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第1話

「佐藤さん、楽になりましたか?」

俺は佐藤さんの腕をさすりながら、少しずつ腕を伸ばしていく。

「ああ……」

佐藤さんの口元に、かすかな笑みが浮かんだ。呼吸も少し深くなった。


 ここは、特別養護老人ホーム『美しの園』の6人部屋 佐藤さんだけじゃない。周りを見渡せば、全員が手足を曲げて、不自然な「くの字」になって寝ている。寝たきりで体を動かさないと筋肉が固まり縮んでくる。こうなると、もう真っすぐになることはない。

「相川くん、また余計なことしているの?」

背後から冷たい声。ケアマネジャーの高橋さんだ。

「そんなことしても、どうせ拘縮するから意味ないわよ」

俺は振り返らず、佐藤さんの腕をさすり続けた。

「放っておくと拘縮が進みますよ。佐藤さんは腕の曲がりがひどくなって、息が苦しくなるくらい胸を圧迫しているんです」

「介護士は、マッサージもリハビリも禁止よ」

「これは服を脱がすために腕を伸ばしています。マッサージではなく、さすっているだけです」

「相川くん、あなた他の人の歩行介助もしているわよね」高橋さんは、事務的なトーンで言い放った。

「歩かれると困るのよ。転倒のリスクがあるでしょ。だから寝たきりにしているの。その方が安全だし、介護も楽なの」

(安全、か……入居者のことなんて考えてない。ただ、自分たちに都合がいいだけの言葉だ)

「だから佐藤さんも寝たきりにしたんですか。入所した時は歩けていたのに、たった半年でこんな姿になって、認知症も一気に進んでしまって…… 悪くなるのがわかっているのに何もしないのは虐待と一緒ですよ」

「それは病気の進行でしょ。私のせいじゃないわ」高橋さんは鼻で笑い、吐き捨てるように言った。

「あなたも早く現実を見なさい」

俺は何も言わず、佐藤さんの腕をさすり続けた。背後で舌打ちが聞こえ、足音が遠ざかっていった。

やめさせたいなら、やめさせればいい。そうしたらこの施設は回らなくなる。高橋さんも管理者も、それが分かっているから強く言えない。

佐藤さんの両腕を丁寧にさすり終えて、俺はスタッフルームに戻った。


スタッフルームでは、田村さんがラーメンを食べていた。職員が自分の食事を調理するのは禁止されているが、勝手に鍋を持ち込み、当然のように作って食べている。彼女は85歳。入居者の半分は田村さんより年下だ。若いころは看護助手をしていたらしい。

俺はパイプ椅子に腰を下ろした。体が重い。

「ちょっと、大丈夫? 顔が土色よ」田村さんが心配そうに覗き込む。

「大丈夫です」

「大丈夫じゃないでしょ。休みも取らないで、みんなにマッサージして回って。昨日の日勤から夜勤、日勤で連続何時間働いているの?」

「えっと、33時間勤務……この日勤が終わったら帰りますよ。でも、少しでも楽になってもらいたくて。今、俺が休んだら、誰が代わりをやるんですか。木村さんは子供が熱出して、斎藤さんは腰痛悪化して……」

「分かっているわよ、そんなこと」

田村さんが唇を噛む。

「体位交換とおむつ交換だけで手一杯。入浴だって週1回がやっと。できない週もあるし」

「リハビリなんて夢のまた夢ですね」

「管理者は『完全介護です』なんて家族に説明しているわよ。家族は信じて親を預けているけど……私は入りたくないわ、ここ」

「田村さんはずっと元気ですよ。風邪もひいたことないんでしょ」

「そうね。大丈夫かしら、へへ」

「相川くん。一杯飲む?」田村さんがコーヒーを淹れてくれた。

「ありがとうございます。いただきます」

「牛乳あったら、少しもらえないかしら」

「いいですよ。どうしたんですか?」

田村さんが、モジモジしながら言った。

「……私、最近便秘なのよ」

「ラーメンばっかり食べているからですよ。下剤使わないんですか」

「下剤は、だんだん効かなくなるのよ。中村さんなんて『今日は30滴入れてくれ』って」

「怖いな。酸化マグネシウムは?伊藤さんが自然に出る感じでいいって言っていましたよ」

「あらそうなの。今度試してみるわ。あー今は、摘便したいわ」

「やればいいじゃないですか」

「職場で摘便なんて出来るわけないでしょ。やーね。はっはっはっ」

田村さんが豪快に笑う。

「はは……」俺も一緒に笑った。


ピピピピピピピピ。

コールが鳴った。202号室。山田さんだ。

「ずずっ、ずずー。私、まだ勤務時間前なのよ」

田村さんはラーメンをすすりながら動かない。

「食べていてください。俺が行きます」

コーヒーを一口飲んで、俺は立ち上がった。足がふらつく。廊下の手すりに手をつきながら、一歩一歩進んだ。


「山田さん、どうされました?」

80歳の山田さんがベッドの上で不安そうに座っていた。

「あ、あの……トイレに……でも、場所が分からなくて……」

「大丈夫ですよ。一緒に行きましょう」

俺は笑顔を作った。どんなに疲れていても、入居者の前では笑顔でいる。

山田さんをトイレへ誘導し、一緒に部屋へ戻った。その間、朦朧としていたが、長年の経験が体を自動的に動かしていた。

ベッドに腰を下ろした山田さんが、不安そうに言った。

「高橋さんに言われているの。おむつにしなさいって」

「そんなの従わなくていいですよ。歩けるうちは歩いてトイレに行きましょう。遠慮なく呼んでください」

「ありがとう……あなた、いい人だね」

山田さんが、しわくちゃの手で俺の手を握った。

「私はもう……何も分からなくなってきているけど……あなたみたいな人がいてくれて……嬉しい」

「山田さん……」

「でも、無理しちゃダメだよ。あなたも……大切な人なんだから」

その言葉に、俺は何も言えなかった。

202号室を出て、スタッフルームに戻る途中だった。

突然、激しい動悸が襲ってきた。心臓が早鐘のように打ち、冷や汗が噴き出す。視界が歪み、足元がおぼつかなくなる。

気がつくと、廊下に膝をついていた。

「相川くん!」

田村さんの叫び声が聞こえる。

「救急車! 誰か救急車を!」

「血圧計持ってきて!」

「AEDの準備!」

スタッフたちの慌ただしい声が、まるで水中から聞こえてくるかのように遠い。意識が薄れていく。

走馬灯のように、今までの出来事が脳裏を駆け巡った。

最後に浮かんだのは、入居者たちの顔だった。明日も俺を待っているはずだった人たち。

俺の意識は、深い闇の中へと沈んでいった。


 目を開けると、そこは見たこともない場所だった。

真っ白な空間。床も壁も天井も、すべてが純白の光で満たされている。痛みも疲労も、すべてが嘘のように消えていた。

「ようこそ、相川悠真」

声の方を向くと、この世のものとは思えない美しい女性が立っていた。銀色の長い髪、透き通るような白い肌、そして慈愛に満ちた瞳。背中には光の翼が広がっている。

「あなたは……」

「私は転生を司る女神」

女神は優しく微笑んだ。

「単刀直入に申し上げます。あなたは先ほど、過労による心筋梗塞でお亡くなりになりました」

「……そうですか」

悠真は思いのほか冷静だった。どこかで予感していたのかもしれない。

「後悔は……ありますか?」

「後悔……」

悠真は少し考えて、首を横に振った。

「いえ、ありません。最後まで、入居者さんのために働けましたから。ただ……」

「ただ?」

「もっと多くの人を助けたかった。もっと良い介護を提供したかった。でも、現実は人手不足で、予算も足りなくて……理想と現実のギャップに、いつも苦しんでいました」

女神は悠真の言葉を静かに聞いていた。

「あなたという人間を、私は長い間見守っていました。どんなに疲れていても笑顔を絶やさず、入居者一人一人に寄り添い、その尊厳を守ろうとする姿に」

「それは……当たり前のことです。みなさん『人』ですから」

「いいえ」

女神は首を振った。

「多くの人は、疲れれば心が荒み、笑顔を失い、作業的になってしまう。その『当たり前』ができる人は稀有です」

女神は一歩前に出た。

「だからこそ、私はあなたに特別な機会を与えたいのです。異世界への転生——そして、新たな人生を」

「異世界……転生?」

女神が手をかざすと、悠真の体が温かい光に包まれた。

「その世界で、僕は何を?」

「ただ、あなたらしく生きてください」

女神が手をかざすと、悠真の体が温かい光に包まれた。

光が強くなり、意識が遠のいていく。新しい世界への扉が、今開かれようとしていた。

「悠真。あなたが、希望です……」

女神の言葉は、悠真にはもう聞こえていなかった。

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