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第一章 -11



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 結局その後、ティベリウスとマルケルスもプールで水浴した。言い訳であろうが、これも訓練の一環だ。昔からローマ人は金槌であることで有名なのだが、二人ともほかでもないアウグストゥスから水泳を習っていた。二十代の頃の継父は、海上での戦闘を余儀なくされる日々が続き、必要に駆られて泳ぎを習得した。ほとんど唯一の得意な運動だ。それで夏にカンパーニア地方の別荘に滞在する機会があると、子どもたちにはりきって教えるのだ。

 詩人たちの多くは、邸宅の露台に椅子や臥台を並べてくつろぎ、マルケルスをうっとりと眺めていた。彼らがギリシア文化を愛するならば、少年の美も愛好の対象だ。マルケルスであれば、肉体のみずみずしさと顔立ちの愛らしさともに、目を楽しませてくれるというわけだろう。ヴェルギリウスだけはプロクレイウスの隣にうずくまり、深刻な顔をしてぼそぼそと話し合っている様子だった。

 夕刻、邸内に引き上げ、二人は壁際の長椅子に並んで腰かけた。これから夕食となるが、マルケルスはティベリウスの肩をむき出しにしてから、そこに頭を乗せてうとうとしはじめた。あたたかくて気持ちが良いと、すでにはっきりとしない口調でつぶやいていた。ティベリウスはぼんやりと外を眺めていた。庭園が夕日を浴びて赤々と染まる景色に、ふとまたなにかを思い出しそうになった。

 そうだ、少し前まで、こんな景色をまともに見ることができなかったはずだ、ぼくは……。

 そのとき、名前を呼ばれた。ティベリウスが振り向くと、マエケナスの執事らしき男が扉の前に立っていた。

 二人はマエケナスによる晩餐に招待された。

 ティベリウスは緊張感を覚えた。マルケルスをゆすり起こしたが、彼もまた目をこする必要もなく覚醒した。

 ティベリウスに関しては、友人宅での集まりを別とすれば、正式の晩餐の客となるのが初めてだった。成人して半月、いよいよ宴に一人前のローマ人として席を設けられる。しかもマエケナスの客となるのだ。

 マルケルスに関しては、ティベリウスより半年早く成人しているので、初めてではない。叔父アウグストゥスに連れられ、どこかの元老院議員宅でもてなされたことがあるはずだ。しかしティベリウスの背中を軽く叩き、「大丈夫、大丈夫だよ」と言いながら、明らかに彼も緊張していた。別段マエケナスは気難しい主人ではないのだが、やはりローマで知らぬ者はいない富豪であり、アウグストゥスのかけがえのない顧問であるという格を、意識せずにはおれない。それに言わずもがな、風変わりな人だ。いったいどんな晩餐になるのだろう。

 半日遊び惚けていた二人は、そろってもはや大人たる振る舞いを求められている現実に思い至り、決まり悪がる顔を見合わせた。

 しかしいざ晩餐会場に足を踏み入れると、ティベリウスは思いがけず別の緊張感を抱くことになった。

 まず入って正面の主賓席に、アウグストゥスがいた。それは当然としても、その左隣にいるのはアグリッパだった。執政官が二人とも臨席とは途方もない。それにしてもいつのまに来ていたのだろう。彼がにっこり笑って手を振ってきたときだけ、ティベリウスは緊張を忘れた。マルケルスは顔を曇らせていたが。

 アグリッパの隣にいるのは、彼より二十歳は年上に見える知らない人物だった。だがその鋭い眼光と深い皺の刻まれた浅黒い肌から、武人ではないかとティベリウスは思った。横の二人が執政官でなければ、この場の最年長である彼が主賓席に横臥していただろう。

 マエケナスが主人役の席にいた。その隣には、テレンティアがまた新しい布を体に絡めて横たわっていた。場は華やぐのだが、ティベリウスはひっそり眉根を寄せた。さらにその隣には、彼女と同じ豊かな黒髪と青い目の持ち主がいて、一目で兄弟だとわかった。三十代前半に見える。アウグストゥスも美男であるが、この青年もまた負けず劣らずの美貌で、しかもたくましい体つきをしている。

 残る三台目の臥台にはプロクレイウスがいて、ティベリウスとマルケルスは彼と肘を並べることになった。けれどもまずは挨拶からだ。

 マエケナスが紹介した。テレンティアの実兄アウルス・テレンティウス・ヴァッロ、そして武人らしき人物はガイウス・アンティスティウス・ヴェトスで、三年前のエジプト進軍の際は、マエケナスとともに首都に残り、補欠執政官として采配を振るったという。

「君のお父上を存じ上げている」と、アンティスティウスは思いがけずティベリウスに声をかけてきた。「共にユリウス・カエサルの下で働いた。お父上が財務官になった二年後に、私も同じ職に就いた。赴任先はシリアだったがね。その少し前まで、ドミティウス・カルヴィヌス将軍が治めていた」

 ティベリウスは当時父ネロの上官だったカルヴィヌスに、個人的にも懇意にさせてもらっていた。アンティスティウスにも父が大変お世話になったと礼を述べたが、アウグストゥスがにやにやしながら口を挟んできた。

「でもアンティスティウス、あなたはフィリッピの野では、私たちの側にいてくれませんでしたね」

 この揶揄に、アンティスティウスは首をすくめた。

「当時いた場所が悪かったのだ。しつこく頼まれてね」

 それからアグリッパが、少し苦笑交じりに、自分も色々学ばせてもらった武人だとして、アンティスティウスの歴史を話した。アルプスの山岳部族サラッシに対する勝利、それからガリアの平穏な統治──。

 そのあいだティベリウスは、このアンティスティウスとアグリッパがここに来ている意味を考えていた。

「今日はとても有益なお話を聞かせてもらいましたよ」

 柔らかな調子で、ヴァッロがアンティスティウスに言った。つまりは午後のうちに、彼らの会合は済んでいるということなのだ。通例、晩餐の場では政治や軍事の話はしない。仕事から離れ、哲学談議などに華を咲かせることになっている。

 しかし実際のところはどうなのだろう。

 ヴァッロのほうはまだ若く、公的な活躍の場はこれからとなるのだろう。けれども彼が今この晩餐と、その前の非公式の会合に同席したのは、テレンティアの兄であるという理由ばかりではなさそうだ。アウグストゥス、アグリッパ、そしてマエケナスという、今このときのローマを動かす中心人物たちが、そろって彼に注目している。思えば窒息しかねない重さの期待であるが、ヴァッロは甘い目元口元をさらにほころばせて話し、くつろいでいる様子だった。それはこの場に無自覚だからではなく、すでに日々の修練に裏打ちされた自信を備えているためなのだろう。なかなかに肝の据わった男のようだ。妹のテレンティアと同じく、異性を虜にするであろう美貌もさることながら。

「葡萄酒をどうぞ、若き大人たち」マエケナスがティベリウスとマルケルスに勧め、それからアウグストゥスへ片目を閉じてみせた。「大丈夫、わからないくらい薄めるよ。君のと同じくらい」

「君とテレンティアがこのごろ凝っているという、妙な薬草の類も入れないでくれよ」と、アウグストゥスは自分の杯を振った。「ホラティウスの詩に書いてあるような、魔女の秘薬みたいな」

「ちょっと、だれが魔女になるの?」とテレンティアがむくれる。

「はいはい、君は魔女よりも恐るべきなにかだ」マエケナスがすかさず妻をなだめた。「無論、彼女らのだれより美しいがね。ところで悪いね、若き大人諸君。せっかくだからシリアの踊り子たちでも呼ぼうと思ったんだが、この麗しき我が妻がいる席でのそんな余興は、血を見るからね。皆殺しにされでもしたら気の毒だ。世界の損失だ」

「マエケナス」ヴァッロが笑った。「我々はあなた方夫婦の睦まじい喧嘩こそ最大の余興と信じて、ここで待っているのですが」

「いまいましい弟め」妻の頭越しに、マエケナスはじっとりと義弟をにらんだ。「妹をぼくに押しやり、自分はもう他人事だ。だれよりも内実をわかっているくせにな。おかげでぼくは、今日も酒と薬草で自分を寝かしつけるんだ。この子のあとで」

 それからマエケナスは手を叩いて合図し、見世物の代わりに隣室で音楽を演奏させた。これだけでもカエサル邸ではまずめったにやらないことだ。少なくとも雰囲気のうえでは優雅な宴になった。

 しかしこの集まりにおける本当の話題は、もう済んでしまったのだろう。

 必ずしもそうではなかった。宴がお開きとなり、マエケナスがなだめながらテレンティアを寝室に下がらせた。プロクレイウスも退出すると、その空席にアウグストゥスがおもむろに腰を下ろした。若い二人は背筋を伸ばして座り直した。

「さて、マルケルス、ティベリウス」

「はい」

 アウグストゥスの目は穏やかだが、若い二人とも知っていた。これは重要な話を始める時の落ち着きだ。アウグストゥスは宴で少しも酔った様子がなかった。

「実はこの宴の前に、我々は話し合った。少し早いが、来年お前たちを軍務に就かせたいと思う。軍団副官として」

「はい」

 確かに少し早いが、予測はされていたことだった。二人は力強くうなずいた。

「つまり、今年じゅうにローマを出立することになる。情勢を見ながらだが、八月で考えている」

「はい」

 二人とも戦争は嫌いだ。以前の従軍のときのような悲惨を、二度と見たくはなかった。辛い思いも御免だ。しかし将来ローマを担う男になるのなら、そしてアウグストゥスを助ける男になるのなら、避けるべきではない道だ。

 それに、従軍ではなく正式に軍団の一員として任務に就くのだ。以前よりもできることがあるはずだ。もう無力な子どもの立場に耐えなくてもいいはずだ。

 四年の歳月は、若い二人をもう一度奮い立たせることができた。

「叔父上、我々の任地はどちらになるのですか?」

 とても引き締めた顔つきで、マルケルスが叔父に尋ねた。それからはっと顔色を変えた。

「まさか、エジプトですか?」

「いや、それは違う」叔父は苦笑で応えた。「さすがにそれはない。此度は西方だ」

「ティベリウスも?」

「もちろんだ」

 マルケルスは大きな安堵の息をついた。一瞬であれ、世界の両端に引き裂かれた自分とティベリウスを想像したに違いなかった。ティベリウスも喜ばしく思った。西方は初めての土地だ。まだ見たことがないたくさんのものを見ることができるに違いない。

 ガリア、ヒスパニア、そしてゲルマニア──陸続きである分、ローマの防衛のために最重要の土地だ。

「まずは私と一緒にガリアへ行く。それからアルプスの山岳民族を警戒しなければならないが、さらに西に向かうつもりだ。翌春には、ピレネー山脈を越えている。そう、お前たちの初陣は、ヒスパニアになるんだ」

 ヒスパニア。

 ティベリウスとマルケルスは目線を交わした。お互いの目に同じ意思を見て取ったに違いない。望むところである、と。

「ローマの剣マルクス・マルケルスと風雲児ガイウス・ネロの帰還というわけだね」

 テレンティアを置いて戻ってきたマエケナスが、微笑んで言った。

 もちろん、若い二人とも知っていた。互いの高名な祖先は、ハンニバル率いるカルタゴ軍を相手に激闘をくり広げた。上官と部下として出た戦場もあった。国家存亡の危機に耐えた記憶を、ローマ人は忘れはしない。

「私の初陣もヒスパニアだった」

 なつかしそうな笑みを浮かべながら、アウグストゥスは臥台の向こう側にいる旧友を見た。アグリッパもまた同じ顔を返したが、少し苦笑に見えた。

「ああ、よく覚えているよ。君は今にも倒れんばかりに苦しみながら、懸命に先代を追っていた。あのような険しい山々を。かの神君でさえ『命のために戦った』とおっしゃった激戦の中を。私は今でも、あの時の君の『強さ』が、先代の胸を打ったのだと思っているよ」

「以来、我らはずっと一緒だな」

 少し照れ臭がったような笑みを、アウグストゥスはアグリッパへ、それから若い二人に向けた。二人はまた目を合わせ、うなずき合った。マルケルスはにっこりと、ひと際大きくうなずいたのだった。

「ティベリウス、ぼくらも頑張ろうね。ぼくらのご先祖様、先代カエサル、そして叔父上に恥じないように」

「アグリッパにも」ティベリウスは未来の義父に頭を下げた。「戦地で我々をご教授願います」

「うん、でも……」答えたのは、アウグストゥスだった。「今回は、行くのは私のみで考えているんだ」

 えっ!──と、ティベリウスどころかマルケルスまでが、衝撃を受けたのを隠しきれなかった。

「ほら、見たことか!」

 マエケナスが吹き出した。

「新入りの士気がくじけそうだぞ。どうしてくれるんだ。せめて君個人の将軍戦績を、記憶から抹殺できたらいいのにな」

「アグリッパは私の同僚執政官だぞ。二人そろって留守にするほどの事態じゃない」

 マエケナスをいささかむくれた顔でにらみやりながら、アウグストゥスはそのように言った。こうした内輪の席では、軍事の才に関して、自分がアグリッパと比較にならないことを素直に認めるのにやぶさかではないらしい。

 アウグストゥスがアグリッパの臨戦なしに単独指揮を執った戦場で勝ったという事実は、現在皆無と言えた。それどころか、当時幼いティベリウスが心配で泣きたかったほど、散々な結果だったのだ。

 たぶんアウグストゥスは、だれよりなにより戦場を忌諱しているのだろう。それでもほんの四年前までそこに立ち続けたのは、嫌だ苦手だという理由で責任から逃げるわけにはいかなかったからだ。

 小さくため息をついて、アウグストゥスは気を取り直した。「アグリッパには首都に残ってもらう。もちろんマエケナスにもな。残らなきゃよかったと思うくらいにはやることがあるから、覚悟しておくがいい」

「わかっているよ」とマエケナス。

 アウグストゥスは若い二人に言った。「我々に同行するのはヴァッロ、そしてアンティスティウスだ。お前たちはアンティスティウスの直接指揮下に入ることになるだろう」






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