11.花束と荷車と雪国の獣
裏口に着いたディルは、そこでこちらを睨んでいる少女にちょっとひるんでしまった。アンゼリカはそばにいない。そんなことを考えてしまう自分が嫌で、心の中で首を横に振った。何も思い浮かべないようにして、ステビアの元へ歩いていく。
彼女の後ろには木で出来た荷車があり、その中には花がたくさん入っていた。ディルはすぐに気が付いた。あの花だ。セルリーがリコリスに贈った、小さな白い花。それが運んできたときと同じくらいの量、というか丸々そこに収まっている感じだった。
ステビアが顎で荷車を指す。態度が大きすぎる。ディルは呆気に取られた。
「さ、行くわよ。それ運んで」
しかし、ステビアはそんなディルの様子を気にすることなく、裏口からさっさと出て行ってしまった。ディルは慌てて荷車を引き、ステビアのあとを追う。
石造りの大きな通りを、少女と少年は進む。
「あのさ、ステビア……さん。アンゼリカたちはどこに?」
「ステビアでいいわ。アンゼリカちゃんたちは出掛けてるのよ。バジリコと一緒に」
「一緒に……」
大通りを曲がり、奥の小さな路地をしばらく行ったところで、ステビアが足を止める。
木製の扉に取り付けられた金属のドアノッカーを鳴らし、一歩下がった。
ディルは考える。エルダーはともかく、アンゼリカまで「一緒に」だなんて。自分を置いていくなんて。
もういいやと思ったはずなのに、なかなか吹っ切れない。
「あら、ステビアちゃん。どうしたの?」
叩かれた扉を開けて出てきたのは、どこかふんわりした印象の壮年の女だった。ステビアが笑顔を浮かべる。
「こんにちは。あの、うちのお母さんがたくさんお花をもらったんですけど、置くところがないのでもらっていただけませんか?」
言いながら、ディルの運んできた荷車の中の花を振り向く。
「あら。それ全部、セルリーさんから?」
「そうなんです」
「リコリスさんも愛されてるわねえ。でも、いただいていいの?」
「はい。このままじゃ枯れちゃうだけですから」
「そう。なら、いただこうかしら」
「ありがとうございます!」
そんなやりとりのあと、花を手に取ってまとめると、ステビアはその花を女に渡した。
ディルはそれをぽかんを見ているだけ。
残り少ない午前の時間で、ステビアは配れる限りの花を配っていった。
*
正午を回ったくらいの時間になると、二人はちょっとした広場の隅に荷車を置き、昼休憩を取ることにした。起きたばかりのころはまったく感じていなかった空腹に悩まされていたディルは安心した。昼食を買ってくると言ってどこかへ向かったステビアを見送りながら、減ってきた荷車の花を眺めたりする。
エルダーやアンゼリカのやっていることもよくわからないけれど、リコリスのしていることもわからない。大切な人からもらった花束なのに、それをいろんな人に配ってしまうなんて、ひどい気がする。
花から目を離し、広場から見える町並みを眺めた。青い――ひたすらに、青い町。空腹のせいか、何か物事を考えるのがとても面倒くさく感じた。
しばらくぼーっとしていると、両手に何かを持ったステビアが帰ってきた。
「お待たせ! はい、これ、あなたの分ね」
「ありがとう。なに、これ?」
「お昼ご飯」
ステビアに差し出されたものを受け取りつつ、ディルはどうでもいいかという気持ちになる。食べられるのならなんでもいいや。
薄い紙の包みにくるまれていたのはいろいろなものが挟まった平たいパンだった。何かの肉だとか野菜だとかが並んでおり、何かのソースが掛かっていた。そういえば、よく似た食べ物をエットという街で見た気がする。確か、街の人々は直接かぶりついていた。
荷車に軽くもたれかかったとなりのステビアも、その食べ物にかじりついている。
ディルはそれを真似た。なかなかいける味だ。
「あのね、あたし、あなたに聞きたいことがあるんだけど」
もぐもぐ食べていたディルに、すでに食事を終えたステビアが切り出した。ディルは不用意に彼女と目を合わせてしまう。
「そんなふうで大丈夫なの?」
……。
「なに、が?」
ディルはちょっとどきどきしながらそう聞き返していた。なかば反射だった。
「なにが、じゃないわよ。エルダーは手伝いしたりして頑張ってるのに、あなたは何もしなくていいのかって聞いてるの」
ステビアの瞳は鈍色だ。髪は雪国の獣の冬毛を思わせるような明るい灰色。肌も白い。けれどそばかすが浮いている。
顔立ちは父親に似たのか、少しきつい。
ディルはそんなことを言われても、返す言葉などない。
そもそもエルダーがなんだって? 手伝い? そんな話自体、いま初めて聞いたぞ。
「なんだかよく知らないけどさ、もっとしっかりしなさいよ。家に帰らなくちゃいけないんでしょ? それとも帰れなくていいわけ?」
帰れなくていいわけ?という言葉に、ディルは少しぞわりとした。今までの、アンゼリカと一緒に近くの町まで冒険気分で出掛けていたときは、日が暮れるのが憎らしかった。だって、帰らないといけないから。その日のうちに屋敷に帰らなければならなかったから。
でも、今は帰れない。こんな遠いところまでやってきてしまったから、帰ることができないのだ。
ディルはそのことにどこか、温かな光を見た気がした。それはまるで救いか何かのようで。
「……帰らなくちゃとかじゃなくて、帰れないんだ。仕方ないだろ?」
だから、そんなことを言った。
エルダーがしっかりしていたとしても、自分の知らないところで手伝いなんかしていたとしても、だからって今すぐ帰れるわけではないじゃないか。泣かなければ明日にでも家に辿り着くっていうのか?違うだろう。何をしたって、しなくたって、帰れない。同じことだ。仕方ないことじゃないか。
変わらない。何かしてきた今までだって、どうにもならないことはたくさんあった。魔法使いのエルダーや天使のアンゼリカはどうだか知らないけど、自分が何をしたってどうにもならない。もういいじゃないか。
ステビアの表情が険しくなった。
ディルはその顔に見覚えがあった。あ、馬鹿にされた――。
「あんた、なに言ってるの? 仕方ないってなに? なにもしてないくせに、どういうこと?」
またその顔か。こんなところでもそんな顔されちゃうんだ。
ディルは少し吐き気を覚えた。
「帰れなくていいってこと? 信じられない。最低!」
そう言うとステビアは荷車にもたれさせていた体を離し、ディルに背を向けると駆け出した。小さな白い花は荷車にまだたくさん残っているというのに、わき目もふらずにどこかへ一直線だ。ディルはそれをぼんやりと見送り、小さな姿が見えなくなってから、知らない広場に一人きりにされたことに気が付いた。
日はまだ高いけれど、どうやったらプリヴェートに戻れるのかわからない。
取り乱したりはしなかった。ただ、はあ、とため息をついて、途方に暮れるだけ。
プリヴェートに戻ったからといって、できることなど何もない。
ステビアのくれた昼食を食べるのを止めて、小さな白い花がたくさん付いた茎を一つ摘み上げる。セルリーがリコリスのために一生懸命用意したはずのプレゼント。セルリーとリコリスは夫婦。それなのに、大切な贈り物はこうして他人に分けられていく。そんなものだと、ディルは思う。努力なんて。
それからもやもやしたものが胃の中をぐるぐる回り始めて、気持ち悪さを感じた。
そんなふうで大丈夫なのなんてステビアは言ったけれど、彼女にはわからないのだ。ディルの抱えたいっぱいいっぱいのこの感情が。だから、魔法使いのエルダーと平気で比べるし、しっかりしろなどと言えるのだ。そんなことを考えた。別に自分は間違ったことを言っていないのだし、こんなふうに重苦しいものを持っている必要なんかない。
ディルはおかしいな、と思った。どれだけステビアを悪者にしても、自分が正しいとは考えられない。間違っていないはずなのに、正しくもない。
「あら、さっきの男の子じゃない。ステビアちゃんはどうしたの?」
知らず知らずのうちに、うつむいていたらしい。掛けられた声に顔を上げると、ステビアが花を渡した壮年の女がそこにいた。
「……喧嘩でもしたの?」
怪訝な顔でそんなことを聞かれても、困る。ディルはぎこちない笑顔を作った。
そしてすぐに、こうやって大人の顔色を窺う自分が嫌になる。
「あなた大丈夫……?」
女が手を伸ばしてくる。ディルはそれを避けようと身をよじり、そして、後ろから何かに引っ張られたようにそのまま荷車に倒れ込んだ。世界がぐるっと回り、花の中に沈む。
起き上がるのも億劫だった。体に力が入らないし、なんだか寒気もする。
声が遠くなってくる。
誰もいないんだなあ――と、思った。