第六章 -19
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元老院と市民もなにかを予感してはいた。だから本当にアグリッパは行かないのかという目で一行を見送ったのだが、本当に行かなかった。人々の最前列に立ち、アグリッパは大きく手を振って、ティベリウスを送り出したのだった。
「頼みましたぞ、ティベリウス・ネロ!」
半月後、ブリンディジに着くと、ティベリウスはただちに新兵たちを船に乗せ、ギリシア本土へと渡した。そしていよいよ自分も乗ろうかという時に、騎兵一千がどたどたと市内に入ってきた。率いていたのは、マウリタニア王ユバだった。ティベリウスがこれから行うことに、同盟国の王として加わるためにはるばる来たのだ。
王はティベリウスを見るなり滂沱の涙にむせた。
「ティベリウス! ああっ、私のティベリウス! よくぞこんなに立派にっ……無事にっ……!」
ユバはティベリウスをかき抱き、その真新しい深紅のマントを、涙と鼻水でぐしゃぐしゃにした。王妃セレネが、頃合いを見て夫を引き剥がしにかかった。
セレネもティベリウスに接吻した。
「会えてうれしいわ、ティベリウス。ユバも私も、ずっとこの日を待っていたのよ」
彼女も途中まで同行するそうだ。
戦場の少し手前まで。
マウリタニア王軍を加え、ティベリウスは対岸のギリシア本土へ発つ。しかしドゥラキウムへはまだ行かず、コルフ島に寄港しながら、船団を南へ向ける。ようやくコマルスという、ごく小さな港に入る。徒歩でさらに南へ行く。
そこには一つ、特別な植民市があった。アウグストゥスにとってはもちろん、ティベリウスにとっても。ニコポリス──勝利の都と名づけられたこの入植地は、完成から今十年を迎える。アンブラキア湾を閉じかける二つの岬──アクティウムの北側にあるニコポリスは、かつてのアウグストゥスの陣営跡に建設された。この海での、アントニウスとクレオパトラに対する勝利を記念して。
かの市では、すでに牡牛の犠牲式が行われ、くべられた香料の煙がなお立ち上っている。再来を告げる狼煙であるように。
勝者は、あの当時オクタヴィアヌスと呼ばれていた。ある意味ではこの岬こそが、「アウグストゥス」が産声を上げた場所だったのかもしれない。
彼の下で、従軍していた少年が二人いた。十年前のあの日、岬の端に並んで立っていた。
どうして今は一人がいない……。
しかしもう一人は戻って来た。二十歳の青年に成長し、今日再びこの岬に立った。きらめく甲冑は、かつて彼が見送った戦士たちと同じ──否、彼らの上官であることを示す装いだ。左腕に飾りの高らかな兜を抱く。グラディウスが左腰に、そして女神の短剣が右腰に座す。後者はこの地で譲り受けた遺志だった。今彼へ、そして十年前にここで散ったすべての命へ、青年は目を閉じ、報告する。
戻った、と。
背後には、胃袋のようだと評されたアンブラキア湾が静かに膨れている。かつて青年は、あの奥から艦隊がぞろぞろと進み出てくるのを、戦慄しながら眺めていた。そしてうねる湾口を抜け、艦隊は海に出る。そこではオクタヴィアヌスとアグリッパ率いる艦隊がすでに展開し、やがて激戦が起こる。
その終わりまで、十歳と十一歳の少年二人は、ここで見届けた。足下では船の残骸、兵の亡骸、そしてなお生きながらに崖下に叩きつけられていく戦士たちが、波を赤く染めていた。
今は前も後ろも、嘘のように静穏な青が広がる。大空もまた果てしなく青く続いている。
そしてそこへ、深紅のマントが翻る。かつての十歳が纏うそれは、彼が将軍となった証だ。
ローマ将軍ティベリウス・クラウディウス・ネロ。
後に歴史が伝える。堅忍不抜にして常勝不敗、比類なきローマの守護者。将軍としてのその第一歩が、今ここから始まる。
彼が生涯共に歩くと信じた友は、先に旅立ってしまった。今の彼の姿を、その代役にすぎないと見なす人々も多いはずだ。
だが、それがなんだというのか。
──坊ちゃん。
出発前、アグリッパはティベリウスに話した。
──ここへ戻る前、私はカエサルとアテネで落ち合った。カエサルには迷いも恐れもなかった。ちょっと驚くくらいにな。君にならば任せられると安心しているからだ。こう言ってはなんだが、少しでも心配であれば、私をすぐに首都へ帰すわけがない。
彼はティベリウスの両肩にずしりと手を置いた。
──任せたぞ、将軍ティベリウス。必ず私を超えていく者よ。
すでに約束した。アグリッパに託され、マルケルスに代わって、これからカエサル・アウグストゥスを支えていく男とは、ほかのだれでもない、ティベリウス・ネロでなければならない。
命の限り守っていく。カエサル、そしてローマ、その担う世界を。
この岬に立つと、失われた命を思い出す。痛みはなお胸に癒えずに留まる。
だが今、ティベリウス・ネロは一人ではない。
振り返ればそこに、若き軍人たちが居並ぶ。一人一人、誇りに輝く顔をしている。
若く、青く、未来を継いでいく輝きだ。
ルキウス・カルプルニウス・ピソもまた、この岬に戻って来た。十年前は軍団副官として苦い経験を経たが、この度の遠征で正式に軍団長の任を得た。
グネウス・コルネリウス・レントゥルスもまた軍団長の位に上った。
パウルス・ファビウス・マクシムスとグネウス・カルプルニウス・ピソは、二度目の軍団副官の職についた。どちらも別任務として、司令官ネロの弟クラウディウス・ドルーススのお目付け役を頼まれている。
そうとは知らないドルーススは、いよいよ待ちに待った正式軍務に大はりきりだ。もちろん初の軍団副官だ。
ユルス・アントニウスもまた、二度目の軍団副官として、この岬に立った。彼にとっては、かつては願っても来られなかった場所だろう。
陽気なマルクス・ヴァレリウス・メッサラの姿もあった。彼も二度目の軍団副官だが、父コルヴィヌスがティベリウスに請われ、軍団副将を務めることとなり、父子の区別をつけるためとして、この時からメッサリヌスと名乗るようになった。
彼といつもながら並び立つ、マルクス・コッケイウス・ネルヴァは軍職を得ていない。ティベリウスの側近兼「文化顧問」として同行することとなった。
そしてルキリウス・ロングス。彼もまたティベリウスの側近だ。だがたぶん本人が思っているよりなじんだ軍装でいる。護衛のつもりはないと言い張ろうが、この側近いるかぎり、敵は司令官に指一本触れることも叶わないだろう。
ルキウス・ピソとユルスが、アクティウムの海に花束を捧げた。花びらは海風に舞い、岬で祈る若者たちへも降り注いだ。
深紅のマントが大きく翻った。新しき将軍に続いて、若者たちは岬から歩み出した。
向かうは東方。へレスポントス海峡を越える。
将軍ティベリウスの初戦が始まる。