幕間 魔王との婚約
僕は、ルーンさんから聞いた内容をニルナ様に報告した。
「ルーンさんのおかげで、最悪の事態にはなっていないということですね」
僕のゼウスキャノンを警戒し、ストークムスは大規模な軍団を派遣せず、いくつもの小隊に分かれてサンヴァーラへの侵攻を開始しているらしい。
ルーンさんがコウモリたちを使って各小隊を妨害しているため、侵攻の速度はかなり抑えられていた。
ただし、脅威は着実にサンヴァーラに迫りつつあった。
「では、私がストークムスに乗り込んでいって、交渉してくることにしますね」
つまり、それは王が単身侵略国に乗り込むことを意味する。
明らかに無謀だ。
とはいえ、ニルナ様の強さならばそれも可能だろう。
「ニルナ様は、もっとご自分の幸せを考えてください」
気づけば、そんな言葉が僕の口をついて出ていた。
ニルナ様は少し意外そうに紫の瞳を瞬かせたあと、困ったように微笑みました。
「そうですね。つらい出来事もありましたが、だからといって、今の私が不幸なのかと聞かれれば、そうではありません」
ニルナ様は窓辺へ歩み寄ると、城下町を見下ろしました。
「城下町へ出れば、勇者に命を狙われることもあります。ですが、皆さんが笑顔で私に挨拶してくれるのです。皆さんが今日も幸せそうだと思うと、私まで嬉しくなります」
窓の向こうから、子どもたちの笑い声がかすかに届いてきました。
「私は、皆の幸せのため、そして、何より自分の幸せのために、行かなくてはならないのです」
そうだ。
この人は、そういう人だった。
誰よりも他人の幸せを願い、その幸せを、自分の喜びとして受け取ることができる。
王だから人々の幸せを願っているのではない。
もともと他者の幸福を自分の幸福にできる人だからこそ、王として国民全員を守ろうとしているのだ。
ニルナ様は城下町から僕へ視線を戻しました。
「それに、私自身の幸せも、きちんと考えていますよ」
そして、にっこり笑って、僕へ向かって手を差し伸べます。
「フィルクは、これからも私の隣にいてくださいね」
皆が笑っていることも。
僕が隣にいることも。
そのどちらも、ニルナ様が誰かのために自分を犠牲にして得るものではない。
すべてを大切にして、すべてと一緒に幸せになろうとしている。
差し伸べられた手を取りながら、僕はようやく理解しました。
ニルナ様は、自分の幸せを忘れていたのではない。
国民の幸福も、僕と歩む未来も、初めからすべて自分の幸せの中に含めていたのだ。
◇ ◇ ◇
翌朝。
目を覚まして最初に思い出したのは、昨夜のニルナ様の言葉だった。
『フィルクは、これからも私の隣にいてくださいね』
そう言ったニルナ様の笑顔が、一晩たっても僕の胸から離れなかった。
国民が笑っていることが、自分の幸せ。
そして僕が隣にいることも、自分の幸せだと、ニルナ様は迷いなく言ってくれた。
ただ隣にいてくれれば、それでいい。
きっと、ニルナ様の言葉にはそんな意味も込められていた。
けれど、僕はそれだけでは足りなかった。
ニルナ様は、僕を自分の未来へ含める覚悟を言葉にしてくれた。
ならば今度は、僕が覚悟を示す番だ。
「ただ隣にいるだけで、いいわけがない」
曖昧な関係のまま、ただ隣に立ち続けるわけにはいかない。
ニルナ様が僕を自分の幸せに含めてくれるのなら、僕も残りの人生すべてをかけて、その幸せに応えたかった。
僕は、随分前に買っておきながら、決意できずにしまい込んでいた小箱を手に取った。
そして、王の間に向かう。
真紅のドレスに黒いマントを羽織り、聖剣サンライズを持ったニルナ様は、遠征の準備を終えていました。
薔薇を飾った黄金のティアラの下で、長い黄金の髪が朝の風になびいている。
宝石のような紫の瞳を持つ、世界で最も強く美しい魔王。
アンデッドパニックを終焉させた、サンヴァーラ王家の生き残り。
それが、ニルナ様だ。
「ニルナ様に、お願いしたいことがあります」
僕は、ニルナ様の前で緩やかに跪きました。
「随分かしこまって……どうしましたか?」
改まった僕の態度に、ニルナ様は不思議そうに首を傾げます。
そんな些細な仕草さえ、息を忘れるほど美しい。
けれど、今の僕を動かしているのは、その美貌に心を奪われた衝動だけではなかった。
この人の隣で、この人が愛するものを共に愛していきたい。
そう覚悟したから、僕はここに跪いている。
僕は胸元から小さな箱を取り出し、蓋を開きました。
「ニルナ様。僕を、あなたの婚約者にしていただけませんか?」
箱の中には、一対の指輪が収められていました。
特別な魔法など、何一つ込められていない指輪です。
けれど、この先の人生をニルナ様と共に歩むという、僕の決意だけは込めてあります。
「いいんですか? 私は魔王ですよ」
ニルナ様の顔には、隠しきれない喜びと、わずかな戸惑いが浮かんでいました。
「知っています。だからこそ、です」
僕は、顔を上げてニルナ様をまっすぐ見つめました。
「自分へ向けられた刃には、一度だけ帰る道を示す。けれど、国民へ向けられた刃には、決して道を残さない。敵とさえ分かり合おうとしながら、守るべきもののためなら世界さえ敵に回す。そんなニルナ様だから、僕はおそばにいたいのです」
「私の隣にいれば、幸せなことばかりではありませんよ?」
「それも知っています。僕はニルナ様に幸せにしてもらいたいのではありません。一緒に幸せになりたいのです」
ニルナ様の紫の瞳が、大きく見開かれました。
昨日、ニルナ様は、他者の幸福と自分の幸福を分ける必要などないと教えてくれた。
ならば僕も、ニルナ様を愛することと、僕自身の幸福を分ける必要などない。
「僕は、ニルナ様が守ろうとする国を守ります」
「私を、ではないのですか?」
「ニルナ様は、僕が守らなければ倒れてしまうような人ではありませんから」
僕は思わず微笑みました。
「僕が守りたいのは、ニルナ様が安心して帰ってこられる国です。そして、その国でニルナ様の隣に立つことが、僕の幸せです」
いつもは、どのような敵にも勇敢に立ち向かうニルナ様が、おそるおそる左手を差し出しました。
「つけていただけますか?」
「もちろんです」
僕は箱から片方の指輪を取り出し、ニルナ様の左手の薬指にはめました。
僕が魔力を込めると、青い宝石が天空の星々のように、果てしない輝きを放ちます。
ニルナ様も、もう一つの指輪を手に取ると、僕の左手の薬指にはめてくれました。
ニルナ様が魔力を込めると、赤い宝石が、世界の始まりを告げる朝日のような輝きを放ちます。
指輪を見つめたニルナ様は、今まで見たことがないほど晴れやかに笑いました。
「無限に勇気があふれてくるようです!」
ニルナ様は腰から聖剣サンライズを外すと、両手で僕へ差し出しました。
僕も魔杖を取り出し、ニルナ様へ預けます。
互いの命を預け合うように、それぞれの武器を受け取った。
そして、その重さと温もりを確かめてから、再び持ち主の手へ返す。
指輪だけではなく、戦いも、国も、未来も。
これからは、二人で分かち合っていく。
「では、やるべきことをやってしまいましょうか」
「はい。そうですね」
僕たちは、互いに頷き合いました。
そして、ニルナ様は高らかに宣言します。
「では、交渉に行ってきまーす!」
「はい。いってらっしゃい。お留守番は任せてください」
「お願いしますね!」
ニルナ様は、スキップでもするような軽やかな足取りで、風のように王の間を飛び出していった。
この国に仇なす勇者の国と交渉しに。
決裂すれば、もちろん戦いになることだろう。
「僕は、僕のやるべきことをしましょう」
胸の奥から、静かな決意があふれてきます。
守ってみせる。
世界一強いあなたの身体ではなく、
あなたが何より大切にしている国を。
あなたが戦いを終えたあと、笑って帰ってこられる場所を。
「大好きだからこそ、あなたのことは守ったりしません」
勇者なら、か弱い人を守るのでしょう。
けれど、ニルナ様は世界で一番強い人です。
僕がニルナ様を弱い者として扱うことは、その強さも、覚悟も信じていないことになる。
僕は、ニルナ様が必ず勝つと信じています。
それこそが、僕たちの勇気です。
「きっと僕は、勇者にはなれそうにありませんね」
歪で、普通の人には理解できないのかもしれません。
それでも、これが魔王と、その婚約者である僕の、勇気の示し方です。
「でも、あなたがいないのなら、僕に世界は必要ありません」
ニルナ様を失えば、きっと僕は魔王になる。
ニルナ様よりも、ずっと身勝手な魔王に。
ニルナ様は、国民を守るために世界を滅ぼす覚悟を持っている。
けれど僕は、ニルナ様を失った悲しみだけで、世界を滅ぼしてしまうでしょう。
僕は、ニルナ様ほど世界を愛してはいない。
あなたのいない世界に、価値を見いだせる自信がない。
だからこそ、無事に帰ってきてほしい。
僕も世界を、そのような結末にはしたくありません。
ニルナ様と同じ世界で、同じ国を眺めながら、共に幸せになりたいから。
僕は左手の指輪に触れました。
赤い宝石には、まだニルナ様の魔力の温もりが残っています。
「僕は、あなたの幸せを守ります
だからニルナ様――僕の幸せであるあなたも、必ず無事に帰ってきてくださいね」
愛するあなたが無事に帰ってくることを、心から願っています。




