第一章 -9
9
ティベリウスがヴィプサーニアとの約束を果たすべく出かけたのは、この三日後だった。午前の勉学が終わり、ドルーススほか大勢に冷やかされながら、家を出た。アグリッパの家の前に立つまでには、むくれ顔を平常に戻そうと努めた。
覚悟していたのだが、思いがけずマルクスはいなかった。父親のメッサラが、今日は午後いっぱいチルコ・マッシモに閉じ込めておくから心配しなくてよいと、微笑んで出迎えてくれた。「散歩先まで尾行する」心配らしい。ティベリウスはこの父子の信頼関係についてひととき思いを馳せた。
重要人物であるヴィプサーニアの実父も留守だった。今日は新しい水道を引く工事の現場に出かけているとのことだった。代わりに妻のマルケッラが、「娘をよろしく頼む、婿殿」という言伝てを預かっていた。そしてティベリウスが内心仰天したことに、彼女はお散歩の道中に二人で食べるようにと、パンと焼き菓子を用意してくれていた。
「パンはヴィプサーニアと一緒にこねたのよ」マルケッラの微笑みは、控えめながら得意げだった。
うろたえがちに、ティベリウスは礼を述べた。自分の気の利かさなさも恥ずかしかったが、マルケルスの姉妹から手料理を振舞われたことは、これまでになかったのだ。
「私だって、ヴィプサーニアのお母さんですからね」
七歳しか違わないのに、ついぞ見たことのない大人びた顔をするのだった。
マルケッラはこのところ幸せなようだ。結婚生活になじんできたということなのだろう。
あなたのことだから万一のことはないと思うが、くれぐれも私の可愛い娘を馬から落っことさないように、と小言まで言われながら、ティベリウスはアグリッパの家を出た。右手はヴィプサーニアの左手とつなぎ、左手には軽食入りの籠を持ち、いささか茫然とした顔で歩き出していた。ヴィプサーニアはひと際ご機嫌な様子で、しきりにつないだ手を振っていた。桃色と黄色の紐で巧みに編み上げられた髪の束も、うきうきと跳ねていた。二人の後ろには、ネロ家とアグリッパ家の奴隷が一人ずつ従った。それでもたった四人だけの散歩だ。
パラティーノの坂を下り、ヴェスタの神殿の横に出た。カストル神殿の列柱廊をくぐり、中央広場に東端から入る。いつもながら人でごった返している首都の中心部を、ティベリウスはヴィプサーニアが踏んづけられないようにすることだけ気をつけながら、できるだけ短い距離で横切る。途中、完成して間もないカエサル神殿の前を通る。先代カエサルを記念して、継父が奉献したものだ。神君の遺体はこの場所で火葬されたとのことだが、直後の大雨で遺灰はすべて流されてしまった。今はアクティウムの海から持ち帰ったという、黄金で縁どられた船首が神殿を飾っている。アウグストゥスと、ヴィプサーニアの父アグリッパの勝利の証だ。
ティベリウスの一行は、カピトリーノの丘を左手に、マルスの野を目指す。途中、これも最近完成した新しい元老院議事堂が右手にたたずむ。クリア・ユリアというその名の通り、これも継父が建てたものだ。さらにその先にカエサル広場が見えてくる。こちらは先代カエサルが手掛けていたものを、先ごろようやく継父が完成させたもので、その奥にはさらにアウグストゥスの広場も整備予定だという。実際の現場では、アグリッパが技師たちを率いて建設を進めている。
アウグストゥスとアグリッパによる首都の再開発は、およそ六年前に始まった。セクストゥス・ポンペイウスの軍を海上で破り、ローマ世界の西半分に敵対者がいなくなった時期である。その後エジプトとの戦争で一時中断されたが、ここ二年ほどはさらに勢いを増し、次々新しい施設が市民に提供されている。この先に広がるマルスの野は、かつて軍団兵の集合場所だったという事実が想像できなくなるほど、今は建物で埋められている。市民の数もそれだけ増えたということだ。
フラミニア街道に入ると、左手に完成間近のサエプタ・ユリアが現れる。投票場で、選挙がないときは見世物や商取引にも使わせる予定だそうだ。その奥には、大浴場と、なにかの立派な神殿もまた建設途中だ。ティベリウスが先日の競技会を主催したのは、そのさらに奥にある円形闘技場で、スタティリウス・タウルスが建てたものだ。アクティウムで陸軍を率いた彼は、アウグストゥスとアグリッパにとっての最も頼もしい仲間の一人だ。
一方アグリッパは、首都で手掛けた数多くの建物に、まだ自分の名を冠したことがない。すべての栄誉をユリウス・カエサル一族のものとして、もっぱら現場での仕事に没頭している。その働きは、目立った建物ばかりではなく、上下水道の整備・維持にも及ぶ。地下のクロアカ・マキシマは常に最良の状態で、首都の清潔を保つ。地上ではすでに開通しているユリア水道に加え、新しい水道も建設中だ。ティベリウスとヴィプサーニアは、もうすぐその工事現場の近くを通りかかる。
アグリッパの市民生活への貢献は計り知れない。建築の専門家というだけではない。当代最高のローマ将軍だ。セクストゥス・ポンペイウスとマルクス・アントニウスに勝利した。ゲルマニアやイリリアの諸部族も平定してきた。その功績から、これまで一度ならず認められてきた凱旋式挙行の権利を、彼はことごとく辞退してきた。ローマ男最高の栄誉を、アウグストゥスがぜひにと勧めてもなお受けなかったのだ。その謙虚さを、市民は讃えた。奢らず、飾らず、いつまでも気さくで庶民らしさを消さない姿を好んだ。元老院には、生まれが低いという理由でアグリッパを嫌う者もいるらしいが、彼の国家への尽力には文句のつけようもなかった。
戦争が終わってからもアグリッパは働き詰めだった。ティベリウスがときどき心配になるほどだが、会えばいつも陽気に「坊ちゃん! 婿殿! 今日もたくましく輝いておられますな!」と抱きしめてくれる、その姿がだれより幸福に輝いていた。そして国家と市民へ貢献する機会を与えてくれるアウグストゥスへ、いつだって感謝を惜しまないのだった。
ティベリウスは歩きながら、建設途中の水道を眺めていた。アグリッパの姿が見えるかと思ったが、それらしき人影は見えない。仕事中の父親を見れば、ヴィプサーニアが喜んで手を振るだろうに。思えばティベリウスは、途方もなく偉大なローマの中心人物の娘を連れ歩いていた。第一子である、大切なご令嬢だ。その婚約者なのだ。ヴィプサーニアもまた大変な父親を持ったものだ。
それでも今人の目のうるささをさほど感じないのは、父親のアグリッパが常に控え目で、ほとんど一市民として振舞っているからなのだろう。市民は彼の姿を見ないまま、どれだけ生活上の恩恵に与っていることだろう。
この水道が完成したら、建設途中の大浴場も完全に開業となる。その浴場には、ようやくアグリッパの名が冠される予定らしい。先日、家族のみを招いての試行で、アグリッパは始終照れたような笑みを浮かべていた。皆々様に楽しんでもらえるならうれしい。この場所が首都で暮らすすべて人の憩いの場になることを願っている、と話していた。
アグリッパはその浴場、それから水道と道路を整備する仕事の時が、最も幸せそうだ。
今日はもっと水源地に近いところまで出かけているのだろう。アグリッパが休まず公共の利益のために働く中、自分はのんきに散歩とはと、ティベリウスは申し訳ない気持ちになってきた。けれども今日はヴィプサーニアに報いたかった。
サエプタ・ユリアの端で、ネロ家の奴隷が馬を連れて待っていた。ティベリウスはまず自分が馬上の人となり、次にヴィプサーニアを奴隷の腕から引き継いだ。彼女を前に乗せると、柔らかい網状の帯で、自分の体と結んだ。万が一にも落馬させないためだ。馬のたてがみをつかむよう彼女に言って、いざ出発しようとしたとき、ふと階段脇の重装歩兵の像に気づいた。槍を手に直立不動で、珍しいことに目元ばかりか口元も兜で覆われていた。ローマ軍団兵よりはギリシア歩兵に似て見えたが、このような像が以前からここにあっただろうか。
「ティベリ様?」
くるりと頭を上向け、ヴィプサーニアが目をしばたたいてきた。目を合わせ、ティベリウスははたと我に返った。
「ああ、行こう」
そっと馬の腹を蹴った。人や荷馬車が盛んに通るフラミニア街道には乗らず、その脇の草原をごくゆっくり進めた。天気に恵まれてなによりだ。サエプタ・ユリアを過ぎれば、少しずつマルスの野がかつての姿を垣間見せはじめる。薄緑の草原に、きらきらと瞬くように野花が見える。そよ風も爽やかに春の盛りのにおいを運んでくる。形の定かでない、小さな虫が飛び交っている。草に隠れた小鳥の群れが、馬が近づくと一斉に飛び立つ。気ままな鳩が二羽、すまし顔ですれ違う。
ヴィプサーニアはしきりに頭を動かしていた。目に映る何物も新鮮で、つられてしまうようだった。たかが散歩で、それほど珍しいことをしているわけではないのにとティベリウスは思ったが、一輪のスイセンや、白い鳩や、墓に登るトカゲを見つけると、彼女は小さな指を伸ばし、ティベリウスを振り仰ぐのだった。ティベリウスも彼女につられて微笑んでいた。
ヴィプサーニアは口数の少ない子だった。少なくともティベリウスの知る女児や婦人方の中では。そうでありながらいつも明るく元気に見えるのだから不思議だ。にこにこと笑顔を惜しまないからかもしれない。今日もここまでなにをおしゃべりしてきたわけでもないが、とてもご機嫌で、楽しんでくれているのがわかるのだ。胸元で生き生き動くあたたかい存在は、ティベリウスの心を軽やかにした。すでに散歩に来られてよかったと思っていた。いったい道中はなにを話したらいいのやら見当もつかなかったが、ヴィプサーニアとは沈黙が苦にならない。というより沈黙が沈黙でなく、充実したまま、いつのまにやら軽やかに時が過ぎていく。そう気づく。
オベリスクの前まで来た。継父がエジプトから運んできたもので、このローマでは日時計の役割を果たしている。天気が良いので、影がくっきり見えた。ティベリウスとヴィプサーニアはそろってオベリスクの先端を見上げたが、陽光の中へと消え、果てしなく見えた。まぶしさに、二人は目をしかめて首を振った。それがお互いの真似に見えたので、くすくすと笑い合った。
それにしてもこれほど大層なものをどのように船に乗せ、どうやってここで立て直したのだろう。ティベリウスがそんなことを考えながら馬首を返すと、後ろの街道脇に、サエプタ・ユリアで見かけたものによく似た重装歩兵像がもう一体立っていた。これは先程からあっただろうか?
ティベリウスはとりあえずまたフラミニア街道に寄り添った。
フラミニア街道に限らず、ローマの道の両脇には墓石が並んでいる。まだ生者である市民たちは、遠慮もなくその上に尻を乗せて休んでいる。馬や驢馬にまたがる際に踏み台にする。時にカラスどもと一緒になって、お供え物の果物を拝借すらしている。その下の住人たちは、碑文からぼやく。
──またあなたですか。ここへ来たら覚えておきなさい。
──まあ、ゆっくりしていきなされ。いずれは君も来る場所だから。
──おならはやめろ。隣のメルクスの墓でやれ。女人の接吻ならば許可しよう。
この時期は、色とりどりの花も水差しに漬けられて並んでいて、なかなか壮観だった。それらを眺めながら、ティベリウスはヴィプサーニアが身をかしげて墓碑を読み上げようとするのを、転げ落ちないように支えていた。最近ようやくすらすら音読ができるようになったところだ。わからない単語は手伝った。
やがてまた馬を進めた。墓石たちに見送られながら、視野の彼方まで街道は伸びている。しかしオベリスクとその日時計の円を過ぎると、またごく最近完成したとある建造物に、目を引かれずにはおれない。
「ティベリ様」ヴィプサーニアの関心も当然引いた。「あちらはなんでしょうか?」
「あれは──」ティベリウスは言いよどんだ。「あれは霊廟……お墓のことだ」
「どなたのお墓でしょうか?」
「まだだれの墓でもない」ティベリウスは複雑な気持ちで答えるしかなかった。「カエサル・アウグストゥスが、自分とその家族のために造ったんだ」
そうであるから無論、これは継父の私的建造物であって、市民と分かち合うための施設ではない。完成は去年のことだ。巨大な円筒型のそれは、天にすっくと伸びる糸杉に囲われて、すでに荘厳なたたずまいである。
ティベリウスの正直な気持ちは、三十五歳にして自分の墓をこしらえるなど、縁起でもないからやめてほしい、というものだ。継父はそう遠くないうちに自分がこの墓に入る可能性を考えているのだろうか。ティベリウスは継父の最期など考えたくもない。まだまだずっと長生きしてほしい。しかしそれは、現実から目を背けているのだろうか。第一人者ともなれば、「いずれ必ず行く場所」のことを、早々に考えておかなければいけないのだろうか。
確かにしょっちゅう体調を崩して寝込む人だ。だがいつ永遠に起きなくなるかわからないほど深刻なのだろうか。継父に無理をさせないためならば、ティベリウスはなんでもする用意でいるのに。
継父はなぜ今──栄光の頂に立ったところの今──どうして自分の墓のことなど考えたのだろう。
第一人者のそれとはいえ、ローマで最も大きな墓所となった。無論、エジプトのピラミッドなどとは比較にもならない。だからだれかがこの霊廟を指差して、「アウグストゥスは王になるつもりか」と訊いたとしても、きっと一笑にふされる。そのぎりぎりの規模で造ったと言える。
けれどもやはり、この規模の墓はローマで異例だ。継父はなにを思い、どのような未来を考えて、これを造ったのだろう。ただの墓ならば、死後に公開される遺言状ででも指示すればいいのだ。
いずれ継父はすでに自分が死んだあとのことも考えている。自分とその家族が、将来ローマでどのようにあるべきか──。
「ティベリ様、あれはどなたもいらっしゃらないお墓なのですか?」
「そうだ」
「ヴィプサーニアのお母様は、お墓の下にいらっしゃいます」
「……ああ、そうだな」
それは、こことは別にあるアグリッパ家の墓所のことだ。
「お父様は、いつかそのお墓でお母様と並んで眠るのだとおっしゃっていました」
「そうか」
ヴィプサーニアの頭が霊廟を追っていたので、ティベリウスはまた馬の歩みを止めた。ヴィプサーニアはティベリウスを見上げてきた。
「ティベリ様、ティベリ様はあのお墓に行かれるのですか?」
一瞬、言葉の意味がわからなかった。わかったあとも、ティベリウスはしばし言葉に詰まった。
ヴィプサーニアの目は、ひどく真剣だった。
「……そうはならない」ティベリウスはなんとか答えた。「ここはカエサル家の墓だ。私が入るのはネロ家の墓だ。私の父も祖父も、そこで眠っている。仕えてくれた奴隷たちも。だから私も、死んだらそこで眠る」
自分の死など、今のティベリウスには想像もできない。父ネロの死も、長年世話になった奴隷トオンの死も経験していながら、ともすれば身の周りから姿をくらます。実感することない長い時間の果てまで遠ざかっているというふりをする。死とは、いつでも影のごとく決して離れず、ぴたりと寄り添っているはずの現実であるのに。
そうとでも考えなければ、人は耐えておれないのかもしれない。必然の、自分の死という恐怖に。
「ティベリ様」ヴィプサーニアはなおいっそう真剣だった。「ヴィプサーニアもティベリ様のお墓に入るのですか?」
ティベリウスは、今度は仰天して、あわや落馬するところだった。だが当然だ。婚約者なのだから、そうなればそうなって当然だ。それはそうだ……。
けれどもそこでヴィプサーニアのまなざしを見つめ返した。六歳の問いは、悲愴だった。ティベリウスの胸が痛んだ。
「……お母上のそばで眠りたいよな」ティベリウスはうなずいた。「同じお墓に入って、もう一度お会いしたいよな」
「……いえ、きっとだいじょうぶです」ヴィプサーニアは力を込めて言った。「冥王様のお国は一つです。ヴィプサーニアはいつでもお母様のところへ会いにいけます」
ティベリウスは言葉が出なかった。そのマントの首元を、ヴィプサーニアはぎゅっとつかんだ。
「でも、ティベリ様はお墓の下に行かないで。ぜったいに、ヴィプサーニアより早くお墓に行かないで。ずっと、いっぱい、生きてください……。それから、ずっと一緒に……お父様とお母様みたいに……」
ティベリウスは思わず六歳を抱き寄せていた。ヴィプサーニアは涙をこぼしそうだった。
「ヴィプサーニア、私は死なない」
無責任な約束だと知っていた。けれどもヴィプサーニアにはなにも心配しないでほしかった。
「だからお墓のことなど今は考えなくていい。考えなくていいが……そうだな……その、君が望むなら……もちろん、一緒のお墓で眠ろう──」
だれかが鼻をすするような音がした。ヴィプサーニアはぱっと顔を輝かせていたので、違うはずだ。振り返ったが、奴隷たちは少し声を張らなければ聞こえない程度には離れたところにいた。ティベリウスは奇妙に思って眉をしかめたが、うれしがるヴィプサーニアを見て、気にしないことにした。空の霊廟から離れ、もう寄り道せずに花々の群生地に向かおうと決めた。
糸杉のあいだに、また前とそっくりな重装歩兵の像が立っていた。継父はどういう意味があって、この像を置いたのだろう。このごろのローマの流行りなのだろうか。
フラミニア街道を外れ、草原を北東に進んだ。ルキリウスの言っていたアネモネの群生地を見つけ、そこで二人は馬を下りた。マルスの野の果てで、かの神に殺されたアドニスの化身が赤く咲き乱れている。神話のとおりならばひどく残酷であるのだが、確かに見事な景色だった。ヴィプサーニアも楽しそうに、ティベリウスの手を引いて歩いた。
しかしアネモネは、茎に毒があることでも知られていた。指がかぶれてしまうのだ。したがって二人は、目の楽しみをひと段落させて後、花摘みの楽しみを近くのカタバミの群生に移した。ティベリウスは胸中でグネウス・ピソにも感謝した。
草原に直に座り、二人はマルケッラの手になる軽食を食べた。ティベリウスはパンをこねたヴィプサーニアのために、味と食感を褒めるのを忘れなかった。実際に、噛むほどに甘みが増す、素朴でおいしい生地に仕上がっていた。
それからヴィプサーニアはしばし花束作りに夢中になった。冠は難しかったようだが、ティベリウスのために腕輪を作ってくれた。また、カタバミによく似ているというツメクサの四つ葉も探した。父親の部下であるガリア人によれば、それは幸運の象徴であるらしい。見つからないかと思われたが、重装歩兵の像がなぜか転がっていて、あわや二人はつまずいてしまうところだったが、その指先にちょうどそれが芽吹いていた。ヴィプサーニアは喜んで、これもティベリウスに送ると言った。「お好きなご本に挟んでください」と。曰く、そうすると四つ葉と書物のどちらをも長持ちさせる効果があるらしい。ティベリウスは気持ちだけ受け取るとして、これを辞退した。すでに腕輪を頂戴した。これは君の手柄であるし、君の幸運にしてほしい、と。
しばし譲り合った後、二人は書物を一巻共有することとした。ひとまずはヴィプサーニアの家にある書物に挟めておき、また後日、今度は二人で書店に行ってみようか、と。
ヴィプサーニアはそれで満足した様子だった。四つ葉を大事そうに布にくるんだ。ティベリウスもせっかくの草花の腕輪を、なんとか保存する方法はないかと考えていた。上手く乾燥させれば可能だろうか。
帰り道、日時計は東に長い影を伸ばしていた。その横を行く馬上で、ヴィプサーニアはうとうとと舟を漕ぎ始めた。奴隷が先行し、サエプタ・ユリアの前で輿を用意して待っていた。ティベリウスは非常に慎重に、ヴィプサーニアを抱えて馬を下りた。輿の中にそっと横たえたが、ヴィプサーニアはすっかり眠ったまま、ティベリウスのマントを離そうとしなかった。ティベリウスはそのまま輿の傍らを歩いて、パラティーノの坂を上った。アグリッパの家に戻ると、マントを脱いで、それでヴィプサーニアを包み、輿からまた非常に慎重に降ろした。乳母の手に渡すか、それとも寝室に運ぶべきか、ひととき迷っていると、中庭から重装歩兵が歩いてきて、ヴィプサーニアをとても優しく引き継いだ。ガチャリ、ガチャリと甲冑をきしらせながら。
「坊ちゃん、ありがとう」
と、その重装歩兵は言った。