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第六章 -20



 20



 フィリッピの野で上がった不思議な狼煙は、まるでニコポリスで捧げた香料の煙に応えているように見えた。だがだれなんだろうとルキリウスは思いを巡らす。すでに兵たちが騒いでいるが、彼らの言うように、アントニウスの亡霊であるのかもしれない。

 ──来たか。

 なぜならあの煙の先には、アントニウスの陣営跡があるという。二十一年前、あの野での決戦で、アントニウスとオクタヴィアヌスの軍が、ブルートゥスとカッシウスの軍を破り、先代カエサルの仇討ちを果たした。オクタヴィアヌスの陣営は、実のところぼこぼこに潰されたらしいが。

 かつて詩人ホラティウスも、それに現副将メッサラ・コルヴィヌスも、あの戦場にいた。どちらもブルートゥス側に立っていたのだ。

 そしてルキリウスの父親が、ブルートゥスの身代わりになり、アントニウスの下へ引き立てられていった。それこそきっとあの場所だ。ひょっとしてあれは父さんなのか?

 ルキリウスがこの場所に来るのは初めてだった。開戦直前、すぐ近くにある祖父の友人宅で産声を上げていたのだが。

 だれも焚いた覚えのない煙だった。ティベリウスも馬を止めて、しばしその白い筋が天へ昇っていく様子を眺めていた。

 若き将軍が率いているのは、今や二個軍団だった。新兵を加えてその規模になるよう、ドナウ流域の軍団が呼ばれた。したがって向こうに残るのは六個軍団で、アグリッパはこれが此度割けるぎりぎりの戦力だとティベリウスに言ったそうだ。ドナウ流域はライン流域同じくローマの国境地帯であり、最重要の防衛域だ。遠征が終わり次第、すぐに二個軍団を戻さねばならないという。

 今回、ティベリウスが率いるは、四個軍団になる。残る二個は、シリア駐留の四個軍団から一個、そしてアフリカから一個移動させるそうだ。ならば最初からシリアの四個軍団で行えば良さそうなのだが、アグリッパはユーフラテス流域から軍団がいなくなるのもまた危険であると考えた。それはそうだ。なにしろこの遠征が向かう相手はパルティアではない。

 アルメニア王国だ。

 そしてかの国とその盟主パルティアに、ローマがティベリウスを先頭にして「見せる」のが、計七個軍団であるわけだ。この規模ならば、両国もローマが本気であることを思い知ろうと、アウグストゥスもアグリッパも考えたらしい。

 ティベリウスが実際に率いるのは、軍団兵二万四千、これに現地補助軍とマウリタニアのような同盟国軍も加え、総勢三万五千になるという。

 若い将軍とその副官らにとって、副将メッサラ・コルヴィヌスは心強いに違いない。彼はフィリッピの戦いの後、アントニウスの友となり、東方一帯を渡り歩いた経験を持つ。そしてもう一度、今度はアウグストゥスの友として同じ旅路を歩んだ。ルキリウスの父とコルネリウス・ガルスを重ね合わせたような経歴だ。無論ギリシア文化をはじめ、東方世界の文化、風俗にも通じている。

「あれは君の吉兆だろう」

 白煙を指差して、メッサラはティベリウスに言った。すると周囲の軍団兵らも同調し、拳を突き上げて歓声を上げさえした。戦の前には大多数が縁起担ぎになる。遠征の成功を神々が約束してくださっているのだ、と口々に言った。

 しかしメッサラは「我らの吉兆」ではなく「君の吉兆」と言った。

 おそらくそれは、将軍としての初戦ばかりではない。その先も見越している。

 ティベリウスはただ黙してフィリッピの白煙を見つめていた。アントニウスの声を聞いているに違いなかった。

 ──あの……アグリッパ。

 ルキリウスが当代一の将軍と二人だけで話したのは、二年前、彼が家族とオスティアを訪れた時だ。

 ──もしも……もしもですよ? 自分が友人より先に死ぬとわかっていたら、どうしますか?

 アグリッパはもちろんびっくりした顔になった。彼にとって、その相手がだれであるのかは言うまでもない。ルキリウスは取り合ってもらえないと半ば信じていた。けれどもアグリッパは、やがて柔らかに笑って、口を開いてくれた。

 ──かまわないよ。むしろ喜ばしいことだ。彼のほうが長生きしてくれるなら。極端な言い方だが、私自身はたとえ今日死んだとしても一切思い残すことがないんだ。すでにこの身に余る仕事をさせていただいた。後悔も憂いもない。感謝しきれなかったこと以外。

 ──でも……あなたに先立たれたら、あなたの友人はひどく悲しむでしょう? なにもかも嫌になってしまうかもしれない。

 ──そんな人ではないよ。

 ──でも、困り果てるに違いない。あなたほどの理解者も協力者もいないのだから。

 ──問題ない。

 と、アグリッパは朗らかに言う。そして出てきたばかりの隣の部屋を指す。

 ──彼がいる。

 ティベリウスが今、そこでヴィプサーニアたちとパン生地をこねていた。

 思い返せばこの時は、マルケルスがまだ生きていた。けれどもアグリッパは一瞬も迷わなかった。

 ──ルキリウス、君にもわかっているはずだ。願わくば、もう少しだけ長生きしたいところだがね。彼のためにも、我が娘のためにも。

 ルキリウスは今、目を閉じる。

 アグリッパにはわかっていた。なぜなら彼とティベリウスとは、同じ人を愛している。その愛こそが、二人を通じ合わせものであり、生きる意味だ。

 どんな未来が待ち受けていようと、変わらない。

 ──でも……

 ルキリウスはなおこればかりだ。

 ──でもいつも「彼」がいるとは限らない。もしももうだれもいなくて、ただ独りきりあの人が残されてしまうとしたら、ぼくはどうしたらいいんでしょう?

 アグリッパはしばし黙してルキリウスを見つめていた。そうか、そういうことだったか、と言うように、目をゆっくりと細めていった。

 ──ルキリウス。

 アグリッパが肩を叩いてくれる。

 ──君の友を信じるんだ。

 いや、信じられない。彼を知るからこそ、信じられない。あなただって、わかっているはずだ。彼がどれほど深く人を愛する男か。純粋で、誇り高くて、不屈の魂の裏にどれほどの傷を隠してしまうか。

 孤独とは、あのカエピオを狂わせた。いつかティベリウスに降りかかろうとするそれは、きっと想像を絶する。

 そしてルキリウス・ロングスとは、その時になにもできないどころか、とどめを刺す役を果たすらしい。あの青く美しい魂を、取り返しようもなく砕く斧。

 だが首を振り続けるルキリウスを、アグリッパはそっと抱き寄せた。

 ──ならば、君自身を信じるんだ。生ある一日一日に、君ができることを。

 私がいない世界とは、我々が生きた世界。

 そう、それこそが、死してなお永遠であり続けられる唯一の手段だ。彼の中だけでかまわない。声を届かせたい。ぼくはここだ。いつでも君と共にいる。

 ルキリウス・ロングスの生きる意味すべてを注ごう。たとえ世界を憎みに憎もうと、絶望の淵できっと思い出す。

 ぼくたちがいたことを。

 親愛なるティベリウス、

 ぼくたちの声は届くんだろうか。

 君の造り上げる世界で。






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