第一章 -10
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マルケルスの誕生日の翌日が、彼とティベリウスが共に過ごす一日となった。その日の午後、ちょうどアウグストゥスがマエケナスのところへ相談に出かけることになったので、同行させてもらえることになったのである。三人はその夜をマエケナス邸で明かす。
誕生日の夕べは、友人たちを招いてのにぎやかな宴が催された。カエサル家ばかりでなく首都じゅうが、明るい祝いの雰囲気に満ちた。第一人者の血を引くただ一人の男子は、健やかに育っていた。肉体はややほっそりとしているが、申し分なく美しい。そのうえ性格も素直で優しく、だれにでも惜しみなく気さくな笑顔を向ける。マルケルスは大いに市民の人気を得ていた。けれどもその翌日は、彼らの人気者であることを休み、愛される息子であり兄である立場も置いて、ティベリウスとの静かなひとときを希望した。
そうはいっても午前は、いつもどおりカエサル家での勉学となった。けれどもマルケルスはティベリウスの隣の席をしかと用意し、そこから動かなかった。教師ネストルは、二人のために特別な授業をした。
昼には、それぞれの弟妹たちに暇を告げて、マエケナス邸に出かけた。市内では、健康に問題がなければ基本的に婦人以外は輿を使わないので、徒歩でエスクィリーノの丘まで行く。アウグストゥスは執政官であるので、その行くところ先導警吏が十二人も従う。道中の護衛要らずではあるが、傍目には大仰に見えても仕方がない。ティベリウスとマルケルスは、アウグストゥスのすぐ後ろを歩きながら、時々苦笑を交わした。それでもマルケルスはうれしそうで、叔父とにこやかに会話したり、エスクィリーノの坂に差し掛かるころには、ティベリウスと手をつないでぶんぶん振ったりした。ヴィプサーニアと変わらない様子に、ティベリウスは微苦笑するしかなかった。
途中で、坂を下ってくる輿とすれ違った。担ぎ手たちは、執政官一行にひざまずいて道を譲った。
「おや、見覚えのある奴隷だな」歩みを止めないまま、アウグストゥスがつぶやいた。「マエケナスのところの客人が、二日酔いかなにかで帰れなくなったか」
輿の中は垂れ幕に隠れて見えなかったが、ティベリウスは目の端で一瞬黄色い光がきらめいた気がした。マルケルスと先導警吏に囲まれていたので、黙って歩き続けたが。
マエケナス邸に到着すると、若い二人はまず当主に挨拶と、一夜の寝床を拝借する礼を述べた。マエケナスはアウグストゥスより十一歳年上で、四十七歳である。富豪であるためでもあろうが、ローマ男ではほかに見ることがない奇抜な服装をすることで有名だ。この日は、あわや肉体が透けて見えそうな薄い絹地のトゥニカを重ね着して、裾に繊細な刺繡の段を作り、孔雀の羽を思わせるエメラルド色を基調としたトーガを、纏うというより軽く羽織っていた。その縁からは房飾りがいくつも垂れて揺れ、本当にトーガなのかも疑わしい。黄金の輪が輝く指の先は、鮮烈な紅に着色されている。編み上げサンダルの下の足爪も同様だ。
夫がこの姿であるので、その若い妻も負けていられるわけがない。夫の富を惜しみもなく自身を着飾ることに投入することで有名だ。しかし彼女の贅沢など、マエケナスには可愛いものなのだろう。
テレンティアの髪や首や指を飾る装飾品にどれほどの価値があるのか、ティベリウスにもマルケルスにもわかりかねたが、とりあえずぽかんと立ちつくすには十分だった。もう三十歳にはなっていると思われるが、やはり美しい。豊かで艶めく黒髪に、白い肌、青い瞳は、このうえもなく魅力的な組み合わせだ。ぎっしりとして、かつ長い睫毛は、ほかに例を見ないとさえ思える。ちょこんと小さい唇がまた可愛らしいのだが、必要以上に濃い化粧を施しているために、いく分損をしているだろう。服装は、まず華奢な肩が剥き出しだ。その下では、胸元を強調して腰を絞るというほかの女人もよくやる工夫をしているが、さらに腰からは透けるような絹地をやはり重ね、ほとんど太腿を見せていた。宴席に招かれる踊り子よりも上品を心掛けながら、結果奇抜になり、今はただ立っているだけだからいいものを、足を曲げて座るとか、臥台にでも伏したらどうなるのか。場所が場所なだけに、体育場に出現する女子たちよりも大胆である。
アウグストゥスはテレンティアに会えてうれしそうだった。幸いにしてティベリウスとマルケルスは、これから邸内を自由に過ごしても良いとされた。
アウグストゥスはマエケナスとテレンティアに連れられて邸内に消えた。若い二人は、ひとまず休息時間となった先導警吏の一人が剣の稽古をつけてくれるというので、しばし庭園の一隅で木剣を振るった。いつもの肉体鍛錬とほとんど変わらなかったが、マルケルスはティベリウスと何本も手合わせができて満足な様子だった。なかなか一本を取れずに悔しがってもいたが、実のところは喜んでいるように見えた。
マルケルスの筋は良いと、先導警吏も言う。ただ彼は、おそらくティベリウスを倒したいと、本気で思ってはいない。心優しいためでもあり、腕力で他者を凌駕することに強い意味を見出せないでいるためでもあるのだろう。
だが「ティベリウスを守る」と彼が言っているように、もしもだれかがティベリウスを脅かした場合、マルケルスは全力でその腕を振るうだろう。問題は、いざそのような場面で、彼が冷静に武器を構えられるかだ。彼の愛する者が危険に見舞われたとき、簡単にわが身を危険にさらしはしないか。そうした事態にならないように、ティベリウスはそもそもマルケルスに力負けするつもりはない。当然のことだ。
しかしそこへ、彼らの声を聞きつけたマエケナスの詩人たちが現れた。ホラティウスをはじめとする、ローマ芸術文化の第一線を担う男たち。よく見れば、彼らの後ろに隠れるようにして、ヴェルギリウスもいる。詩人ばかりではない。歴史など各分野の学者もいる。先日ホラティウスに同行していたムレナとカエピオの姿もある。
彼らがそろってマルケルスを応援したので、ティベリウスは多少のやりにくさを感じた。マルケルスが立て続けに負けているので、どうしても応援したくなるのだ。しかしティベリウスは、昔の苦い経験があり、手加減してはいけないと知っていた。さらに俊敏に動いて、次の一本も取った。詩人たちのため息が聞こえた。
「たいしたものだな、ティベリウス・ネロ」
ティベリウスの肩を持つ発言をしたのは、ファンニウス・カエピオ一人だった。黒髪の奥で両眼を底光りさせながら、彼はにやりと笑っていた。
「この圧力をものともしないどころか、一顧だにしない」
「彼は嘘がつけないんだ。誇り高すぎて」そう指摘したのは、ムレナだった。
「ちょっとくらい譲るべきだ」とつぶやく者もいた。「本気を出したマルケルスとは、こんなものではない。黄金の右腕よ。その真の力を今はまだ隠しているな」と。
「マルケルスよ、よろしければ、今度はこの私の相手をしてはもらえまいか」
進み出てきたのは、意外にもホラティウスだった。
「こう見えても私は、昔は戦場に出たこともあったんだよ」
それは、ティベリウスも噂に聞いたことがあった。十五年前、ホラティウスはギリシアのフィリッピの野にいた。当時のアウグストゥスの陣営にいたのではない。神君カエサル暗殺の首謀者マルクス・ブルートゥスの友人として、軍団副官を務めていたという。
今となっては信じ難いことだ。
マルケルスはにっこりとティベリウスの右腕を抱えた。
「ありがとうございます。でも遠慮させてください。今日はぼくとティベリウスの一日なので」
それから二人は稽古を切り上げて、庭園内の散策に出かけた。邪魔者のいないところへ退避したのだが、いったい何人の奴隷が日々腕によりをかけて手入れをしているのだろう。五月の花々は、まだ盛りを終えない。緑も鮮やかで、歩いているだけで体の中が澄みきっていくようだ。静かな森のような世界には、ところどころにクピドやニンフの石像が置かれ、首都の喧騒を忘れさせる。小鳥のさえずりは幸福そうで、ウサギのような小動物も、好奇心に駆られてか茂みから顔を覗かせる。緑の奥は鬱蒼として見えず、楽園がどこまでも果てなく続いていそうだ。いつまでも歩いていたいと思わせる一方、そのまま永遠に神話世界の住人となってしまいそうな、ひそやかな誘惑の気配が立ち込めている。
「ティベリウス、早く来て!」
マルケルスはわざと先を行って、ティベリウスに追いかけてもらいたがった。ティベリウスは微笑みながら、普通どおりに歩いた。
「もうっ、ぼくが迷子になったらどうするの?」
「マルケルス、個人の庭で迷子になるなんて話は聞いたことがない」
「ここならあり得るでしょ。ぼくが見えなくなってもいいの? いなくなっちゃうかもよ?」
「そんなことにはならないよ」
「ティベリウスってば!」
マルケルスは地団太を踏んでみせたが、この類の遊びに上手く合わせてくれない相棒の性質のことは、彼もわかってはいる。わかっているので、好きなだけ挑む。駄々をこねて楽しむ。妹たちには絶対に見せない姿だ。
「いなくなっちゃうからね」彼は言い張った。「あとで血眼になって探しても、遅いんだからね」
「わかった、わかった」
「わかってないでしょ! ほらっ、そこの茂みから猪が飛び出してきて、ぼくをはねるかもしれないよ?」
「猪がいるのか? この庭に?」
「ちょっと前に叔父上が同じ目に遭ったでしょ。お散歩中に猪が走ってきて、びっくりした奴隷に突き飛ばされちゃった」
「それは確か場所がカエサル庭園だっただろう」
カエサル庭園は、先代カエサルがティベリス川の西岸に造った公共公園である。幸い怪我がなかったので、アウグストゥスはその奴隷を責めることなく笑い話にしていたが、確かにあわやという事件だった。
わあっ、とマルケルスがとたんに声を上げたので、ようやくティベリウスは足を速める。すると視界がしばし真っ白になる。森を抜け、次にティベリウスの目に移ったものは、無数の黄金の輝きだった。邸宅のプールが、午後の強い日差しを映して、世界一豪奢な湯船となっていた。
マルケルスもまた日差しに目がくらみ、さらにプールへ転がり落ちそうになったのだ。
なんとか体勢を立て直してから、マルケルスは後着したティベリウスに飛びついた。すると思いがけず傍らから声がした。
「やあ、マルケルスとネロ」
絡み合ったまま、二人は振り向いた。四十歳くらいの男が一人、木々の日陰を選んで椅子に腰かけていた。小ぶりな卓も運んできたようで、そこに羊皮紙を広げている。ペンは男の右手の中だ。
「こ、こんにちは!」
二人はお互いから離れ、彼に挨拶をした。知っている人物だった。アウグストゥスの友人で、名をプロクレイウスといった。
「お邪魔をいたしました」マルケルスが詫びた。
「いいや」プロクレイウスは微笑んだ。「君たちに会えてうれしいよ。少し見ないうちにそろってたくましくなった。カエサルも誇らしかろう」
二人は礼を述べた。プロクレイウスは三年前、エジプトのアレクサンドリアまで、アウグストゥスの相談役として従軍していた。その分別と教養の高さは、敵側のアントニウスとクレオパトラにさえ信を置かれていた。
「お仕事中でしたか?」
マルケルスが控えめに尋ねた。
「……いいや」プロクレイウスはため息交じりに首を振った。「これは私信だよ、一応。コルネリウス・ガルスへのね」
ティベリウスとマルケルスは顔を見合わせた。しかしそれ以上の言葉がなくとも、どちらも事情は察せられた。三年前のアレクサンドリアで、プロクレイウスは落城寸前の王宮に一人赴いた。海上で艦隊を率いていたガルスと王宮内の港で合流し、二人で女王の説得に当たったという。というのも女王は霊廟に立てこもり、数多の財宝を背に最後の抵抗を試みていた。その膝上には、絶命したばかりのアントニウスがいたとされる。
ティベリウスが王宮を出てまもなくの出来事だったという。
女王は財宝に火をかけて自分も死ぬと脅していた。しかしプロクレイウスとガルスが一計を案じ、隙をついて女王を捕えることに成功した。
つまりプロクレイウスは、ガルスと盟友であったのだ。
「君たちも聞いたかもしれないが、このごろのガルスの評判はひどい」指先でペンをまわしながら、プロクレイウスは難しい顔をして言った。「だからとにもかくにも、自分で弁解の手紙を書くように、彼に勧めるつもりだ」
「ヴェルギリウス殿も、彼を心配していました」
マルケルスの言葉にプロクレイウスはうなずいたが、どうもかの詩人ほどには、ガルスを熱烈に弁護したいわけではなさそうだった。
「まぁ、きっと彼にも言い分があろう。誇張や誤解もあろう……」
そうは言うのだが、おそらくはヴェルギリウスとは違うガルスの一面に思いを馳せているのだろう。さもありなんと考えているように、ティベリウスには見えさえした。だからといってこの状況を黙って捨て置くのも無情だと思い、ペンを執るのだろう。手ずから言葉を綴るのだろう。
ばしゃんと大きな水音がした。三人が目を向けると、プールの反対側に波紋が広がって、なにかが水中を移動していた。それは見る見る近づいてきて、たちまち彼らの足元へ水をあふれさせた。
ティベリウスは前にもこのような眺めを見たことがある気がした。そうだ、アレクサンドリアの王宮にいたときだ……。
新たな波紋の中から現れたのは、若きエジプトの王ではなく、麗しきテレンティアだった。
「やあ、妹」
と、プロクレイウスは慣れた様子で声をかけた。それを聞き咎めた若い二人に、彼は首をすくめて教えた。
「ああ、知らなかったかい? テレンティアとその兄は、私の異父弟妹なんだ。それで、どうした、妹? 君の偉大なるお守役お二方は、もうへたばってしまったのかい?」
「つまらないのよ」
テレンティアは赤い唇を尖らせた。頬も上気しているようにさえ見えるのは、プールに温水が引かれているためなのだろう。
「マエケナスもカエサルも、二人してよくわからない話ばっかり。このあたしをなんだと思っているのかしら? あたしよりゲルマニア人のほうが美しいとでも思っているのかしら? ただ金髪だっていうだけで」
「ゲルマニア人? 二人は彼らの話をしていたのかい?」
「ヒスパニア人もよ。あんな毛むくじゃらな野蛮人のどこがいいのかしら? やつらは絶対にお風呂にさえ入ったことがないわ。あんな連中と接吻して、なにが楽しいのかしら。どうしてもっとあたしのことを考えないのかしら?」
テレンティアは相変わらずだった。それでも濡れた黒髪を首筋に張りつけた姿に、美は確かにあるにはあるのだ。
プールの縁に両腕を置き、テレンティアはなにやらご不満げに男どもをねめ上げていた。引き上げてほしいのだと気づくまでに、若い二人はしばし時間を要した。それから無言の相談を目線で交わし、公平にお互い片腕を差し出すことにした。
右手をティベリウスに、左手をマルケルスに引かれ、階段をよろめかずに、テレンティアは水から上がった。その瞬間、胸と腰にごく薄手の布を巻いただけの肉体が露わになり、しかもその布ときたら水に濡れてほとんど意味を成していなかったので、ティベリウスは強烈なめまいを覚えた。
一瞬のことだったはずだ。テレンティアは彼らに礼も言わずにさっさと邸宅のほうへ歩いていった。その前では、いつのまにやら詩人たちがまた集まり、口々に彼女によくわからない喝采を送っていた。
ホラティウスが言ったとおり、『テレンティア親衛隊』と名乗るのが、彼らの真実なのかもしれない。




