最終楽章 誰ガタメノ夢
「……なん……!」
突如鼓膜を殴りつけてきた大音量に、礫は反射的に耳を塞いでその場にしゃがみ込んだ。
大音量とはいっても、実際には工事現場の騒音よりかは幾分も小さい。
ただ、耳を劈く悲鳴が、甲高い音が、音の大きさ以上の不快感を与えてくるのだ。
これが、ネガイウタなのか?
神の唄の音色は、此処まで人の脳を掻き乱す音色なのだろうか?
「……理由は、あんたが知ってるはずさ」
そんな中で。ホロウの声が、とても静かなはずなのに、はっきりと礫の耳に届く。
彼女の方に振り向く彼の顔は、いつになく真剣で、何処となく切なさが混じっていた。
全ての『音』の共鳴なくば、その楽曲は何の力も持たぬ、単なる不協和音の集合体でしかない。
その時。閉じられていた水門が開かれたように、彼女の脳裏に沸き上がる記憶があった。
かつてホロウも口にした、クインテット・カルバールの言葉だ。
『音』が1個でも足りなきゃ唄として復元できねぇんだよ。
他の大会参加者を手にかけてまで、『音』を集めなければならなかった理由。
他者に協力するモールダーを、殺さなければならなかった理由。
「……そうだ」
ホロウは言った。
「ネガイウタは、まだ完全じゃねえ。あとひとつ、『音』が足りねぇんだ。欠けた音を補わなけりゃ、こいつは永遠に此処で悲鳴を上げ続けることになる。……そんな代物に、人の願いを叶える力なんざねぇ」
棍を生み出し、その先端を突き付ける。
礫の、鼻先に。
「……おれかあんたか、どっちかの命が必要なんだよ」
鐘が鳴る。
それは始まりを告げる音か。それとも終わりを告げる音か。
聞き手によって如何様にも表情を変えるその音は、楽器の前に佇む2人の男女の心に囁く。
舞台に幕を落とす時が訪れたのだ、と。
叶奏神器クインテット・カルバールは、ただそこで黄金に輝いている。
この楽器にも自我が存在するのだろうか。生命が宿っているのだろうか。初めて自分の耳でクインテット・カルバールの言葉を聞いた時から、礫はそう考えることがあった。
こういう世界だから、そういうこともあるのかもしれない。この楽器も生きている存在なのかもしれないと。
本当にその通りなのだとしたら、今この楽器は、自分の足下で繰り広げられている出来事を見下ろしながら何を考えているのだろう。
神の胸中など、計り知れない。彼女には想像もつかないことだ。ひょっとしたら何も考えていないかもしれないし、──あるいは、待っているのかもしれない。
ネガイウタが自分の手に戻ることを。
──きっと、そうなのだろう。
それが、クインテット・カルバールの『願い』なのだから。
「最終戦闘だ。願いを叶えたかったら、おれを倒してネガイウタを完全にしてみせろ」
「……最初から、そのつもりだったんだね」
礫は杖を構えた。無言で編み上げる魔力が思い描いた通りの形となって、先端の黒水晶へと収束していく。
「おれは諦めの悪いタチなんでな」
ふ、とホロウは意地悪な笑みを浮かべて礫を見据えた。
「此処で鋳型の役目を背負ったまま唄を復元したところで、ただ束縛から解放されるだけだ。今更普通に天国に行くためだけの切符を貰ったところで何になる? せっかく万能の神の力がすぐ手に届くところまで来てるんだ、最後の悪足掻きくらいさせてもらったっていいじゃねぇか」
それは、形こそ違うが、あの日と同じだった。
「……けど、あんたにゃおれと同じ絶望は味わってほしくねえ」
8年前、此処で主人公であったホロウは仲間に裏切られて殺された。あの時の出来事と。
「だから、チャンスをやる。死にたくなけりゃ、全力で抵抗してみせろ。死ぬ気で戦って、生き残ってみせろ。てめぇの未来はてめぇ自身の手で掴み取れ。……もう、あんたを助けてくれる奴は何処にもいねえんだからな」
目の前に『敵』が現れたら、それが例えどんな奴だったとしても、迷わず倒せ。迷わずだ。
かつて。しつこいほどにホロウが礫に対して説いた教えが脳裏に蘇る。
最初はそれを、いずれ対峙することになる同じ立場の冒険者たち、その中にいる親友と顔を合わせた時のことを考えてうるさく言っていたものだと礫は思っていた。
それも間違ってはいない。しかし、真の意味は此処にあったのだ。
礫とホロウが、いずれ刃を交えることになった時。その時に礫が、気後れすることがないように。
「此処まで来たら、もう御託はいらねぇだろ。単純に思いが強い方が勝つ、それだけだ。
……後腐れなく、これでおしまいにしようぜ」
ホロウにとっての『完全』を迎えるために。あるいは礫の日常を取り戻すために。
どちらにとっても、ネガイウタを求める理由がある。
条件は、一緒だ。
「──いいか。目の前に『敵』が現れたら、それが例えどんな奴だったとしても、迷わず倒せ。他でもない、てめぇ自身のためにだ。……分かったな」
あの時の教えを、ゆっくりと、噛み締めるようにホロウは言う。
それが、礫がホロウから相棒として贈られた、最後の言葉となった。
「【Slow】!」
先手を切ったのは礫だった。
放ったのは、相手の神経伝達速度を一時的に鈍らせ、全体の行動速度を遅める魔術だ。
無論この程度の魔術が全身に魔術強化を施したホロウに通用するはずがない。まずは小手調べの意味合いが大きかった。
案の定、ホロウは棍を軽く横に振っただけで、魔術を無効化してしまった。ぱん、と乾いた音が虚空に響く。
「【Silence】!」
構わずに、続けて声帯を麻痺させる沈黙の魔術を放つ。アグニエルもホロウに対して使用した、魔術師に対しては食らえば致命傷ともなりうる魔術である。
暗黒魔術師が放つそれには抗えずに支配下に置かれてしまったホロウだが、礫が放ったそれは先程と同じように棍の一振りで効果を打ち消した。
礫の魔術が何処までホロウに通用するかどうかは疑問だが、少なくとも相手が神官姿でいる時は、まず弱体系の魔術の類は使うだけ無駄だと考えて良いだろう。
そもそもアグニエルの魔術をも防ぐ力を持っている相手に、礫の魔力が通用するとは考えづらかった。
ホロウが床を蹴る。
振りかぶった棍が暗黒剣に、白い法衣が漆黒の鎧へと変化する。
黒い軌跡を描く斬撃を、礫は紙一重で回避した。耳を撫でる風と空振りの音が、恐怖感を起こし彼女の足を竦ませようとしてくる。
しかし、唇を噛んで、笑いそうになる膝を懸命に伸ばした。
怯える時間など、彼は与えてくれない。
「うるさい!」
悲鳴を上げ続けるネガイウタに向けて、怒鳴る。
「【Flash】!」
最大光量、昼の太陽よりも眩い閃光を召喚する。
単なる閃光を生むだけの魔術は、魔術に対する防御力など無関係に、視力を持つ存在全てに対して作用する。加えて両者の距離が限りなく近い位置にある時に放たれたため、礫に肉薄していたホロウには回避のしようがなかった。
「くッ!」
まともに視界を灼かれ、ホロウが呻く。
その隙をついて、礫はホロウの背後へと回り込んだ。
視力を奪っても、足音や空気の流れで居場所はすぐに察知されてしまうだろう。しかし一瞬だけ、動きは鈍る。その一瞬だけの時間が手に入れば良かった。
「【Blizzard】!」
冷気を操る魔術の中では最上位の、猛吹雪を呼び出す魔術を唱える。
礫は、その吹雪が一点に収束するイメージを脳内に描いた。
魔術の威力は術者の魔力に左右される部分が大きいが、それを如何に効率良く操るかは術者が描くイメージ次第なのだ。ただ燃えるだけの炎を絨毯のように広げたり、矢のように遠くへ飛ばしたり、網の目のように複雑に編み込んで罠にすることもできる。ホロウが、教えてくれたことだった。
生み出された吹雪は、八方から渦巻くようにホロウに向けて吹き荒れた。
氷や雪の粒が、相手の体を覆い隠し──
ぼひゅ、と音を立てて中から何かが飛び出してくる。
両手に小刀を握り締め、暗殺者が宙を舞う。
鎧が凍結して動きを封じられる前に、身軽になって魔術の効果範囲から逃れたのだろう。
薄い氷や雪の欠片が貼り付いた腕を、真横に振り抜く。
礫の足元に、かつんと音を立てて石の欠片が飛び散った。
ホロウが投げ放った小刀が床を砕いたのだ。小刀自体は礫に掠りもしなかったが、石の欠片をうっかり踏みつけてしまい、礫は思わず足を滑らせてしまった。
「あっ……」
「そこか!」
漏れた声に反応し、ホロウが着地と同時に床を蹴る。
やはり、彼はまだ視力が戻っていないのだ。その証拠に、彼の双眸はきつく閉ざされたままだった。それでも、普段と何ら変わらぬ足さばきで、礫との距離を一瞬にして詰めてくる。
ぎゃりっ!
耳障りな音が響き、礫の杖とホロウの小刀が噛み合う。
暗殺者は黒騎士と比較して腕力に乏しい、と彼は言っていたが、それでも礫が相手ならば、彼女の手から得物を弾き飛ばせるくらいの力はある。思わず杖を手離しそうになりながらも、礫は奥歯を噛み締め崩れかけた体勢を何とか直した。
受け流し損ねれば、彼の一撃は容赦なく自分の心臓を抉るだろう。
想像すると、恐ろしくてたまらない。相手が今の今まで自分のことを護ってくれていた存在だと考えると、なおさらだ。
「【Hellfire】!」
精一杯の力でホロウの小刀を押し返しながら、魔術を発動させる。
本来は広範囲に灼熱の炎を放つ効果を持つ魔術だが、効果を圧縮した火炎球を撃ち出す様式にイメージして置き換える。従来の効果のままだと自分まで巻き込んでしまうからだ。
掌ほどの大きさの火球が、2人の間に出現する。
一見すれば大したことがなさそうに見える代物だが、先刻の魔術名から威力を推測することはホロウにとっては容易だろう。
彼は舌打ちをすると、小刀を手離し、その手で己の顔を庇う体勢を取った。
火球の表面が何かに触れたらしい。轟音と共に派手な火柱が上がり、ホロウの全身が飲み込まれる。
礫は咄嗟にその場を飛び退いたため、炎に呑まれることはなかった。
相手との距離を稼ぐべく、クインテット・カルバールが置かれている祭壇まで後ろ足で移動する。
炎が消える。
全身から煙を吐き出しながら、ホロウが礫の視界内に姿を現す。
彼が自身に施した防御魔法が効果を発揮したのか、多少髪が焦げている程度で全身のほとんどが無傷だった。
唯一──顔を庇っていた左腕を除いては。
肘から下の部分が、なくなっている。そこが火球が直撃した箇所であろうことは、時折先端から剥がれ落ちる黒い物体の存在ですぐに分かった。
火球を避けきれないと悟った彼は、咄嗟に腕1本を犠牲にすることで胴体への直撃を避けたのだ。結果として盾にした腕は吹き飛んでしまったが、被害を最小限に抑えることに成功したのである。
しかし、彼にしてはスマートではない防御方法を取ったという事実が、礫の脳裏に疑問符を浮かべさせた。
例えば神官に変身すれば、礫の魔術など簡単にあしらえたであろう。それ以外にも武器を投げ込んで囮にしたりと、それこそやりようは幾らでもあるはずなのだ。
他にも、普段と比較して不自然な部分が幾つもある。子供騙しのような目眩ましをあっさりと食らったり、魔術師である礫に対して魔術抵抗力が低い黒騎士で挑んできたり。
アグニエルとの戦いで体力を消耗しているせいで、上手く変身能力を操れないのではという考えも浮かぶが……見たところ、彼が息を切らしている様子はない。疲労のせい、とは考えづらかった。
何か理由があるとしたら、それは別のことなのだ。立ち振る舞いを遠慮させるような何かが、彼に。
いや。そう考えさせること自体が彼の目的なのかもしれない。これが礫を懐に誘い込むための罠だったら?
だが、例えそれが罠であったとして。そのためだけに、腕1本を簡単に犠牲にできるものなのだろうか。
あるいは──
──────
それが閃いた瞬間。
自分の表情が硬くなっていくのが、礫には嫌というほどに自覚できた。
──ひょっとして、ホロウは……
「……そうだ」
ぼんやりとした視線をこちらに向け、ホロウは笑う。微妙に焦点が定まっていないのは、ようやく視力が戻ってきたからだろう。
「それでいい。あんたにとって、おれは敵だ。遠慮なく、殺しに来い。……そうすれば、おれも遠慮しないであんたを殺れる」
残った手に、小刀を握り。
失った腕を癒そうともせず、彼は走り出す。
地を這うように体勢を低くし、一気に祭壇へと駆け上がり。脇腹の辺りに構えた小刀を掬い上げるように振り上げる。
2刀連続で襲いかかってくると回避は困難だが、1刀になったことで逃げ場に余裕ができた。礫は上体を斜めに屈めることで、ホロウの一撃を難なく避ける。
が、その直後に足を滑らせ仰向けにひっくり返ってしまう。
黒い布の切れ端が宙に舞うのが視界の端に映った。先程礫がアグニエルを騙す際に利用した彼女のマスクの切れ端だ。あれを踏んでしまったのである。
後頭部をクインテット・カルバールの土台に勢い良くぶつけ、礫はそのまま祭壇から転がり落ちた。
頭を強く打ったせいだろうか、手足が鈍い痺れに冒されていた。得物を手に迫って来るホロウから離れようと懸命に身を起こそうとするが、思うように体が動いてくれない。
「油断したな」
言ってホロウは、もがく礫の身体を押さえ付けるように、彼女の腹の上に馬乗りになった。
ただ上に乗っているだけではない。膝で両腕を踏み、動作を完全に封じている。礫の腕力では、これらを力ずくでどかすことはできそうになかった。
ホロウの口の端から、八重歯が覗いた。
それは、勝利を確信した笑みか。彼は、意地悪な笑顔を浮かべていた。
「……じゃあな。今まで、楽しかったぜ」
高々と頭上に掲げられた小刀が、彼の言葉が終わると同時に、振り下ろされた。
走馬灯のように、瞼の裏に浮かんでは消えていく。
この世界に足を踏み入れて、初めて相棒に出会った時のこと。
長くも短かった旅路を歩み、その間に、数え切れないほどの言葉を交わしてきたこと。
この世界は作り物で、これらの記憶も所詮は夢物語の一部なのかもしれないが──
それでも、彼女にとっては。
本物の、喜怒哀楽が確かにそこに存在する思い出に違いはなかった。
夢も、覚めるまでは現実と同じ。
そう。同じことなのだ。
頬に生じる痛みが、彼女の体を反射的に突き動かした。
頬を裂き、耳のすぐ横に突き刺さった小刀を肩で払い除け。
「あぁぁぁぁぁッ!」
吠え声を上げ、無防備になったホロウの胸に、束縛を振り解いた握り拳を撃ち込む。
鼻頭が奥から沸き上がるもので熱くなる。
今の自分がどんな顔をしているか、見るまでもなく分かる。きっと酷い顔だ。幻滅されても仕方がないくらい、汚い顔をしているのだろう。
殴られた衝撃でホロウが咳き込む。
しかしそれでも彼は、礫からは視線を決して離さなかった。まるでそれを待っているかのように──その顔には、もう意地悪な笑みは何処にも存在していない。
何度も目にしてきた、彼なりに彼女を気遣っている時の優しい表情であった。
礫は叫んだ。力一杯に。
「──【Ray】!」
拳から生まれた一条の光が、ホロウの胸板を貫く。
ゆっくりと、眠りにつくように、ホロウの体は礫の体に覆い被さる形で地に落ちていった。
最後の『音』の存在を感知したのだろうか。空間に満ち満ちていたネガイウタの悲鳴がぴたりと止まる。
ホロウは、その様子をぼんやりと眺めていた。
終わりが来たのだと、何処となく淋しくもある達成感を胸中に秘め。
こちらを覗き込んでいる礫の顔を、視界の端に捉えて。
……ひでえ顔だ。
そのようなことを、独りごちる。
彼女の顔は、紙を丸めたようにくしゃくしゃで。必死に噛んでいる唇の端が、ふるふると小刻みに震えていた。
それらが、今はもう霞掛かったようにぼやけて見えている。
耳に入る周囲の音も、潮騒のように遠く。
子守唄のように、心地良かった。
「……分かってたよ……」
礫は言う。言葉と共に零れそうになる涙を、懸命に堪えて。
「……最初から……殺す気なんてなかったんでしょ、ボクのこと……だから……」
今までの、らしくなかった言動の全ての意味は──
ああ、そうだ。
ホロウは、そんな彼女の言葉に微笑みを返した。
元より、そのつもりだった。
憎まれて消えた方が、彼女の心は痛まないだろうと。
そう、思っていた。
「……馬鹿……!」
頬に、ぽたりと熱いものが落ちる。
「……バレバレだよ! それに……それに、そんな程度でボクがキミのこと嫌いになるわけないじゃないのさ! パートナーのこと、見縊らないでよ!」
……言われちまったなぁ……
ふふ、と彼は肩を震わせた。
その動作も、じっと集中して見ていなければ分からないほどに僅かなものだ。きっと彼女が気付くことはないだろう。
ホロウの全身が、真っ白な光の粒を放ち始める。
他のモールダーと同じように、彼もネガイウタの中に還る時が来たのだ。
この役目を背負わされて8年。この世界が誕生して、もうそんなに経っていたのかと改めて身の上を振り返る。
最初にこの世界をヴァーチャルという形で創ったのは、他ならぬ彼自身だ。その時は、よもやこんな事態に陥るとは予想すらしていなかった。
試運転のために自分の分身に最高レベルの能力値を持たせ、サポート役として供につけたAIには特性比較のために複数の属性と戦闘職を与え。
自ら物語を主人公として辿り、問題がなければ世間に公開するつもりで、調整を進めてきた。
何処に問題があったのだろうか。AIが自我を持ち、現実世界の住人になろうと企むとは。
何がいけなかったのだろうか。その結果として自分と『彼』が入れ替わることになろうとは。
これは、罰なのだろうか。少年時代の夢を見続けようとした自分に対しての。
これは、断罪なのだろうか。歪んだ輪廻の理を構築した存在を、止められなかった自分への。
何が課せられた罪で、何が与えられた罰なのだろうか。
分からなかった。だが。
全ての元凶であった存在は、もういない。『彼』の後釜が誕生しない限り、悪戯に翻弄される人間が、これ以上増えることはないだろう。
それだけは、確かだと胸を張って言えた。
「……悪かった、な──」
今にも消え入りそうな声で、呟いて。
ホロウは完全な光の欠片となり、頭上に展開したままのネガイウタへと吸い込まれていった。
新たな文字が書き加えられ、そうして完全な姿になった神の唄は、声高らかに歌い始めた。
神秘的なハーモニーが、礫の身体から疲労を払い、彼女を立ち上がらせる。
祭壇の方を向けば、そこには。
己自身で弦を爪弾き、曲を奏でるクインテット・カルバールの神々しい姿があった。
『──問おう。汝が願いを──』
男性のものにも女性のものにも聞こえる透明な声は、世界に唄と楽器を取り戻した英雄に、問う。
遂に、この瞬間が来たのだ。
礫は祭壇の段差を静かに上がり、クインテット・カルバールの正面に立った。
神に拝謁しているような感覚だ。実際、目の前に鎮座している黄金の楽器は、何か神聖な生き物のように目に映る。本当はこうして立ったまま向かい合っていること自体が、畏れ多いのかもしれない。
「……どんなことでも、叶えられるの?」
礫が問いかけると、クインテット・カルバールはふた呼吸ほどの間を置いて、答えた。
『──神に、不可能はない。時を操り、摂理を組み替え、燃え尽きた命の灯を再度灯すことも、可能である』
燃え尽きた、命の灯──
白亜を、蘇らせることができる。
ホロウが言っていた通りに。親友を取り戻し、元の世界に帰ることができるのだ。
そのために、礫は此処まで来た。今更、遠慮する必要はない。
「ボクは……」
礫は、願う。此処に来るまでに、ずっと胸中に秘めていた願望を。
願いを口にすれば、クインテット・カルバールに頼めば、それで、全て終わる。
「ボクは、白亜を──
──────」
彼女は言いかけた言葉を、飲み込んだ。
背後に、振り返る。
ステンドグラス越しの光が照らす床には、先程まで此処で繰り広げられていた戦いの跡が残っていた。
此処で何人もの人間が刃を交え、血を流し、騙し合い、真実に絶望し、最後の一手に希望を託して。そうして『ネガイウタ』の物語を紡ぎ、消えていった者たちの──ホロウの姿が、7色の光の中に見えたような気がしたのだ。
キミたちは、今までずっとこの世界のことを見てたんだね。何度も、何度も──
ネガイウタを、仰ぎ見る。
かつての自分と同じ道を辿る者と、同じ形で繰り返されるこの世界の物語を、彼らはどんな目で見つめていたのだろうか──
礫は、正面へと向き直る。
彼女の言葉をずっと待っていたクインテット・カルバールに向けて、彼女は大きく深呼吸をした後、自らの願いを口にした──
「……礫?」
唐突に名を呼ばれ、礫は我に返った。
肩に誰かの手が触れる。
振り向くと、そこには怪訝そうに彼女のことを見つめている白亜の姿があった。
「どうしたの? ぼーっとしちゃって」
「え……」
礫は辺りを見回した。
装飾が見事な宝剣に盾、口が開いた宝箱から溢れ出る骨董品に金貨の山、プロペラが回転を続けている古風な飛空艇の模型──そのようなものが幾つも展示された広いロビーの一角に、彼女たちは立っていた。
2人の他にも多数の人間が忙しく出入りを繰り返しており、雑踏の中にいるかのように周囲は騒がしい。ほとんどの者が彼女たちと同じようにエントリー用紙と携帯電話を手にし、雑談を交わしながら紙面に筆を走らせている。
手中に視線を向ける。
彼女の左手は、全ての項目に記入を終えたエントリー用紙を掴んでいる。
全て、記憶にある光景だった。
「……ん……何でもない」
曖昧にかぶりを振って。礫は、ふと思い出したように親友に向けて言葉を投げ掛けた。
「ね。白亜は、もし本当にネガイウタが存在してたら、何を願いたい?」
「え? ……うーん、そうだなー」
唐突な質問を特に不思議がる様子もなく、白亜は小首を傾げてしばし考え込むと、
「……急に言われても、浮かばないわ。でも、本当に『ネガイウタ』の世界があったら、まずは冒険してみたいかなって。世界の危機を救うために戦うって、何だかカッコイイし」
言いながら目を輝かせる白亜を、礫は他人からは分からない程度の複雑な表情で見つめた。
「この世界を……『ネガイウタ』を、生まれる前に戻すことってできる?」
礫は、ゆっくりと左右を見回して、言った。
「幻想ってさ、現実にできないから幻想って言うんだと思う。無理矢理現実にしたから、何処かおかしくなっちゃったんだよ。……『ネガイウタ』は幻想のままでいた方が、皆にとっての『夢』になれると思うんだ。
ボクは、『ネガイウタ』が好きだよ。だから、好きなままでいられるように、この世界を現実になる前の形に戻してほしいんだ」
クインテット・カルバールに、今の言葉が通じるかどうかは分からない。
しかし、これが真に願うべき願いなのだろうと、礫は信じて疑わなかった。
此処で白亜の蘇生を願っても、確かに彼女は蘇るかもしれないが、この世界と同胞された理は残されたままだ。ネガイウタの一部となったホロウや、その他の人間はそのまま此処で生き続けることになる。
それでは、本当の終わりにはならないのではないだろうか。
ホロウも、オルバも、テラも、本当は望んでいたはずなのだ。この世界の呪縛から解放されて、現実世界の住人に戻ることを。
彼ら全てを此処で蘇らせたとしても、この世界が残っている限り、いつかはまた繰り返される。彼らは此処にいなくても、別の誰かが、同じ物語を繰り返すことになるだろう。
2度と、繰り返さないために──そのためには、こうするのが良いのだ。
『──それが、汝が願いか』
クインテット・カルバールが問う。
礫は、頷いた。
『──叶えよう──』
ごう、と広間に烈風が吹き荒れる。
ネガイウタの力が開放されたのだ。
視界を塗り潰す強烈な虹色の光が、室内のみならず、宵闇に満たされた外の世界にも広がっていく。
何も見えなくなっていく中で、礫は、彼女に背を向けて何処か遠くに去っていくホロウの小さい背中を見たような、そんな気がした。
「きっと、楽しいだろうね。ボクもそう思うよ」
礫は相槌を打った。
「……でも、楽しいだけじゃないと思うよ。冒険って、要は人と魔物の殺し合いだしね。ヴァーチャルリアリティの世界になったとしても、ゲームはゲームのままで楽しむのが1番。ボクたちにとっては、それで十分だよ」
「そう?」
今度は、白亜は怪訝そうに問い返してきた。
しかし、特に深く追求するほどの興味も持たなかったのだろう。彼女はそっかと軽く応えると、視界の隅の方にあるカウンターを顎で指し示した。
「行こっか」
カウンターには、1人の青年が滞在していた。奥の方に設置されたオブジェの樽を椅子代わりに腰掛けて、ロビーを往来する大会参加者たちを楽しげに眺めている。
紫の布に金糸で施された刺繍や、要所にあしらわれた大粒の宝石に貴金属が見事な衣裳を纏った金髪碧眼の青年だ。魔術師を意識したスタイルが、元々日本人離れの容姿を持つ彼によく似合っている。
礫たちにエントリー用紙を渡した大会のスタッフだ。
何処かで見たことがある風貌の彼は、礫たちからエントリー用紙を受け取ると、小さなピンバッジを彼女たちに渡しながら説明を始めた。大会会場の場所、ピンバッジの意味、会場内での注意事項など──そして全てを説明し終えると、微笑みながら会釈をした。
「御武運を」
「エレベーター、あっちみたいだね」
進む方向を確認した白亜が、礫の腕を引く。
そんな彼女に先に行っててくれと一声掛けてから、礫は改めてカウンターの青年に向き直った。
「……あの。『ネガイウタ』の開発者の方に、伝えて頂けませんか」
唐突に話しかけたにも拘らず、真面目に彼女と向き合ってくれる青年に、続ける。
「ボクは、『ネガイウタ』に出会えて良かったですって……そう、伝えて下さい」
「……ありがとうございます」
青年は笑った。
「必ず、お伝えしておきますよ」
親友の背中を追いかけて小走りでロビーの奥に去っていく少女を眺めながら、青年は独りごちた。
「──まさか、あんな願い事をするなんてな……予想外だぜ」
唇を舐めて、さもおかしそうに肩を上下させる。
「おれも、色々教えられたよ。ただ願って夢見るだけじゃ、駄目なんだってな」
礫の姿は、もう見えない。
大会の開始時刻が迫っているためだろうか、往来する人々の数も、徐々に減りつつある。
何故、彼女同様に自分にも記憶が残っているのか──
それは結局分からなかったが、その記憶が残ったままだからこそ、彼には言える言葉があった。
それは。
「──ありがとうな、礫」
──今以上に研究を重ねて、もう1度、『ネガイウタ』に命を与えてみせる。
今度は、誰も絶望しないような。皆が笑顔で過ごせるような世界を創り出してみせる。
現代の技術では、それを実現するには達成困難な課題が幾つもある。それを全てクリアした頃に、どれだけの歳月が過ぎているかは想像もつかない。
それでも。もう1度、世に『ネガイウタ』の世界に続く門を開くことができたとしたら──
その時は、また、遊んでくれよな。




