず、その身体で巨大なハンマーを振り回したのだ。僕の胃袋はとうに限界を超えていた。

「いただきまーす!」

 手を合わせ、まずはパンに齧り付く。

 正直に言えば、現代日本のパンに比べれば固く、味気ない。……それでも、涙が出るほど美味しかった。「空腹は最高のスパイス」とはよく言ったものだが、五臓六腑に染み渡るその確かな質量に、僕は震えるような感動を覚えた。

 続いてスープを啜る。具材は乏しく、味付けも塩のみといった質素なものだ。けれど、出来立ての温かさは冷え切った指先にまでじわじわと体温を戻してくれる。

「おいしい……」

 最高の幸福感。異世界の料理とはいえ、幸いなことに僕の味覚はこっちの世界にも馴染んでくれているようだ。

 ふと、スープを掬っていたスプーンに目が止まった。そこには、よく煮込まれた一切れの豚肉が載っていた。

 ……食べて、いいのだろうか。

 ふと、そんな思いが頭をよぎる。この豚もまた、人間のために生まれ、その一生を捧げた命なのだ。モンスターだけじゃない。家畜だって、同じように人間の都合で命を奪われる存在だ。

 日本にいた頃、僕は食卓に並ぶ肉を見て、これほど深く考えたことはなかった。知識としては知っていても、実体験を伴う「命のやり取り」を知らなかったのだ。

 スライムを殺した時のあの手の感触が、脳裏をよぎる。

 目を背けてはいけない。これは「犠牲」の上に成り立つ生だ。だからこそ、この一口に対して心からの「感謝」を忘れてはならないのだと、僕は自分に刻み込むようにして肉を噛み締めた。

「……大那。食べながらで悪いが」

 先輩の声で、僕は現実に引き戻された。

「マノーに関してだ」

「……ああ、はい。父親が多額の借金を背負っているという話でしたね」

 先輩は僕の感傷的な様子を一瞬だけ訝しんだようだったが、すぐに話を本筋に戻した。

「そうだ。目的が明確な分、彼女は交渉の余地がある。こちらが借金を上回る金額を提示できれば、引き込める可能性は高い」

 お金で仲間を募る――。

 一瞬、割り切れない思いもあったが、背に腹は代えられない。僕は頷いて答えた。

「魔王を斃せば、国から莫大な報奨金が出るんですよね? 先輩」

「ああ。一人あたり、人生を一周遊んで暮らせるほどにはな」

 具体的な額は分からなかったが、それだけあればマノーさんの父親の借金も完済できるはずだ。

「なら、僕は元の世界に帰るつもりですから、お金は必要ありません。僕の分の報奨金をすべてマノーさんに譲渡すると一筆書けば、条件面では納得してもらえるはずです」

 皇帝への一筆があれば、マノーさんの手に渡るよう手配もできるだろう。

「うん。それなら後は、どうやって彼女に接触するかだな」

 先輩も同意してくれた。だが、彼女の日常も住処も知らない現状では、これ以上議論しても答えは出ない。

「……明日、改めて聞き込みをしてみましょう。一から彼女の足取りを追うんです」

「そうだな。だが大那、一つだけ念押ししておくぞ。彼女が正式に仲間になるまでは、決して本名を名乗るんじゃない。いいな?」

 念を押す先輩に、僕は「分かっていますよ」と軽く答えた。

 食事を終え、会計を済ませて店を出ると、街はすでに深い闇に包まれていた。見慣れない月が空に浮かび、静かに帝都を照らしている。

 初めて過ごす、帝都の夜。

 僕は少し顔を赤くし、千鳥足になった先輩の肩を支えながら、今夜の宿へと向かった。

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