第六章 -17
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九月も半ばになったが、カンパーニア地方にはまだ真夏並みの強い日差しが降り注ぐ。その中心であるナポリは、ギリシア人が植民してできた都市であるため、ローマとは雰囲気を異にしている。今はギリシアよりもギリシア的であるのかもしれない。首都ローマと比べればもちろんだが、ギリシアの中心都市アテネと比べても、雑多が鳴りを潜める。ここぞギリシア人の魂の生き残る場所と誇らしげに、洗練を尽くす。第一級の彫刻に飾られた街並みの中を、腕様々な芸術家たちが生き生きと、目を輝かせて歩く。何一つ翳る美はないが、中でも楽人たちが奏でる音色が、ひと際都市を華やがせている。一目見ればまばゆい神殿の白、そして他にたとえようもない奇跡であるナポリ湾の青は言うまでもない。
「ヴェルギリウス殿!」
ルキリウスは手を上げて詩人のもとへ行った。
ヴェルギリウスは家の柱廊からナポリ湾を眺めているところだった。ぼんやりとしているようで、なにかに焦がれるような顔をしていた。ルキリウスに気づくと、驚いた様子で立ち上がった。
「ルキリウス! どうしたんだい、こんなところへ?」
微笑みに、やはり翳がなくはない。けれどもルキリウスはあえてにんまりと満面の笑みで応えた。
「なぁに、ちょっと通りがかったんですよ。お元気そうでよかった」
「君もな」ヴェルギリウスは泣き笑い顔になった。「もう大丈夫なのか、傷は?」
「ええ、もうすっかり。そればかりか、ここ最近でいちばん元気溌剌としているくらいですよ」
ここへ来る前、またポッツォーリの父親の墓に立ち寄った。もうそうせずとも父をそばに感じていられるようになったが、一応報告はしておこうと思った。
またちょっと出かけてくるよ、と。
「なんですか、その顔は?」ルキリウスはヴェルギリウスへにやりと笑いかける。「こいつめ、嫌な奴が死んだとたん調子に乗りやがって、とか思ってます?」
「思ってない! 思ってないよ……!」
かわいそうにこの詩人は、素直にうろたえてしまう。もう五十歳も近いのに、半分未満も年下の悪餓鬼にからかわれてしまう。
ルキリウスはこの大詩人の心の美を愛した。この人の心根は、親友を失おうと、世の不条理にさらされようと、結局変わらなかった。時に曇ろうと、荒れようと、澄みきった青のままだ。このナポリ湾のように、そして果てのない天空のように。
この人はまだ、どこへだって行けるのに。
「……カエピオが死んだんだってね」
ヴェルギリウスは知っていた。ルキリウスもさすがに笑みを引っ込めてうなずいた。
「私も死ぬべきだった。どうしてまだ生き長らえているんだろう? あれほどの大罪を犯しておいて」
「よしてくださいよ、ヴェルギリウス殿」ルキリウスは呆れ顔で首を振ってやる。「あなた、本気であれをカエサルだと思ったんですか? あの人にあんな大立ちまわりができると? 見事華麗な七人斬りですよ?」
ルキリウスの笑みに、ヴェルギリウスも渋々とばかりにつられる。
「でも……私は君を殺すところだったよ」
「馬鹿にしてもらっちゃぁ困るなぁ。ぼくの腕前は、あなたの親友であり、ぼくの宿敵である人が最初に認めたのに。今やなんと義父になっちゃいましたけど」
ヴェルギリウスの笑みにさらに痛みがにじんだ。だがそれは、亡きガルスへの追慕ではなかった。
「私は……ティベリウス・ネロに自分と同じ思いを与えるところだったんだ」彼は振り返るのだった。「あの時彼の顔を見て、私はようやく自分がなにをしたのかわかった」
「そうですか? そりゃぼくも見てみたかったな」
目を横に流し、ルキリウスはうそぶいた。
あの陰謀沙汰の後、アウグストゥスもティベリウスもヴェルギリウスの罪を問うことはなかった。二人とも悩んだようだが、ルキリウスが「心神喪失状態」「ぼくがカエサル・アウグストゥスに見えるわけがない」と言い張ったために、目をつぶることとした。大詩人を失いたくなかったためでもあろう。しかしヴェルギリウス自身がナポリの家に戻り、自主追放のように引きこもってしまった。アポロン図書館の館長職は、ホラティウスに引継ぎをしたという。
ともかく、あの陰謀沙汰は先月のうちに終わった。逃亡したカエピオが身を隠したのは、結局我が家であったらしい。それから奴隷二人のみを伴い、首都を脱出せんとした。ところが奴隷の片方が裏切り、カエピオを首都警察に突き出した。その後罪人はタルペイヤの崖から突き落とされたそうだ。
ムレナもすでに没した。アウグストゥス暗殺未遂の首謀者はそろって罰を受け、騒動は幕引きとなったかに思えた。ところが最後に、カエピオの父親が、裏切った奴隷を中央広場に引き立ててきた。そしてこの男が息子を殺したのだと市民へ大声で知らせ、磔刑に処してしまった。
奴隷の生殺与奪の権利は家父長が握っているので、この処断自体は違法ではない。ルキリウスの胸をちくりと刺した痛みは、カエピオにも父親がいたという事実だった。こよなく愛情をかけて、彼のために怒ってくれる人間がいたわけだ。
それなのにどうしてあんな愚かな真似をしたのだろう、あの男は。
未来から来た? 予言をだれも聞いてくれなかった? でも彼は、決して独りではなかったのだ。
「君はどこかへ行くのかい、ルキリウス? 通りがかったと言ったが」
ヴェルギリウスが尋ねた。ルキリウスもご機嫌な笑顔に戻った。
「ええ。ちょっとだけ海を越えてね。ティベリウスと一緒に」
「コルネリアとロンガッラは?」
「一緒に来てもいいと言ったんですが、残るそうです。妻も妻で、やることがいっぱいあるみたいで」
図書館長がホラティウスに代わっても、コルネリアは仕事を続けると言った。娘、それに義両親と祖父とともに、夫の帰りを待っているという。ヴィプサーニアとも友だちつき合いをしたいそうだ。マルケッラがアグリッパ家を出たうえ、婚約状態では相変わらずティベリウスについていくわけにもいかない。でも私たちは良いお友だちになれそうだ。あなたたちに負けないからね──。
父親を亡くし、身も世もなく絶望し、剣闘士になるばかりか軍団にまで同行し、ただルキリウスだけを頼りにしていた少女はもういなかった。彼女の人生はこれからだ。結婚してよかったのだと、ルキリウスはようやく思えるようになった。
ティベリウスもコルネリアには感謝していた。それにしても女の友情というやつには、いまいち男には理解し難い質があるのは気のせいだろうか。たとえば先月初め、あの仕切り直しの誕生日会で、テレンティアはまだ服喪中のユリアを、自らの感性でもって思いきり着飾らせたという。出席者らへの驚きの返礼だった。「あたしの自慢の妹よ」と誇らしげだったらしい。ティベリウスも、彼から話を聞いたルキリウスも、案外良いところがあると思った。だがあとでマエケナスや詩人たちに「主役のあたしよりほめそやして」と八つ当たりしたらしい。ユリアが無邪気にうれしがったそうなので、まぁ、いいのだが。
そんな過去の話やこれからの話をしながら、ルキリウスはしばらくヴェルギリウスと並んで景色を眺めていた。自分で気づいていなかったが、これほど屈託のない笑顔でいるのは十年ぶりくらいだった。
だがルキリウス・ロングスとは、本来明るく陽気な性質の男だった。それもまた、この青いナポリ湾の輝きのように。
「ルキリウス、君は今とても楽しそうだな」
ヴェルギリウスもそう言うのだった。
「ティベリウスと一緒に旅に出かけるのが初めてなんですよ」とルキリウスは教えた。「……まぁ、旅をしたことはありましたけど」
我ながら妙な感覚だと思う。けれどもティベリウスと共にローマ本土から外へ出る。そして同じ世界を見る。その経験がうれしい。
ヴェルギリウスは目を細めた。慈しみつつも遠い、さみしげなまなざしだった。
「あなたも旅に出たらいいのに」だから、ルキリウスは勧めたのだった。
詩人はびっくりしたようだ。「私が?」
「そうですよ!」ルキリウスは立ち上がる。「トロイヤの遺跡を見たくないんですか?」
「それは見てみたいが……」
「エーゲ海、エフェソス、ペルガモン、もちろんアテネ、スパルタ、コリントにオリュンポス山も。それからオデュッセウスの故郷イタケ島なんてどうです? いっそ彼の足跡をたどってみたら? 巨人に食べられるかもしれませんが」
ヴェルギリウスは微笑む。「それは勘弁願いたいが、そうなるより早く、私は力尽きてしまいそうだな」
「それがなんですか! いや、そうはならないと思いますけどね、旅に出たら。あれもこれもそれも見たいって、どんどん欲が出てきて止まらなくなりますよ」
「そうなのか?」
「そうですよ!」
笑みを満面に、ルキリウスは保証した。
エジプトからの帰り道、疲労困憊でありながら、ティベリウスと二人、大急ぎでテーベの葬祭殿を見てまわり、メンフィスのピラミッド探検まで試みたのは、内緒だ。
ヴェルギリウスは眉毛を下げた。「しかし私は……自信がないな。君のような勇気がない。エジプトからアラビアへ、三年も旅をしたような。途方もないことなんだよ、ルキリウス。我々があそこで会ったとき、君は一人きりだったな」
「一人じゃないですよ、ヴェルギリウス殿」ルキリウスは教えた。「ガルスがいる。きっとあなたを待っている」
「……え?」
「だってあの人は、アウグストゥスの幕僚として、ずっと世界を旅したんでしょ? 西はガリア、東はギリシア、アジア、そしてエジプトまで」
そうだ。コルネリウス・ガルスとは、世界じゅうを渡り歩いた男の一人だ。詩人であり将軍であり、属州総督までになって、さらにあんなに可愛らしい娘までもうけた。解放奴隷上がりとさえ言われながら。
なんといううらやましい人生か。
そして故国元老院が彼を記録抹殺刑にしようと、彼の名は永遠に残る。
このヴェルギリウスの歌によって。
「彼はきっと何度も願ったに違いないんだ。あなたにもこの世界を見せたいって」
ヴェルギリウスよ、君ほどの人間が、ローマ本土に留まり続けるのか。君にはまだできることがあるはずだ。
私がいない世界とは、我々が生きた世界だ。
存分に生きて、存分に歌え。そして、我らが世界に永遠を与えてくれ。
私はそこにいる。
「だからきっと聞こえますよ。彼の声が。僭越ながらこのぼくが保証します」
「……ガルスが、まだいるというのか? この世界のどこかに」
「はい」
これからは一緒に旅をするのだ。ルキリウスの三年が、決して一人きりではなかったように。
そうしたらきっと彼にもわかるはずだ。ガルスもまたこの世界を愛していたことが。彼もまた存分に生き、世界に魂を開いていたことが。
そして待っているのは、ガルスだけではない。この世界の伝説が、歴史が、生き抜いた人々の輝きが、ヴェルギリウスへ両腕を広げている。
我々の美を、永遠に。
ヴェルギリウスは微笑んだ。両眼に光るのは、涙ではない。彼自身の魂の輝きだ。
彼にはまだ大いにやることがあった。
「そうだな。すでに半分死んだ身。そして、ただ一度の我が人生だな」