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「やっと……終わったね。引っ越し」
「ああ……まだダンボールの中の荷物はたくさんあるが、少しづつ片付ければいいだろう」
「疲れた……。ねえ、今日はもう夕飯出前にしない? 外食にでかける気力もないよ」
「そうだな。私もせっかくの新居で、最初の夕食を食べたい」
二人で並んでソファに座り、出前で何を食べるか……と話すのだけど、考える気力もわかない程に疲れきっていた。それでも明がとても楽しそうだ。
「今日が初めて二人きりの夜だね。こんなに長く時間がかかるとは思わなかったな」
「そうだな……遠回りだったが、長かった分とても嬉しい」
互いによりかかり、重ねた手と手。引っ越しはスタート。これから二人の人生は、長く続いていく。最初の一歩だ。
「ごめん……ちょっと眠い。夕食の前に……一眠り……」
「私も……少し休む……」
疲れがたまってたのか、なんだか急に眠くなってきて。二人でソファに座ったまま、眠りに落ちた。
「エド、起きて」
明の声で目覚める。なんだか焦った声に聞こえるのだが、気のせいだろうか? まるで初めて私がこの世界に来た日のように。
眼を開けたら部屋の中が明るかった。一晩ぐっすりソファで寝て、朝になってしまったのだろうか?
明が真っ青な顔で私の手を引く。
「これを見て!」
そう言って、リビングの窓のカーテンを開けた。窓の向こうには猫の額程に小さな庭があって、その向こうにはすぐ隣の家がある……はずだった。
だからカーテンを開けた瞬間、思わず眼を疑い、幻を見てるのだろうかと思った。
窓の外は一面の草原が広がっていた。
現実感の乏しい景色を見ながら、窓を開けると、風に乗って草の匂いが部屋に入ってくる。
「リアルすぎる夢だな」
「本当にリアルだよね……この葉っぱの手触りとか……」
明が草原の葉を毟って手のひらに乗せる。いきなりその草を口にいれた。
「あ、明?」
「この葉……甘い。たぶん薬効成分あるよ」
恐る恐る私も口にすると、青臭い香りとともに、確かにほのかな甘みを感じた。その時雷にうたれたように、子供の頃の事を思い出した。
「甘蜜草……」
「へ?」
「帝国でそう呼ばれていた草だ。どこにでも生えていて、栄養が高く、薬としても使えて、子供が手頃に菓子代わりに口にできる。飢餓に備えて、どこの家でも刈り取って乾燥して保管をしていた」
「……帝国では……って事は……まさか……あ!」
明が突然口を手で押さえて私を見上げた。
「そうか……そういう事か。ねえ、エドガーって、碧海帝国の初代帝の名前だったよね?」
「そうだな」
「で……初代帝の妻は神だったよね」
「……」
「草原が続くばかりの何も無い土地に、一組の若い夫婦が、家と共に、突然現れた……」
「まさか! ありえない」
「でも……そう考えると全部辻褄があうんだよ。この家が本当に『始原の家』で、私達が『始まりの二人』」
明の推測に思わず目眩を感じた。子供の頃聞き続けた、自分の国が生まれた歴史物語。まるで物語のような作り物めいた話に、子供心でもただの伝説だと思っていた。
「……馬鹿な……それでは、私の先祖が、私になってしまうぞ」
「本当はタイムパラドックス……なんだけど、私が書いた物語って、色々適当に作りすぎて、抜けや漏れだらけだったし、ありえなくはないよ」
妙に冷静で静かな明の様子に違和感を感じた。諦めと悟りの境地のような、その静かで感情が抜けたような顔つき。思わず両肩を掴んで揺さぶった。
「本当にそうだとしたら……日本に帰れないという事だぞ。明。いいのか? それで。父や母や、京殿にもう会えないのだぞ」
「しかたがないじゃない……だって……もし、日本に帰る方法があったとしても、帰ってしまったら、帝国は生まれない……よね?」
震える唇を噛み締めて、ぐっと堪える明の姿にたまらずに、強く抱きしめた。
「明。強がりは言わなくても良い。どうせここには私しかいない」
耳元で囁いたら、明の口から涙声がこぼれ落ちた。
初めて異世界にやってきて、必死に生き抜いて、私達が引き止めても「帰りたい」と嘆いた明。そしてなんとか帰って平和に10年以上日本で暮らしたというのに、まるで逆戻りではないか。
私も日本で生きると覚悟して、必死に仕事を探し、国籍をとって、藤島家という家族ができて、やっと日本に居場所ができたというのに……。日本で過ごした日々を思い起こすと昏い気持ちになる。
だが……明は私以上に辛いはずだ。
明がしばらく泣いて、落ち着いてきたころ、そっと顔を覗き込んだ。手の甲で涙を拭い、明は健気に微笑んだ。
「日本に帰りたい、お母さんやお父さんやお姉ちゃんにまた会いたい。……でも、こういう気持ち、エドもあったんじゃない? 世界を捨てた時」
「……そうだな」
日本に来たばかりの頃。そう思わなかったと言えば嘘になる。なんとか必死に日本に馴染まなければと前向きに努力していたが、それは帰りたい気持ちに蓋をする為の、逃げでもあったのかもしれない。
「エドは私の為に国を捨てて、世界を超えてついてきてくれた。今度は私の番だよ」
明が私の手を強く握りしめて見上げた。その眼は驚く程に力強く輝いた。
「昔の私よりずっと成長してる。医者の知識や技術はきっとこの世界でも役立つ。もうお荷物じゃない。だから……」
明は私の手を引いて、外に飛び出した。素足のまま草原に足を踏み入れる。素足に草がちくちく刺さるが、そんな事も気にならない程綺麗だった。
澄み切った青空と、何処までも続く碧海。その鮮やかな景色の中で、日の光を浴びて、明は笑った。
「エドと私が出会う未来の為に、二人で国を創ろう。これからもずっと一緒だよ」
どんな暗く苛酷な逆境にあっても、消える事のない「明るい笑顔」。これこそが、私が一番惹かれた明の魅力。
明の手を握り返す。重なる手と手を、力強く繋いで。どれ程困難な道でも、二人なら切り開ける。そう信じて。
「ずっと……ずっと……一緒に歩こう。二人で力を合わせて」
明の瞳には強い覚悟が滲んでいた。昔から強かったけれど、今は途方もなく強くなった。
何処までも広がる碧海。今はただ草しかないこの地に、私が生まれた国ができる。国創りなんて想像もつかない程に苛酷な道かもしれない。それでも私の「明」は行く道を照らしてくれる。
「世界を創ったくらいだもん。国創りだってできるよ」
悪戯っぽく笑う明を抱きしめた。
草原に国はなくても、家はある。一度は捨てた王の立場。
今度こそ抱えて生きよう。愛する明とともに。
『ホームレス王子』終




