第六章 -21
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九月下旬、ティベリウスはサモス島に到着した。ヘレスポントス海峡を渡り、属州アジアを南下して、それから船に乗った。
継父は一足早く来ていた。複数年冬営地に利用したことのあるなじみの島だった。彼の四十二回目の誕生日に、ティベリウスは間に合った。
継父は港で出迎えてくれた。道中の報告をしながら、ティベリウスは継父に連れられ、滞在先になる邸宅へ向かった。軍装のままだった。
「おおっ、そうだった」
敷地内に入るや否や、継父はなにやら手を叩いて、ティベリウスを見上げた。
「お前の『文化顧問団』にふさわしい人を迎えた。偶然この島を訪れてくれて、幸いだった。地理の専門家でな。しかもポントスの出身だそうだ。これで道中安心だな。アラビアの時のような、いい加減な案内人に降りまわされずに済むはずだ」
ティベリウスが前を向くと、邸宅玄関前で、がっしりとした体の、胡椒をまぶしたような髭の持ち主が、あんぐり口を開けてたたずんでいた。
「マカロン」
ティベリウスもぽかんとその名を呼んだ。
再会は、こればかりではなかった。
「第二十二軍団ディオタリアーナが長マルクス・ポンペイウスと申します! 司令官殿! 貴殿の下で出陣できますこと、誠光栄至極!」
「マルクス・ポンペイウス殿……」
司令部のテント内などではなく私邸の柱廊であったので、ティベリウスはいささか困って応じた。溌溂さに気圧されてもいた。
「私もお会いできてうれしい。今夜は共に杯を交わそう。友として。私の友もそれを望んでいるからな」
「いや、ぼくはいいよ。君とこいつとマカロン殿でやってくれよ」
ルキリウスがいかにもむっつりと勧めた。
ポンペイウスがたまらない様子で顔を輝かせるので、ティベリウスが敬礼を解いてやると、犬のようにルキリウスに抱きついた。そのまま押し倒さんばかりだった。
「ルキリウス! 必ずまた生きて会えると信じていたよ!」
「ぼくは死んだと思ったけどね」ルキリウスは勘弁してくれとばかりにもがいていた。「あの時も、今もだ! ところで、なんで君がこんなところにいるんだ?」
「聞いていなかったのか? 私はディオタリアーナを任されてきた!」
「だからなんで君たちが? エジプトにはもう第三軍団しかいないってことだろ! 大丈夫なの、メロエ勢は?」
「それが聞いてくれ! あれからペトロニウス総督は、シュエネを取り返し、王都ナパタまで進軍した。メロエ勢は打倒され、降服を申し入れてきた」
「そこまでは聞いた。ちゃんと捕虜とアウグストゥス像を取り戻したって」
「ところがそのアウグストゥスとは何者かと彼らが聞いてくるので、総督は彼こそ我らの統治者であると教えた。ではどこに行けば彼に会えるのかと続けるので、ここへ連れてきた」
「…………なんだって?」
「ティベリウス・ネロ! あなたにもご紹介したい!」
ポンペイウスは右腕で中庭の真ん中を示した。
「メロエ女王カンダケ・アマニレナスと、そのご息女です!」
呼ばれたのに気づいたのだろう。隻眼の巨人がのっしのっしと歩いてきた。
ルキリウスは卒倒した。
女王は初めて地中海を見たらしい。彼女は自らアウグストゥスと交渉するために、サモス島まで来た。どんな男がエジプトの「神」であるのか、興味もあったのだろう。
女王はアウグストゥスと直接話すことができた。国境で徴収される税についても、納得のいく回答が得られたらしい。会談後はいたく満足げだった。
「ドコカヘ、行クノカ?」彼女はポンペイウスに訊いていた。「戦争カ? 同盟者トシテ、我ラモ加ワルゾ」
女王は大はりきりだったが、ローマ軍関係者が必死にご遠慮願った。ルキリウス・ロングスの心臓を慮ったわけではない。確かに抜きん出た戦力になろうが、だれにも彼女を御しきれる自信がなかった。それに慣れない世界に連れ出して、病に倒れたり戦死したりする結果になっては困る。彼女に限ってそれはなさそうであれ。
一方で、彼女がこうして東方にいるかぎり、メロエ勢はシュエネの国境を脅かしはしないだろう。事実上の人質であるわけだ。したがって総督ペトロニウスも、彼女とともに一個軍団を派遣しても防衛上の問題は起こらないと考えた。そのとおりだろう。
アウグストゥスは、カンダケの代わりに娘のアマニシャクヘートを、遠征の終わりまで自分に同行させることとした。ディオタリアーナがエジプトに戻る時、彼女も一緒に帰す、と。
彼女はカンダケの後継者だ。母親と比べると華奢に見えるのは仕方ないが、すらりと壮健な娘に見える。故国には兄三人もいるのだし、若いうちに世界を見ておく経験は悪くないだろう。
冬になる前に、カンダケは上機嫌で故国へ帰っていった。ルキリウスはどうにか息を吹き返した。そして入れ替わるようにアウグストゥスの下には、大いなる吉報が届いた。
ユリアがアグリッパの子を懐妊したとのことだ。
「おめでとうございます、カエサル」
ティベリウスは継父に献杯した。
「無事に生まれてくれればよいのだがな」
まだ喜ぶのは早いとばかりに、アウグストゥスの笑みは控えめだった。だが珍しく葡萄酒、それも上等のものを口にしようとしているあたり、内心は浮かれているのだろう。
「それより明日はお前だぞ、ティベリウス。二十一歳、おめでとう」
二人は杯を交わした。
新しい年になった(前二十年)。アジアの奥地から、ケラドゥスが仕事の報告に戻った。
「さすがにカエサルがサモス島入りしたことには気づいていますが、それでも油断したままですよ。アグリッパ将軍がお帰りになったからと、侮っています。おいおい、ローマからの友好を乞う使者はまだか、とね」
彼はアルメニア王宮の現状をそのように知らせた。ティベリウスはただうなずいた。そのまま言わせておけという意味だ。
現アルメニア王アルタクセスは、パルティアの後援で王位に就いた。父王は、パルティア遠征中の裏切りの咎で、アントニウスとクレオパトラによって処刑されていた。そのため復讐に燃える息子は、パルティア軍とともに力づくで故国へ帰還した。以来今日まで、パルティアの忠実な同盟者であることを示し、ローマへの敵意を隠さなかった。ローマ守備隊と商人を殺害する事件も起こした。
それほどのことをしていながら、アルタクセスは長くローマへ、人質となっている家族の引き渡しを要求していた。あたたかく迎え入れるためではない。王位を脅かす弟を始末してしまいたいのだ。その弟が、カエサル家で暮らすティグラネスだ。彼は今ティベリウスに同行して、サモス島まで来ていた。
ティベリウスの任務とは、アルタクセスを廃し、ティグラネスを王位に据えることだった。
そして同時にアウグストゥスは、大国パルティアとの和睦を進める。
継父の狙いとは、これ以上一兵も失うことなく、ローマの軍旗を取り戻すことだ。そしてパルティアとの国境を明確にし、互いに不可侵である約束を交わすことだ。
ローマはパルティアとは戦争しないのだ。
すでにその下準備は、三年前からアグリッパが始めていた。一私人の装いのまま彼は、東方じゅうを駆けまわった。その再編と同盟強化は、昨年から今に至るアウグストゥスの仕上げに引き継がれる。北は黒海の向こうのボスポロス王国、南はユダヤ王国、さらにアジアのポントス、カッパドキア、キリキア、コマゲネ、そして新属州ガラティアと、すべてローマの下に結束した。少なくともアルメニアとパルティア問題に関して、ローマの背後を突く真似はしないということだ。
ケラドゥスの言うアルメニア王宮の油断ぶりも、一理はあった。つまり、そろそろ我々のところも友好を求める使者なりを寄越せばよいというわけだ。ローマはパルティアが怖い。なにしろ二度も負けている。だから必死に同盟を求めて駆けずりまわっているのだが、そんなものになんの意味があろう。ただ強い者が勝つ。それが東方の掟だ。早く来るがいい。せいぜい卑屈な様を楽しんだ後、蹴っ飛ばしてやろう。
だからお望みどおり、ティベリウスは行ってやるのだ。
武力でもって、アルメニアをパルティア方から切り崩すために。
だが首都を出る前、アグリッパはティベリウスに忠告した。決して長引かせてはならない。できるかぎり即終結としなければならない。そうでなければ、本願であるパルティアとの交渉で、ローマは不利になる。ただでさえ負けてきたのだ。比べれば小国であるアルメニアに手間取る様子を見せては、最悪パルティアこそローマを攻めてやろうとまで考えかねない。
そうなれば真っ先に狙われるのは、シリアまで赴く継父だ。
理想は、一滴も血を流さずに終えることだ。アルタクセスのそれ以外。軍を動かすのだから、さすがにそう綺麗には進まないだろうが、電光石火のごとく王都アルタクサタまで進軍し、これを陥落させねばならない。
とにかく速やかに。それがすべてだ。
「おかしいんじゃないの?」
これを又聞きしたルキリウスは、思わずとばかりに叫んだ。
「仮にも王都を速やかに落とせ? 血を流す間もないくらい? いったいなんだってそんな無理難題を、君は引き受けたのさ?」
だがアグリッパは実現の見通しのつかないことは言わないはずだ。アウグストゥスの下にも、アルメニアからの使者が来訪していた。彼らも一枚岩ではないのだ。アルタクセスの横暴に愛想を尽かし、ティグラネスを王位にと望む声が、王宮内でひっそりと高まっていた。ケラドゥスの報告も、その揺らぎを裏づけた。
あとはティベリウスがやるだけだ。
「ケラドゥス」
退出しようとする有能な密偵へ、ティベリウスは声をかけた。彼はまたアルメニアの王宮に潜り込むのだ。
「気をつけるように」
ケラドゥスは微笑んだ。「承知しました。お待ち申し上げております、ネロ」
三月になるやただちに、ティベリウスは対岸のアジアへ三個軍団を渡した。残る一個軍団とは、道中のカッパドキア領内で合流する手筈だ。継父もまた、海路をシリアへ出立するところだった。
「ティベリウス」アウグストゥスは港で継子を見送った。「武運を祈る」
「はい、カエサル。最高司令官に幸運を」
この人をただ一人パルティアの前に立たせはしない。必ず任務をやり遂げる。勝報とともに駆けつけてみせる。
ティベリウスは継父と別れ、アジアを踏んだ。白馬にまたがり、いよいよ進軍開始という時、一通の手紙が届けられた。近くのロードス島からだという。
「終わったらまっすぐ帰れ」
教師テオドルスが、それだけ書きつけていた。ティベリウスは笑いながらその手紙をルキリウスに持たせた。
「……なに、これは? 帰りは必ず寄れって、思い出させてんの?」
弟子歴の短い彼でさえ、そのように読み取った。
ティベリウスは苦労して笑いを引っ込めながら、白馬をローマ街道に乗せた。総勢三万の遠征軍が、それに続いた。
目指すアルメニアは、世界の北東の果てだ。