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水槽少女展  作者: 下呂娘
エピローグ
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17/17

放課後 『普通の水とポテトとペンギン』

 放課後のファミレスは、夕方になる前の半端な明るさの中にあった。


 窓の外では、駅前の通りを制服姿の学生がいくつも流れていく。自転車のブレーキ音、バス停に並ぶ人の話し声、どこかの店先で鳴っている呼び込みの音楽。ガラス一枚を挟んだだけで、それらは少し遠く、テーブルに置かれた水のコップの中で、氷だけが小さく鳴った。


 伊織は、そのコップを両手で持っていた。


「見て、普通の水」


 乃愛はフライドポテトを一本つまんだまま、返事をするまでに少し間を空けた。


「……何回目、それ」


「だって普通の水だよ。賞味期限も切れてないし、いくら飲んでも怒られない」


「水だからね」


 乃愛はそう言って、ポテトを口に入れた。塩のついた指を紙ナプキンで拭き、折り目に沿って適当に畳む。畳んだところで置き場所に困ったのか、結局、皿の端に押し込んだ。


 テーブルの端には、三人の持ち物が寄せて置かれている。


 伊織のスクールバッグのファスナーには、透明なクラゲのキーホルダーが揺れていた。店内の白い照明を受けて、傘の部分だけが薄く光っている。アリスのパスケースには、小さなメダカがついていた。銀色の体は控えめで、彼女のきちんと整えられた持ち物の中にあると、どこか本物の標本みたいに見えた。


 乃愛のスマートフォンには、ヒトデのキーホルダーがぶら下がっている。


 ピンク色のケースの角に付けられたそれは、画面を持ち上げるたびに小さく揺れた。乃愛は何食わぬ顔でスマートフォンを伏せたり起こしたりしていたが、さっきから画面には、短いペンギンの動画が流れている。氷の上で足を滑らせかけたペンギンが、何事もなかったみたいに立ち直り、群れの後ろをよちよち歩いていく動画だった。


「またそれ見てる……」


 伊織が言うと、乃愛は画面を少しだけ自分の方へ傾けた。


「かわいいよね、ペンギン」


「歩き方が変」


 乃愛は短く返したが、動画を止める気配はなかった。ペンギンがもう一度、画面の端で小さく転びかける。乃愛の口元が、ほんの少しだけ緩んだ。


 アリスは向かいの席で、メニューを開いたまま動かない。


 入店してから十分近く経っているのに、まだ注文が決まっていなかった。表紙、季節限定、グランドメニュー、デザート、ドリンクバー。ページをめくるたびに彼女の眉が少しだけ寄る。難しい本を読んでいる時と、ほとんど同じ顔だった。


「この、セットにするとお得、という表示は――」


「お得なんだよ」


 伊織が即答する。


「では単品で頼むと、損をしているということですか」


「そこまで考えるとファミレス難しくなるから……」


 アリスは真剣に頷き、今度はドリンクバーの方を見た。透明な機械の前で、小学生くらいの子どもが背伸びをしてメロンソーダのボタンを押している。氷が紙コップの中で跳ね、後ろに並んでいた母親が慌てて手を添えた。


「飲み物を自分で選び、自分で取りに行き、しかも何度でも戻ってよいという仕組みは、かなり大胆ですね」


「アリス、ドリンクバーで論文書けそう」


「まだ構成が足りません」


「書く気じゃん」


 伊織が笑う。乃愛も、声にはしなかったが、口元を少しだけ緩めた。


 三人のテーブルには、まだ一人分の余白があった。水の入ったグラスは三つ。ポテトの皿がひとつ。誰も手をつけていないメニューが、通路側の席の前に伏せてある。そこだけ、最初から四人で座るために空けていたように見えた。


 白凪水族館の報道は、いつの間にか終わっていた。


 世間は彼女たちを、救出された少女たちとして心配し、怒り、名前のない誰かとして語り、やがて別のニュースへ移っていった。忘れられたことが救いなのかどうか、彼女たちにはまだよく分からない。ただ、こうして放課後のファミレスに座っていられるくらいには、世界はもう彼女たちを見ていなかった。


 あの事件のことを、彼女たちはもう毎回話すわけではない。


 初めの頃は、会うたびにどこかの場面を確かめていた。大水槽の光。標本資料室の写真。スマホケースの裏。搬入口の床に落ちたクマノミ。世間が忘れていくぶん、自分たちだけは忘れてはいけない気がして、言葉にすればするほど本当にあったことになる気もした。逆に、言葉にしなければ、あの夜ごと薄れてしまうような気もした。


 数か月経つと、話題は少しずつ別のものに移っていった。


 宿題。電車の遅延。駅前にできた新しい店。アリスが自動改札で二回引っかかったこと。伊織がテスト範囲を間違えていたこと。乃愛がポテトを食べる時だけやけに静かになること。乃愛のスマートフォンに、なぜかペンギンのおすすめ動画ばかり流れてくること。


 それでも、誰かが遅れる日は、三人とも入口の方を一度は見た。


「遅くない?」


 乃愛がポテトをもう一本取った。


「五分くらいだよ」


「五分は遅刻」


「出た。乃愛ちゃんの五分ルール」


 伊織が笑いかけ、そこで入口の自動ドアが開いた。


 風と一緒に、外の音が少しだけ店内へ入ってくる。部活帰りの学生たちの声、信号の音、夕方の道路を走る車の低い響き。ドアの前に立った少女は、肩にかけた鞄を一度持ち直し、店内を見回した。


 髪が少し乱れていた。走ってきたのか、頬にわずかに赤みがある。手には小さな紙袋を提げていて、その端から、オレンジ色の包装紙が覗いていた。


 鞄の横で、クマノミのキーホルダーが揺れていた。


 小さなアクリルの体は、ファミレスの照明を受けるたびに、淡いオレンジ色を返している。水槽の中ではなく、彼女の鞄について、制服の布に何度も当たりながら揺れていた。


 伊織が先に手を上げた。


 アリスが、開いていたメニューを静かに閉じる。


 乃愛はポテトをつまんだまま、通路の向こうへ顔を向けた。


「遅いよ、つむぎ」


 少女は足を止めた。


 呼ばれた名前が、ファミレスのざわめきの中で、少しだけ遅れて届いたように見えた。けれど彼女は、もう迷わなかった。窓際の席にいる三人を見つけ、紙袋を握り直して、まっすぐこちらへ歩いてきた。


 伊織がグラスをひとつ、通路側の席へずらした。


 普通の水が、夕方の光の中で揺れていた。


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