13.ステビアとディルの気持ち
昨日の朝までいた場所だったとは思えないほど、セルリーの小屋は懐かしく感じられた。周辺には草木が茂り、耳を澄ませば川のせせらぎが聞こえてくる。改めて考えると、かなり暮らしやすい場所のようだ。セルリーがそういう場所を選んで小屋を建てたのか、彼を気に入った森の妖精があとから恵まれた環境にしたのか……あたりにちらほら咲いた野花が、かすかに吹いた風に揺れている。
森の妖精らしき姿は近くに見えなかった。そもそも妖精というものが、天使であるアンゼリカと同じように人の目に映る存在であるかどうかもわからなかったけれど。
エルダーは小屋に向かうと木の扉を軽く叩いた。
しばらく待っていると、セルリーがぬっと顔を出す。ちょっとびっくり。
「おお、エルダーか。一人でよく来たな」
「煙、助かったよ。ありがとう」
「ん。まあ、入れ」
招かれるまま、エルダーは小屋の中に入った。ステビアはいない。
あたりを窺っていたのがばれたのか、セルリーがぼそっと答えた。
「ステビアはあっちの部屋だ。愚図って出てこない」
曖昧に笑っておいた。
椅子を勧められたので座る。セルリーは湯が入った木のコップをエルダーに渡すと、自分も同じものを持ってエルダーの前に腰掛けた。無言で飲むので、エルダーも無言でこくこく飲んだ。
エルダーとしてはリコリスに頼まれた通り、ステビアを連れて帰ることができればそれでいいのだけれども……部屋にこもった相手を引きずり出そうと思えるほど、このおつかいにやる気があるわけではなかった。
「……どうだ? リコリスのところは。キャラバンについていくって聞いたが、大丈夫か?」
湯を飲みながら、ちらりとセルリーを見上げる。顔立ちはきつくても、よく見ればその瞳が優しいことはわかる。あとのことはリコリスやバジリコに任せると言いながら、セルリーはやっぱり最後まで気に掛けてくれようとしている。
こっくりうなずいた。それを見たセルリーは、ほんの少しだけ寂しそうに笑った。
「エルダーは強いんだな。まだそんな小せえのに、泣き言一つ言わねえ」
そう言って伸びてきた手が、帽子の上から頭をなでてくる。
「ディルはどうだ? アンゼリカは」
「ディル、熱を出して倒れちゃったんだ。アンゼリカはそばについてるよ」
「なんだって?」
セルリーが驚いたのと同時に、それまでしんとしていた奥の部屋からがたっという物音が聞こえてきた。エルダーはちょっとそちらに目をやってから、セルリーのまんまるい瞳に視線を戻す。
「じゃあ、ステビアは、そんな状態のディルを放っておいたってことか?」
それは知らない。事実関係になど興味のないエルダーは、さあ、という気持ちを込めてセルリーを見つめた。セルリーの瞳は驚きから怒りへ色を変えたようだった。
それから勢いよく立ち上がったセルリーは、奥の部屋の扉をばんと開け放った。そこにまっすぐ立っていたのは、灰色の髪と鈍色の瞳を持った少女。着ていたワンピースの裾を強く握り、眉間にしわを寄せて、口を真一文字に結んでいる。まぶたが少し腫れていた。
見下ろすセルリーと、目を合わせようとしないステビア。
「……ち、違うもん。あたし。あたし、そんなの知らなかった――」
「ステビア、さっきも言っただろ。ディルは一人ぽっちで、すごく寂しいんだ。怖い思いをしてるんだ。優しくしてやらないといけないんだ」
「嘘よ! ディルは帰れなくていいって言った! 言ったもん!」
「そう言ったのが嘘なんだ。家があるのに帰れなくてもいいなんて、誰も思わねえさ」
エルダーはぽろぽろ涙をこぼして訴えるステビアの言葉に、ふうん、と思った。ディルがそんなことを言ったのか。
そして、セルリーの言葉にもふんふんうなずいてみる。ディルが言ったことは嘘。
確かに、家があるのに帰れなくていいなんて、無意味なことこの上ない。帰れないではなく、帰らないと言っているようなものだ。エルダーはセージが一人でお茶会をして待つ家に帰りたいと思っているし、今すぐには帰れなくても、帰らないぞなんて考えたこともなかった。だってあの場所はエルダーの家なのだから。
「でも、仕方ないって言っていたのよ? 帰れないのは仕方ないって、ディル……、あたし、わからない。お父さんは違うの?」
「なにが」
「お父さんは帰ろうとしてくれてるよね? 帰れなくていいなんて思ってないよね?」
セルリーが絶句した。エルダーは湯を飲みつつ、そういえばこの二人って親子だったんだっけと、椅子に座ったまま感慨深げにその光景を眺めている。泣きじゃくるステビアの前に膝をつき、彼女をぎゅっと抱きしめたセルリーの大きな背中。エルダーは、これが親子というものかと、考えている。
エルダーには物心ついたときから「親」というものがいない。気が付いたらあの家に一人で暮らしていて、小さなときはまだ、セージがそばにいた。昔のセージは今のように奔放に旅に出たりせず、エルダーの相手をよくしてくれた。セージは生きていく上で必要なことはなんでも教えてくれた。
エルダーの「親」は、この世にいない。「父」はエルダーが生まれる前に他界し、「母」もエルダーを産んですぐに亡くなったそうだ。セージはその二人の友人だったと言っていた。とても仲良くしてもらったと笑っていた。エルダーはいわゆる――忘れ形見なのだと。
セージのことをエルダーの「育ての親」と呼ぶのは簡単なことだろう。しかし、エルダーはセージのことをそんなふうに思ったことはない。セージもそれを望まなかった。セージはエルダーに、自分は友達だと、教えた。
それは正しかった。エルダーはあんなふうに、セルリーがステビアにするように、セージに抱きしめてもらった記憶はない。そうしてほしいとも思わない。セージはやっぱり友達だ。
*
エルダーは泣き止んだステビアを連れて、草原を歩いていた。ディルと何があったのかは結局よくわからなかったけれど、彼女はセルリーの小屋を出てから一言も口をきかないし、エルダーとしても何かしら言及する気がないので黙々と町に向かっていることになる。
乾いた風が吹く。日が暮れるにはまだ早い時間、ピクニック帰りにも見えるかもしれない二人。
しばらく歩いて、ピャーチに帰ってきた。町の地形を覚えていないエルダーはステビアを振り向き、そこから先の案内をお願いする。さっきまで泣き腫らして赤くなっていた彼女の目は、今ではすっかり元通りだ。
プリヴェートに戻ると、ステビアはリコリスに怒られた。ディルを一人にしたことと、何も言わずにセルリーの元へ飛び出したこと。それからエルダーに重ねて礼を言い、ディルに謝るようにぐいぐい背中を押した。とぼとぼと階段をのぼるステビアと、リコリス、最後にエルダー。ディルが看病されていた部屋の前の壁にバジリコがもたれかかっていた。
ステビアとリコリスが部屋に入り、エルダーはその場でバジリコにディルの様子を尋ねることにした。
「おう、エルダー。ご苦労さん」
「ただいま。ディルはどう? よくなった?」
「気になるなら見にいきゃいいじゃねえか。変わったやつだな」
「立て込んでるだろうから」
「そういうもんかねえ」
聞いたところによると、ディルがあまりに苦しむので、医者を呼んだらしい。高熱を出していたディルは解熱剤やらなんやらの薬を処方され、今は落ち着いているとのこと。熱の原因はいろいろ考えられるそうだが、バジリコに事情を聞いた医者はやはり疲労の蓄積を指摘した。ついでにその医者とやらはディルが一欠片も魔力を持っていない点を取り上げ、それもここまで症状を悪化させた原因にあげられるかもしれないという診断をしたらしい。世界に溢れているはずの物質を体内に持たないディルは、もしかすると魔法陣を踏んで移動させられたときに何か変な影響を受けてしまった可能性があるのだとか。恐らく一時のことだから、きちんと休んで体力が戻れば大丈夫だということだ。
エルダーはディルのことをかわいそうに思った。
「あいつ、ステビアと喧嘩したんだってな。聞いたか?」
首を横に振る。
「ディルが吐いた弱音を、セルリーのことと重ねちまったんだと思うよ」
「どういうこと?」
「ほら、お前ら、こんなとこまで来ちまっただろ。帰るの大変じゃねえか。ディルがそんなようなことを言ったもんだから、セルリーもそうなんじゃねえかと思って……」
「帰れないのは仕方ない?」
「それだ。別に仕方なくなんかねえのにな、ディルはちょっと愚痴っちまったんだ。無理もねえけどな」
ふーん、と答える。
しかし、ディルはそんな状態でいいのだろうか。エルダーと一緒にセルリーが助けてくれた少年だ、少なくともこの町を出るまでは置いていけないというのに。アンゼリカがいればなんとかなるかと思っていたけれど、このままでは何か手を打つ必要があるかもしれない。
セージが一人で旅をしていた理由がわかる気がする……。
しかしエルダーはそんな気持ちをおくびにも出さず、洗濯物を取り込むために杖を振り上げた。