第六章 -18
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九月下旬、ティベリウスはシチリアにいた。アウグストゥスの視察行に同行したのだった。家族では、母とドルーススも一緒だった。
継父はこのシチリアで、首都の食糧問題の根本解決に乗り出した。
シチリアは国家ローマの最初の属州である。かつてカルタゴと壮絶な奪い合いをくり広げた島だ。現在もギリシア人やフェニキア人の植民から始まる名高い都市が、海岸線に点在する。いずれもオスティアが哀れまれるくらいの立派な港を持つ。それらをつなぎながら、島全体をぐるりと取り囲んで、ローマ街道が敷設されている。
継父は、そのような都市の一つであるシラクサを拠点とした。まずはこれら海港都市を整備し直すことから始めた。穀物を内陸から海の向こうへ運び出す中継地点であるからだ。そしてかつてのカルタゴをはじめとする北アフリカの都市からも、産物が集い、また世界へ運ばれていく場所となるのだ。
継父は同時に街道の修復工事も始めた。海岸線ばかりでなく内陸を貫いて走る道も、ひと際入念に整えた。なぜならこの島のいたるところに、小麦畑が広がっているからだ。地中海一の面積を誇る島シチリア。ギリシア人らは海運を生業とするのでさして気にも留めずに暮らしてきたが、首都ローマの食は、この土地の肥沃にこそかかっている。
来年こそ飢饉が起こらないようにするためには、今が肝心だ。そして以降も長く食糧問題で悩むことのないようにする。すなわち、生産力の向上と流通過程の迅速化だ。継父はこの世界有数の穀倉地帯の現状を、自らの目で見、自らの手で根本的改善に尽くした。七ヶ所もの植民市を新造したが、これはガリアとヒスパニアを合わせて継父が建設した市の数に匹敵する。入植のため、世界各地から退役兵が集まった。彼らがこれからこの土地で小麦を作るのだ。すでに耕されている周辺の農場で、なにか問題が起こらないか目を光らせることも忘れない。
ティベリウスは継父の手足となり、シチリアじゅうを駆けまわって過ごした。率直に、とてもうれしかった。自分がオスティアで苦闘した日々が空しくならず、生かされている瞬間だと思った。あの半年でティベリウスが思ったところを、継父は聞き届けてくれた。そしてさすが見事な手腕でもって、ティベリウスにはできなかった改善を成していった。
穀物担当官ばかりでなく、元老院属州の総督にもできなかったことだ。第一人者アウグストゥスの権限があってこその解決だ。
一面では、元老院と共和政主義者、その無力をやはり知らしめる事態でもあった。
生産力の向上と流通過程の改善は、いずれも今冬のうちに見通しがつきそうだった。
飢饉が永遠に起こらないとは決して言えない。けれども毎年のように悩まされはしなくなるだろう。「数十年、私に小麦の無料配給廃止の思いつきを忘れさせてくれるとよいのだがな」継父も苦笑まじりにそう言っていた。
二十歳の誕生日を、ティベリウスは建設途中の植民市で、退役兵らとともに働きながら迎えた。ルキリウスが二十年物のマメルティニ酒なるものを調達してきて、ティベリウスと飲み交わした。ドルーススには葡萄酒と言い張って、ほぼその果汁であるものを与えた。今秋に収穫されたばかりのもので、おいしかったはずだ。皆で焼き立てのパンをたらふく食べた。
シラクサには、かの地から世界に名を上げた「ローマの剣」の銅像がある。ティベリウスはマルケルスの年齢を追い抜いてしまった。
一方、継父もシラクサからあちこちへ視察に出ていた。近衛隊がしかと護衛についていたが、そもそも島全体の治安が良かったために、なんの煩いもなかったという。内陸部には未だ山賊まがいの牧人もいたのだが、元気いっぱいの若者三人が駆け抜けた後には、すっかり姿を消す羽目になった。
煩う問題は、シチリアではなく首都ローマから持ち込まれた。来年の政務官選挙が始まったのだが、執政官を選ぶ段になって、なぜかもめにもめているらしかった。一席はマルクス・ロリウスで決まったが、もう一席を巡って候補者二人の陣営が乱闘沙汰になったという。彼らはアウグストゥスに帰国と仲裁を求めたが、拒否された。それで彼らのほうがシチリアまでやってきた。当然、アウグストゥスは二人──レピドゥスとシルバヌスを叱責し、首都にはこの二人がいないうちに選挙を終わらせてしまうようにと言い渡した。
せっかく第一人者が執政官二席を空けたのに、早速その人に裁定を求めてくるとは情けない話だ。シチリアを忙しく横断しながら、ティベリウスはため息をこぼした。
年が明けた(前二十一年)。執政官には結局ロリウスとレピドゥスが就任した。
シチリアの冬は穏やかだ。その分アウグストゥスもティベリウスも休まずに島を巡り、仕事に熱を入れた。
春が近づいた。第一人者による整備を聞きつけたのだろうか。待ちきれないとばかりに、各海港都市には産物を山と積んだ船が寄港した。例年を超えるにぎわいになるのは確実だ。おそらく西方全体が、飛躍的に豊かになる一年にもなるだろう。
三月になった。海が穏やかになり始めるとすぐに、継父はシラクサから船に乗った。ローマを越えて、向かうはギリシアだという。
結局この人は、西方から戻って、首都に二年も留まらなかったわけだ。ティベリウスは首都に戻るように言われた。アグリッパが帰国するので、彼を待つように、と。
その間、アウグストゥスの名で行う任務が一つ。
首都に戻ると、ティベリウスは中央広場に赴き、アウグストゥスからの布告を読み上げた。新兵募集の公示だ。元老院も市民も色めき立った。新兵の募集自体は毎年行われているが、今回は規模が違った。一個軍団の新設に近い数だ。しかも各軍団単位での募集ではなく、アウグストゥスの布告による。
「この募集の意図は何か?」広場で市民らが口々に質問した。「退役兵が大勢シチリアに入植したための補充である」とティベリウスは答えた。「彼らはどこへ行くのか?」との声には「配属は採用後に定められる」と応じた。
新兵候補が集まると、ティベリウスはその選抜試験の場に臨席した。そして入隊が決まった者たちを、今度はマルスの野の残り少なくなった空き地で訓練した。首都長官のスタティリウス・タウルス、それにメッサラ・コルヴィヌスにも同席を願い、自分の経験の少なさを補う助言を求めた。ピソとレントゥルスが元老院議員用トーガを脱ぎ捨てて訓練の監督役に名乗りを上げた。ファビウスとグネウスも木剣を手に加わった。ドルーススは新兵たちの先頭をきって広場を走り、槍を振りまわし馬を駆りと、大暴れ状態だった。「あいつが千人いればいいのになぁ」と他人事のようにつぶやいていたマルクスは、父親の手により激しい陣形訓練の只中へほうり投げられた。ルキリウスは、教師バルバトゥスが大はりきりで新兵をしごいていたので、始終ティベリウスの後ろに隠れていた。
若者たちが自らを鍛えているあいだ、それを見守る市民らは口々にささやきあった。
「布告ではああおっしゃっていたが、アウグストゥスはいよいよパルティア遠征に乗り出すつもりでは? シチリアから東方に向かわれたというではないか」
「しかしもうすぐマルクス・アグリッパが帰ってくるんだろう? ユリアと結婚させるために」
「えっ! ではまさか、アウグストゥス自らが軍を率いてパルティアへ?」
「やめてくれ。全滅するぞ」
「こりゃアグリッパがユリアをはらませ次第、すぐ前線にとんぼ返りするんじゃないかね?」
「そもそもあの人は引退していたんじゃなかったのか?」
「いや、それよりアウグストゥスは論外としても、アグリッパだから必ず勝つと言えるのか?」
「勝たなきゃならんだろうが! いつまでクラッススの軍旗をパルティアに留めておく気か。いい加減、恥を雪ぐ時だ!」
「ああ、戦争なんてもう勘弁してほしいんだけどな……」
「負けたらどうする? 三度も。下手したらローマの存亡に関わるぞ」
そういった問いないし不安は、ティベリウスに直接寄せられることもあった。
彼らの複雑な思いももっともであるのだ。クラッススの敗北から三十二年が過ぎた。軍旗もだが、捕虜の奪還に、もう一刻の猶予もない。一方で、クラッススとアントニウスも敗北したかのパルティアに、アグリッパならば必ず勝利するとは限らない。アグリッパは常勝不敗とされる。アントニウスをさえ最後は破った。しかし若い頃はフィリッピの野で潰走したことなどが、ないわけではない。いずれも彼ではなくアウグストゥスが指揮を執ったからで、アグリッパ一人が司令官だったときならば、まさに全勝しているのだが。
ともかく、やるからにはもう絶対に失敗が許されない遠征であるのだ。
しかし、そもそもエジプトから帰国後、アウグストゥスとアグリッパは膨れ上がったローマ軍を、大幅に削減したところだった。各地に入植が進んだのはそのためでもあった。
ティベリウスは継父の布告にある言葉をくり返すのみだった。それでもしつこい追及がなされなかったのは、ティベリウスが第一人者でもなく、その右腕である婿でもないため、そしていくら例年より多いとはいえ、パルティア遠征があるにしてはやはり小規模とするしかない募集であるためだったろう。
かつてアントニウスは、軍団兵六万に補助兵を加え、総勢十一万でユーフラテス川を越えたのだ。数ではパルティア勢を上まわったのだが、なおその三分の一を失うという惨事に終わった。
シチリア入植の補充が、やはりもっともな説明だ。
だがそうだとしたら、なぜ第一人者は東方へ行ったのだ?
「ネロ」
マルスの野での練兵中、ティベリウスは声をかけられた。振り向くや否や、ティベリウスは立ち上がった。
「ドミティウス・カルヴィヌス殿!」
かつて神君カエサルの首席副将であり、ティベリウスの実父の直属の上官だった人物だ。もう七十代半ばであるはずだが、元気そうだ。いく分痩せはしたものの、すらりと高い背丈も、泰然と余裕ある物腰も相変わらずだ。
ティベリウスは十年前、初めて従軍した際に、この人に大変世話になった。最近も、こっそり世界の果てまで行って戻るあいだ、口裏合わせを頼み込んだいきさつがあった。帰りが遅いのはあなたの別荘にお邪魔しているということにしてはくださらないか、と。
カンパーニア地方にあるその別荘で、カルヴィヌスは優雅な引退生活を楽しんでいるはずだった。此度は首都まで、久しぶりに様子を見に来てくれたらしい。
ティベリウスはしばらくカルヴィヌスと二人、新兵訓練を眺めながら話し込んでいた。兵の見極め方や適性、取り入れるべき訓練、有効な陣形、そして今後の育て方と、聞きたい話は尽きなかった。
「相変わらずだな、ネロ」と微笑んだカルヴィヌスの言葉に、ティベリウスは少し決まりが悪くなる。会えば礼儀もそこそこに、いつもしつこく質問攻めにした。
あれから十年が経った。
カルヴィヌスも同じことを考えていたらしい。さらに細めた目を、愉快げにティベリウスへ光らせた。
「いよいよだね」
「はい」
ティベリウスも笑みを浮かべ、右腰の短剣をそっと叩いた。
アグリッパが帰国したのは、六月だった。
「坊ちゃーーんっ!」
と、相変わらずの気さくさで抱きしめてから、つくづくと改めて未来の婿の姿を見た。
「また見違えたよ、ティベリウス」
アグリッパは、今度は落ち着いた微笑みを浮かべて言った。
「長くご無沙汰した。君はよくぞ耐え抜いた」
ティベリウスもまた微笑み返した。久しぶりにこの人に会うたび、目に熱いものがこみ上げかけるのはなんとかしなければならないと思った。鼻の奥までつんとした。それをごまかしたかったわけではないが、ティベリウスはもう一度自らアグリッパを抱擁した。二年ぶりでも、いつもと変わらないあたたかな腕の中だった。
ひとしきり腕に力を込め、この人の肩に顔をうずめたのは、感謝の気持ちを込めたからだった。
次に顔を上げると、アグリッパのいく分呆れたような笑顔が近くにあった。
「坊ちゃん、とうとうこのアグリッパの背丈まで追い抜きましたかな?」
「さぁ、どうでしょうか?」
ティベリウスはにやりと笑い返した。初めて会った時は、この人の腕に抱え上げられて、うれしがりながらスッブラの路地を行った。あれから十六年の時が流れた。
「ドルーススを見てあげてください。あれこそ驚異です。そのうえ毎日必ず私より食べるので、まだまだ伸びるのでしょうね」
この日、ティベリウスはアグリッパのために饗宴を開いたが、お互いにあまりのんびりともしていられなかった。まずはアグリッパとユリアの挙式だ。
結婚式はパラティーノの丘のカエサル邸で、主不在ながらも華やかに執り行われた。ユリアはまたいちだんと美しい花嫁姿を披露し、参列者たちを感嘆させた。彼女自身もまたうれしそうでいて、わけもわからず婚姻となった十三歳の日とは違うのだろう。新郎アグリッパがなにかささやくたび、弾けるような笑顔を浮かべて喜んでいた。ティベリウスもこんなユリアを見るのは初めてだった。
二人はクイリナーレの麓のアグリッパ邸で新しい暮らしを始めた。続いて数日と間を置かず、ユルスとマルケッラの結婚式も執り行われた。
次はティベリウスの番だ。すでにアグリッパとはよく話していた。六月末、新兵およそ四千人を連れて首都を出発した。元老院と市民には、マケドニア地方を進みながら、彼らを第一人者の下へ送り届けると説明した。
マケドニアの北、ドナウ川流域には、ローマ軍団八個が配備されている。新兵たちをそこへ配分することが、ティベリウスの任務であるように思われた。それ以上は軍の最高指揮権保持者である、アウグストゥスの説明を待たねばならない。
戦略上、今は公にできないのであれば、なおさらだ。
アッピア街道を南下し、ブリンディジから海路一日でギリシア本土に渡る。マケドニア属州のドゥラキウムからはエグナティア街道に乗り、ひたすら東進する。しかしその前に一つやるべき大切なことがある。
出発前、ドルーススは兄を差し置いて婚約者に愛を告げた。
「アントニア! 帰ってきたら結婚するぞ!」
「おーう!」
アントニアは拳を突き上げてドルーススを見送るのだった。お世辞にも色気があるとは言えなかったが、昔からのアントニアであり、昔からの二人だった。ティベリウスは苦笑しつつ、やはり二人を可愛らしいと思った。
ヴィプサーニアからは、また塗り直してもらった守り石を受け取った。今度は鮮やかな薔薇色ととろけるような黄色が、くるりと手を取り合って舞うように描かれていた。今まででいちばん美しい色合いだ。
「すまないな」石を握りしめるその一方で、我が身を省み、ティベリウスは詫びるしかなかった。「いつも君から頂戴してばかりだ。東方でなにか美しいものを買ってくる」
ヴィプサーニアは笑顔で首を振った。
「お元気でお戻りください! お父様とユリア様とお待ち申し上げています!」
元気な婚約者が戻っていた。
ティベリウスはヴィプサーニアと接吻を交わした。お互いの頬に、愛情を込めて。
生まれて以来待たせてきた。
「必ず戻る。帰ったら、結婚だ」




