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第六章 -終



親愛なる我が友、ティベリウス



 君が初めて将軍になった日を、ぼくは忘れない。生涯で何度も君に見惚れてきたが、あの時の君は無上だった。気高く、美しく、堂々たる偉容。生涯君そのものだった性質に、若さがさらにまばゆい輝きを添えていた。


 あとは……そうだな、成人式の日の君だ。覚えているよね? でもぼくだけじゃないんだ。ユピテル神殿から出てきた君に、だれより見とれていたのはアウグストゥスだった。ぼくはその顔をしかと見たぞ。あの日すでに、あの人は君が誇らしくてたまらなかったんだ。


 ぼくは君を見て、そして後ろの世界を見た。アルメニアの大地に居並ぶローマ軍の壮観。なじみの顔ぶれはもちろんのこと、軍団兵も同盟軍も、皆一様に君の背中を見つめていた。

 君の指揮棒が差し向き、全軍がアルメニア国境へ突撃していった。

 あとは王都まで走り抜けるのみだった。

 アルメニアの守備隊は、泡を食って逃げ出した。君は通り道の町や村を焼き払ったが、逃げる者には目もくれなかった。それで住民全員がそうした結果、ローマ軍の手にかけられた者はほぼ皆無と言っていい状況になった。

 あっけないと言う人もいたな。将軍ティベリウスの初戦とは、さして武功を上げられなかった、と。

 あまりに圧勝だと、武功にも名誉にもならないんだな。必要な時間をかけたらかけたで、遅すぎると言うくせにな。

 だが君は気にしちゃいなかった。それこそあの時の君に求められていた戦果だったのだから。

 君は王都アルタクサタを包囲した。次の瞬間には王アルタクセスの首がローマ陣営に届けられ、無血開城となった。

 君は宮殿で、戴冠式を行った。ティグラネスは君の手から王冠を戴いたのだ。

 きらびやかな宮殿を楽しむ間もなく、君は急ぎ軍を退いて南下した。ユーフラテス川畔で、アウグストゥスが待っていた。

 あの人の戦略は上手くいった。アルメニアに一瞬で鞍替えされたんだ。西の国境に同盟国が一つもなくなり、パルティアも強気に出られなくなった。

 忘れもしない、あの年の五月十二日、君はユーフラテス川の小島で、パルティアとの平和協定の調印式に臨んだ。君の手が、クラッススが奪われていた軍旗を取り戻したのだ。三十三年越しの名誉回復だった。

 相手方は、フラーテス王の嫡男だったな。あの時の宴こそぼくらの生涯でいちばん華やかだったかもな。一方、川岸に控えていた王とアウグストゥスは彼らで、楽しくやっていたんだっけか。三十三年前の捕虜は生存しておらず、アウグストゥスは残念がっていたけれど、フラーテス王には東方式に、絶世の美女である奴隷を贈った。それでその女が生んだ子が次の王になったというのだから、世の中まったくなにがどう転ぶかわからんね。

 ああ、思い出しすぎた。時間がないのに。

 無事に任務を終えた君は、帰途に着いた。テオドルス先生の夏期講座に顔を出すなどしながら。

 ヴェルギリウス殿がブリンディジで亡くなったのは、翌年の九月だった。あの人も長い旅を終えて本土に帰り着いたのだが、力尽きてしまった。

 あの人の最後の作品は未完だ。最期の際にあの人は焼き捨ててくれと言ったのに、アウグストゥスは無視して出版させたんだった。ぼくもローマ人すべてのためにそれでよかったと思っているが、ぼくが余計なことを勧めなければ、あの人はもう少し長生きしていたのかもしれない。

 とにかく謝っておく。

 もうぼくなんかが話しかけるのも畏れ多いくらい、あの人は真の大詩人になったのだけれど。あの人の名もガルスの名も、永遠だ。

 ティベリウス。

 おそらくぼくの名は永遠にならない。ここで消える。それでいい。だが君の中でだけは、永遠でいてほしい。

 ぼくたちが生きた一日一日に意味があるならば、君がこれから生きる一日一日にも意味があるんだ。

 ローマが永く生きるという意味だ。



親愛なるティベリウス

 とうとうぼくもこの世の果てに来た。だから、ティベリウス、ここに至るまでの色々なことを思い出すんだよ。

 あのいまいましいファンニウス・カエピオが言っていた。でも今となっては、本当に彼の言葉だったのか思い出せない。

 コルネリウス・ガルスは、今のぼくをなんと評すだろう。

 だけど、ねぇ……ティベリウス、ぼくはやっぱり君を思う。この期に及んでも、ぼくという人間は君でいっぱいだ。

 ぼくにはもう時間がない。

 それとももしかしたら、これからは永遠の時間があるのかもしれない。

 いったいどこから始まったんだろう。君を初めて見かけた日か。君に初めて捕まえられた日か。君を思いきりぶん殴った日か。それともそろって成人式を迎えた、あのまぶしい春の日か。

 ねえ、ティベリウス。

 ぼくはどこで引き返すべきだったんだろう──。




「ルキリウス! ルキリウス!」




親愛なる、最愛の我が友、ティベリウス・ユリウス・カエサル

 ぼくはこんなところで死にたくない。

 死にたくないよ。

 よりにもよってこんな時に死ぬなんて、あってはならない。

 最悪にもほどがある。

 最低にもほどがある。

 せめてあと一日でいい。一刻でもいい。ひとときだって、かまわない。

 ぼくはまだ生きていたい。

 生きて…………もう一度……君に────。




「ルキリウス! 気をしっかり持ってください! 今、医者を──」




 トラシュルス、あとを頼む。

 ぼくはもうしゃべることもできない……。

 だがせめて…………あとひと言……だけ……………………




「ルキリウス! ああ、だめだ! ルキリウス──」




 友人の役に立つべからず。

 その挙句が、これだ。

 人生で最も肝心な時に役に立てないのだ。

 ティベリウス、

 ドルーススはあいつに殺されたのだ。

 だがぼくは、本当はこんな最悪な話を伝えたいわけじゃない……。

 ぼくが伝えたい言葉は、もうすべて君に捧げた。五十四年のあいだ、君にしゃべり続けてきた。

 だからもう言いたいことはないんだ……。

 ティベリウス、

 これからの日々を、一緒にいられなくてすまない。

 死にゆく者は皆身勝手で、ぼくがその最たる者だろう。

 けれども、君に聞いてほしい。

 ぼくの声を。

 君が今どんな場所にいようと、

 ぼくはいつでも君の隣にいる。








(完)

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