3.壊してしまった機械
カヤに支えられながらどうにか逃れた先は、図書室から少し遠い応接室だった。
場所は屋敷の玄関を入ってすぐ右手にある。北西の二階からあの裏階段を降り、入り組んだ廊下をしばらく南東へ進んだ先だ。
もっと近い隠れ場はあったかもしれないが、そこまで逃げる羽目になったのは、蜘蛛型ロボの存在だった。小蜘蛛を三体、大蜘蛛を三体。派手に壊してしまったものだが、この屋敷にいる蜘蛛型ロボはあれで全部というわけではない。少なくとも、それぞれあと数体はいたはずだ。だから、それらしき物音がする度に、迂回せねばならず、気づけば玄関ホールまで向かう羽目になったのだ。
当然、玄関は厳重に鍵が閉められている。内側からすぐに開くような仕様ではなく、残念ながらわたしはその開け方を知らなかった。カヤも知らないと言った。そのため、もたもたする暇もなく、そばにある応接室へと飛び込んだというわけだ。
応接室には誰もいなかった。蜘蛛型ロボの邪魔をしないためだろうか、人の姿も見かけなかった。起きている人はいるはずだ。誰かの話し声が聞こえてきたから。恐らく、彼らは図書室へ向かったのだろう。そして今頃、あの惨状を目撃している。緋桐もその中にいるだろうか。いたとしたら、どう思っただろう。博士が愛情を込めて作ったロボたちを無残に壊す不届き者に、怒りを覚えたりはしていないだろうか。
カヤと共に応接セットの影に潜みながら、わたしはただただ床を眺めていた。一度落ち着いてみれば、思い出すのは脚立を振り回したわたし自身の事である。
あまりに必死で周囲が見えていなかった。あの時は気づかなかったけれど、本棚や書籍にも傷がついてしまっただろう。いや、それはまだいい。わたしはやっぱり、傷つけてしまった蜘蛛型ロボたちに対して、罪悪感を抱いていた。
小蜘蛛を潰した際、カヤがそのネジをそっと突いたことを思い出す。
「ねえ、カヤ」
と、わたしはその記憶の断片を思い浮かべながら、カヤに訊ねた。
「わたしの事、嫌いにならないでくれる……?」
すると、応接室の外の様子を窺っていたカヤは、不思議そうな眼差しをじっとわたしへ向けてきた。
「何故、そんな事を?」
真っ先に問い返してきたが、わたしの目を見ると、カヤは続けてはっきり言ってくれた。
「わたしがあなたを嫌いになる理由などありませんよ」
その言葉にようやく安堵することが出来た。
我ながら情けない事ではあるが、あまりにも不安だったのだ。
「あのね、わたし、怖くなってしまったの。蜘蛛たちを壊してしまったから。カヤに嫌われてしまうんじゃないかって」
「どうしてです?」
「小蜘蛛を壊した時、散らばったネジの一つを拾っていたでしょう。あの時のあなたが、何だか寂しそうな顔をしている気がしたの」
わたしの言葉に、カヤは首を傾げ、こう言った。
「でしたら、ご安心ください。燐火を嫌っての事ではありません。わたしの表情は、生き物と同じく、その時々に浮かび上がる喜怒哀楽のバランスにより変化いたします。ですが、本物の生き物と違い、その仕組みにはいくつかのスイッチがあるのです。あの時の事を思い出しますと、喜怒哀楽の哀がわたしの中に流れ、燐火の言う寂しそうな表情を作り出していたようです。しかし、その哀は恐らく壊れてしまった小蜘蛛に対するもの。そして、そのレベルは、小蜘蛛を壊してしまった本人である燐火に対しての個人的評価を覆すほどのものではありませんでした」
「えっと……つまり?」
その説明がうまく呑み込めずに問い返すと、カヤは無表情のまま答えた。
「端的に言えば、わたしや蜘蛛型ロボのように博士に作られた機械は、自身に関わる人々に対して、友好か敵対かという二つの評価を切り替えるスイッチを持っているのです。つまり、先ほどのことで、わたしが燐火に対して下した友好のスイッチは切り替わらなかったということです」
「なるほど……」
少し理解できた。どうやらわたしは安心していいらしい。
だが、そうだとしても、この罪悪感が消えてしまうわけではなかった。カヤに嫌われなかったのは良い事だけれど、それだけでは蜘蛛型ロボたちへ働いた暴力をなかったことには出来ないのだから。
「あのね、カヤ。わたし、小さい頃の事を思い出したの」
「小さい頃?」
「うん。蛹化すらしていない小さい頃にね、窓枠に手を突いてうんと外を眺めていたの。お空を飛ぶ飛行機が見えて、その飛行機雲が伸びていくのが楽しかったの。でも、夢中になって眺めているうちに、ふと、手元を見たらね、わたしの手が小さな蜘蛛を潰してしまっていたの」
それは、記憶に残る限り、わたしが初めて直接的に命を奪ってしまった出来事だった。
「潰れてしまった蜘蛛を前に、わたしは焦ったの。どうしようって。でも、潰れちゃった蜘蛛はもう動かなかった。あの時は、殺すつもりなんて、なかったのに」
「それは、可哀想でしたね」
カヤが言うと、わたしは小さく頷き、そして続けた。
「あの時に味わった罪悪感を、今もまた感じているの。わたしはまた、命を奪ってしまった。それも、六体も……」
思い出せば出すほど、自分が怖かった。あの時はただ息の根を止めんばかりの殺気で、蜘蛛型ロボたちを襲っていたのだから。
だが、カヤは言った。
「それは違います」
落ち着いた声で、彼女は訂正してきたのだ。
思わぬ言葉に驚くわたしに、彼女は告げた。
「彼らは機械です。機械に命は宿りません。ですので、その小さな蜘蛛の時のように、燐火が罪悪感を覚える必要はありません」
当たり前のことを幼い子供に説くような口調で、彼女はそう言った。その態度、その言葉に、わたしは面食らってしまった。しばらく茫然として、やがて、我に返ってわたしはカヤに言い返した。
「ううん、そう言う事じゃない。そう言う事じゃないの」
「では、どういうことですか?」
即座に問い返され、わたしは答えに詰まってしまった。
──どういうことなのだろう。
改めて考えて、何も言えなくなる。
機械には命が宿っていない。蜘蛛型ロボにだってそうだ。だからこそ、猫柳博士は機械人形に命を吹き込もうとして、カヤが生まれた。
カヤは本物の魂を宿す機械人形として評価されたが、それは恐らく比喩表現。それくらい、精巧に出来ているということなのだろう。
では、カヤや蜘蛛型ロボに命がないとして、それを壊したら罪悪感を持つ必要はないのだろうか。いや、違う。それはまた違う気がした。
「あのね、カヤ。わたしは多分、あなた達にも命を感じているんだと思うの」
「命、ですか?」
「そう。だから、罪悪感を覚えてしまったの。あの時は、蜘蛛型ロボたちを退治するので必死だったけれど、その為に壊してしまって、もう元には戻せない。それって、生き物と同じなんじゃないかって」
「……そうですか」
少しだけ納得したようにカヤは相槌を打った。だが、すぐに彼女は言った。
「でしたら、こう思うのはどうでしょう。わたし達、機械は、修理すればもとに戻れます。あの蜘蛛型ロボたちも、中身さえ無事であれば、修理で復活できるのです。彼らはわたしに比べて非常に脆い機械ではありますが、そう言った意味では一度死んでしまったらそれっきりの生き物よりも頑丈なのです」
きっと、わたしを慰めるためにそう言ってくれたのだろう。その気遣いが嬉しくはあった。けれど、やっぱり罪悪感は消えなかった。
そんなわたしの表情の暗さを悟ったのだろう。カヤは言った。
「いいですか、燐火。あなた達のような生き物と、我々のような機械は違います。幼い日に潰してしまったその蜘蛛とわたし達は違います。その小さな命を、蜘蛛型ロボたちに重ねる必要はないのです。それは、彼らだけのことではありません。わたしも同じです。わたしは機械人形。あなたと違って、命は宿っていないのです。分かりますね、燐火。わたしはあなたと違うのです。あなたの望むような、本物の仲間にはなれないのです」
諭すように淡々と語るカヤの言葉は至って冷静だ。喜怒哀楽は感じない。それなのに壁を感じてしまうのは、聞いているわたしのせいなのだろう。
分かっている。カヤはずっとそうなのだ。彼女はきっと機械人形として、わたしの相手をしてくれているだけ。わたしだけが、彼女との未来に夢を抱いてしまっているのだろう。
「でも、わたしは──」
それでも、わたしはやっぱり諦めきれなかった。
「わたしは、あなたと一緒にいたいの」
ただただ同じ翅を持つ者同士、傍にいたかったのだ。