61 名ばかりの生殺与奪権
空を覆う巨大な障壁を目にして、シンの焦りはピークに達した。
「ちょ……おい、こりゃ誰が……」
障壁は街の中央地区を中心に展開されている。紫竜との戦いに関連するものだろうとして、この規模の魔法を扱える可能性のある候補を挙げてみる。
まずは紫竜ニーズヘッグ。次にプレイヤーであるデオとレイ。更には王国軍の精鋭グレイ、サイリ。
彼らのうちの誰かだと思いたい。が、直感的に条件に適う人物がいないような気がする。しっかり考えてその理由を並べるまでもなく、どうにも誰も違うように思えてならない。
(そしたら……)
残る候補は全て身内だ。
シン自らの魔力で生み出した妖精フェア。紫竜と同じく八彩竜のガウンにコヴァ。そして。
(まぁたアイツかあぁぁぁ!?)
ドビル大空洞の主、ソブリンである。
別れ際にそれぞれの行き先もざっくりと決めていた。シンは西方面。コヴァはフェアと合流しつつ東へ。ガウンは南へ。そしてソブリンは北――その先、少し東寄りに進めば中央の情報管理区だ。
いや待て。今回は召喚目的に『目立たずに』とも定めている。決めつけは良くない。望みは薄くともシンの知らない誰かの仕業かもしれない。
しかし。しかしだ。
(アイツが何もやらかすことなく、召喚目的だけを済まして終わらせるってこと、あるか?)
歯痒いことに、残念なことに、腹立たしいことに、それはないと言い切れる。今まであの男がやってきたことを思えば。
確認の為にも、いち早く召喚竜を片付けてあの現場に向かいたいところだが。
「ひゃあ~、こりゃ凄い。デュークさんでもこれは出来ませんよ」
驚きの声すら軽薄なこの男、紫焔竜エリック・フクシャを先にどうにかしなくてはならない。
(どうにか……って)
そんなもの、打ち倒して終わりでいいだろう。
こいつは竜だ。人の姿をしてはいるがそれは仮の姿で、この街を蹂躙している紫竜が召喚した多くの竜の頭目なのだ。
すぐ終わる。一撃打ち込んで仕舞いだ。造作もないことではないか。それなのに――
「それで、どうなんです?」
周囲が見えなくなるほど思い詰めていたところに声をかけられ、シンはハッと慌てて意識を戻す。
「さっきの話。緑竜グラスさんの紹介、渡りをつけましょうか?」
「あ、ああ、そうだな」
聞かれたことが頭に入って来ず、打った相槌は半ば上の空。数瞬遅れてやっと話の内容を把握、頭を抱えたくなる。
そうだな、じゃないだろう。そんな紹介受ける必要ない。胡散臭いことこの上ない。
フレシュのことにしろ、世界のことにしろ、まだ先にアプローチをかけるべき人物は残っている。確実に裏のあるエリックの口車にわざわざ乗ってやることはない。断ってやれ。
「あ、いや、ちょっと待て。その……そうだ、さっきお前が言ったデュークっての、もしかして紫竜の名前か?」
何を言ってる、違うだろう。名前を聞いて何になる。今そんなことが必要か? 無意味に時間を浪費するな。
「おーやー、ご存じなかったですか。そうですよ、紫竜デューク・マゼンタさん。まあ、人間共には奴らが勝手につけたニーズヘッグって名前しか知られてませんがね」
「八彩竜でも無理ってことは、ほぼほぼ決まりじゃねえか……」
障壁を張ったのがソブリンである疑いがより強まった。いつまでもこうしてはいられない。
もう随分長いことここで話し込んでしまっている。住民達だってその間竜の脅威に晒され犠牲者が増え続けているはず。
さっさと行くべきだ。こいつを――
「ああ、やっぱりこれやったのって、あなたのお仲間さんですか」
こいつを、殺して。
「いやあ、こんなん仕出かすお人が他にまだいるだなんて、おっそろしい一行ですなあ」
殺して。
「こら尚更、ここでしっかり貸し作っとかないと。今後の為に」
どうした、動け。こいつは竜だ。人間じゃない、モンスターだ。今までだって、掃いて捨てるほど殺してきただろう。
何故動けない。今までのモンスターと何が違う。特殊個体だからか。紫焔竜といえばユランという名で知られ、神話にも登場する六首竜の一匹だ。だからガウンと同様、その希少性に気後れしているのか。
いや、今はガウンの時とは状況が違う。こいつを排除しなければならない必要に迫られている。自明だ。理解出来ているはずだ。
ならば何故動けない。何が躊躇わせる。姿か。言葉か。意思疎通の可否か。
(こいつは、NPCなんだぞ!)
意思疎通なんてしているわけじゃない。こいつに意識など無いのだから。会話が成り立っているのは、ただの電気信号による機械的な反応だ。
中国語の部屋だとか、哲学的ゾンビだとか、そういった話で説明がつく類のものだ。こいつの中身は、空虚な人工知能に過ぎないんだ。だから、動け、今、すぐに。
「しっかし、はじめデュークさんにはひどい無茶振りされたもんだ思ってたんですけど、今はむしろ感謝しときたい気分ですわ」
動け!
「こんなチャンスが巡ってくるなんて、思いもしてなかったんですから」
殺せ!!
――ボッ!
「――――!」
瞬間、目の前で何が起きたのか理解出来ずに身体が硬直する。
反応の止まったシンの顔にビチャッと生温かい液体が浴びせられた。目の前の、先程までシンが会話を交わしていた男――首から上を失った、紫焔竜エリックの血だ。
顔を触るとぬるりとした気色の悪い感触を伝えてくる。赤く染まった手のひらを瞳に映すことで脳が現状を理解し、同時に身体はそれに拒否反応を示した。
「う、ぶ……ぐっ」
胃から内容物が逆流し、吐き出しそうになるところをよろめきながらも何とか堪える。
顔と手を汚したエリックの血が、機能を停止したその肉体と一緒に灰となって消えていく。しかしながらそれに気を割く余裕も無く、シンは額から滲み出す大量の脂汗を拭って、肩で大きく呼吸を繰り返していた。
「はーっ、はーっ、はーっ、はーっ」
殴打の一撃だ。
エリックの頭を潰したのは、凄まじい力で振るわれた鈍器による強烈な一撃。
エリックは地竜族の特殊個体。頭目を務めるほどの男だ。シンの方へ注意を向けていたとはいえ、気づかれずにその間合いに入りこむことも容易ではない。出来得る存在は限られる。
「こんなところで何を油を売っている」
聞こえてきたのは、低く武骨で厳めしい男の声。
「竜の掃討を指示したのは貴様だろう。自分の仕事すら終わらんうちから遊び呆けるとは、良い身分だな」
皮肉の利いた棘のある声の方へ目を向けると、そこにはメイスを手にし、隆々たる筋肉を備えた紺青の髪の男が立っていた。
シンを映す紺青の瞳は鋭く吊り上がり、普段から厳めしいその顔にはいつも以上に険しく皺を刻み込んでいる。
南方面の竜を打ち払いに行ったはずの、シンが召喚した神話の怪物八彩竜。その青。
「……ガウン」
紺青の鬼竜、青竜ガウン・ブルー。
息と内臓と心が落ち着いてきて、シンはようやく今の出来事を正確に把握する。ガウンがメイスを一振りしてエリックの頭を叩き潰したのだ。
ガウンがまだどこか虚ろげなシンの瞳を一瞥して鼻を鳴らす。
「どうせエリックの奴の口先に惑わされていたのだろう。よく口の回る奴だからな」
「すまん、正直助かった」
「……助かっただと?」
最後の踏ん切りがつかずに行動を起こせなかったシンにとって、この介入は望外の助け舟だ。素直に礼を言うが、言われた方のガウンはそれが腑に落ちないのか、訝しげに片眉を上げた。
「貴様、自力でどうにもならん状況に陥っていたのか? どういうことだ」
「どう、って……」
純粋な疑問を口にするガウンにシンは口ごもる。
答えは明らかだが、それを口にすると自分の無能が白日の下に晒されるようで、逃げ出したい気分だった。
「……俺は、あいつを……やれなかった」
無力感を噛みしめて、声を絞り出す。己の不甲斐なさに言葉にすることすら苦しむが、それを聞いたガウンは納得がいっていないようだ。
「そんなことがあるか。我でも殺せる奴を、貴様が殺せないわけがないだろう。何を言っている」
「そうじゃない。力じゃなくて心の問題だ。たぶん……いや、間違いなく、あいつが人間の姿をして喋ってたからだろうな。この手にかけることに、物凄く抵抗があった」
自分の手のひらを見つめ、やるせなさを押し潰すように力を込めてぐっと握りこむ。
力ならある。GM権限で書き換えられたグラハム数という途方もない能力値が。だがその力も、必要な時に使えないようではとんだ宝の持ち腐れだ。
この世界において特異な力を有し、全ての生命の生殺与奪を握っているように思えても、今のシンの気質と心構えではそれは名ばかりのものに過ぎなかった。
真剣に思い悩むシンの語り口にもガウンは共感はおろか理解すらも出来ないようで、眉の角度をよりきつくして物言いをつけてくる。
「それなら殺さずとも拘束するなり眠らせるなり、無力化する手段はいくらでもあるだろう。何故それをしない。話に筋が通っていないぞ」
「…………あ」
数秒おいて声が漏れる。理解というより受け入れるのにかかった時間だ。
指摘されるまで気づかなかった。殺さなければ打開出来ない場面でもなかったのに、どうしてそこに固執していたのだろう。
フレシュが襲撃された時は意識するまでもなく出来ていたことだ。それほどまでに余裕を失っていたのか。
「おい、まさか貴様、そこに考えが及んでいなかったのか?」
「…………」
笑えない冗談でも聞かされたような顔で詰問するガウン。シンは体裁の悪さに居たたまれず、黙り込んだまま額と目を手で覆い空を仰いだ。
シンの無言の肯定にガウンが呆れて嘆息する。
「そこまで視野を狭められていたのか。貴様のその力は飾りか、情けない奴だ」
「……返す言葉もねえよ」
追い打ちをかけるガウンの誹りに気落ちするが、悪いばかりのことでもない。
これだけの力を持っているのなら、生命を奪うことに感覚が麻痺してしまうことの方が遥かに問題だ。些細なきっかけでタガの外れた制御不能の殺戮を始めてしまうことを思えば、今の方が余程健全だと言える。
と、自己肯定をして精神の安定を図ったところで、気に掛かっていたところを聞いてみる。
「そういえばお前、エリックのこと何の躊躇も無く殺したよな。そういう目的で召喚しておいて言うのも何だけど、仲間意識とか全然無いのか」
「あるぞ」
「え、マジで? じゃあもしかして俺、お前達にやりたくないことやらせてんのか……」
ガウンからそういった様子は全く見られないが、実は心の中では血涙を流しているのかもしれない。そう思うと後ろめたい。思慮が足らず悪いことをした気分になってくる。
「いらん気遣いだ。あれは召喚異体で本体を殺したわけではない」
「確証は無いだろ。それとも本体と召喚異体の判別の仕方があるのか?」
シンの知る限り、両者の見分けをつける方法は無い。エリックは結果的に召喚異体だったが、本体である可能性も僅かばかりあった。
エリックを殺せなかった理由にそれも含まれそうではあるが、なんとなくシンは問題の本質は別にあって、相手が召喚異体だとわかっていても結果は同じだったようにしか思えなかった。
「無いな。だが、確認はした」
「確認? どうやって」
「我の眷族にエリックの居場所を探らせた。普段奴はイーリッシュに居るからな。居場所がわかれば区別がつく」
「あーそうか、居場所か」
別の場所にもエリックが居れば、見分ける方法は無くとも召喚主である紫竜が近くに居るこちらのエリックが召喚異体であることは明らかだ。
また、本体が召喚異体との記憶を共有するのは異体消滅後最初の睡眠の中であり、自身が現在召喚されていることは基本的には知り得ない。なので、紫竜からそれを知らされていなければ感づかれることもないだろう。
「そんなことより貴様、向こうが気になっていたんじゃないのか。ここは我が代わりに終わらせておいてやるからさっさと行ってこい」
「いいのか? 悪いな、頼む」
有難く言葉に甘える。この場では世話をかけてばかりだ。
態度と言い方はぶっきらぼうだが、シンのことを慮り気を遣ってくれるのは召喚した三人の中でもこのガウンだけだ。コヴァはただ体裁を整えているだけだし、ソブリンは言わずもがなである。
担当方面を手早く終わらせてこちらへ駆けつけてくる青竜の真面目さと義理堅さよ。仕事が早くて助かる。この場を離れる前にシンは肩越しに振り返って労っておく。
「それにしてもお前、随分早く持ち場片付けて来たな。礼を言っとくよ」
「いらん。その成果は我の手によるものではない」
「ん?」
返答が予想外で咄嗟の理解が追いつかずシンが疑問の声を漏らすと、ガウンは南商業区の方へ顔を向けて言った。
「我が向こうに着いた時には、誰がやったか知らんが既に竜は片付いていた」
◇◆◇
交易都市エプスノーム南方地区――南商業区。
北商業区が貴族社会寄りの上品な店舗の多い街並みであるのに比べ、こちらはややスラム寄りの粗さが目立つ街並みとなっている。
城塞都市ユークへと続く街道に出る南正門前大通りの治安は至って良好だが、二つ三つ脇道へ入ればあくどい手口で荒稼ぎを目論む悪徳商人の温床――闇市場がその顔を覗かせてくる。
道理に外れた商売を取り締まるべき中央の役人の中にも彼らと結びついている者は少なくなく、多少の悪事には目こぼしを与えて野放しにされているのが現状だ。
そんな南商業区も他地区と同様召喚竜の被害に遭っていたのだが、少し前にその討伐を終えて今は軍関係者が討ち漏らしの確認と事後処理に勤しみだしていた。
その一角で。
「ちっちっちっちっちっ……」
しゃがみ込んだ女が舌打ちしながら指先を振って、こっちへおいでと誘いかけている。ウエーブがかった黒髪を肩まで伸ばした、たれ目が特徴的な女だ。
対象は一匹の茶トラ猫。警戒しているようで、一定の距離を保ったまま微動だにせず女のことをじっと見つめ続けている。
「……おい、エム、まさかまた猫拾うのか?」
女――エムに渋い顔で声をかけたのは短めの茶髪を逆立てた男。無駄な肉を削ぎ落したような体つきで、痩身、中背でありながらそう感じさせない貫禄を備えている。
エムは男の方へ視線を送ると猫を指差して。
「……たばすこ」
「どうしてその名前にしようと思った」
「だめ? エル」
「いやそもそも飼わねえから」
「…………」
無言になってそれこそ猫のようにじっと男――エルを見つめるエム。圧が強い。エルは要望を訴えかけてくるエムの瞳から逃れるように視線を切った。
「おぉいブレイン、お前からも何か言ってやってくれよ」
「んー?」
話を向けられたのは長身の男。癖毛の黒髪を顎丈に伸ばし、口元の無精髭が胡散臭さを醸し出している。ブレインと呼ばれたその男は生返事を寄こすだけで、エルの方を見向きもせずに空に張られた障壁を眺め続けている。
「だぁから、エムをだな……」
「停滞が終わるねえ」
「あぁん?」
近寄り再度声をかけてくるエルには取り合わず、ブレインは感慨深げに呟きを漏らす。
「火種が弾けちゃったから、ここからの変化はきっと早いよ」
「火種そのもののお前がんなこと言っても、あーそうかよとしか思えねえよ」
これ見よがしに当て擦ってくるエルだが、やはりブレインは取り合わずに笑って聞き流す。
「次の舞台は西になるね。まずはレパード海底神殿だ」
「……おい、ブレイン、まさか行くつもりじゃねえよな。俺は嫌だぞ」
「そんな顔しなくても行かないよ。僕らは先に海を渡っちゃおう」
「べぇつにいちいち移動する必要だってねえだろ。なんだってわざわざんな面倒なことを」
「現場に近い方が臨場感味わえるでしょ。気分だよ、気分。大事なことだよ、エル」
「あーそうかよ」
問答を諦めたエルが投げやりに会話を終わらせると、ブレインは猫とにらめっこを続けるエムの方へ寄って声をかけた。
「行くよ、エム」
「ん……」
エムは迷うようにブレインと猫を交互に見つめるが、やがて名残惜しさを抱いたまま立ち上がると猫に向かって小さく手を振った。
「ばいばい、たばすこ」
偶然かエムへの反応か、別れ際に猫は「なぁ~」と鳴き声をあげると路地裏の狭い隙間に小さな身体を滑り込ませて消えていった。
猫を見送ったエムが小走りで二人に追いつくと、エルが気だるげに口を開く。
「海を渡って西へ行くんだとさ」
「あ、わたし汽車に乗りたい」
「ねえから。識世に。そんなもん」
二人の平和なやり取りを流し聞きにしつつ、ブレインは再び上空の障壁を見上げて独りごちる。
「火種が弾けて、結末は決まっちゃったねえ」
正確には、火種が弾けたのはこの日ではない。火種となる力を持ったあのプレイヤーが現出したその日だ。
有り得べからざる特異、シン・グラリット。彼の存在が力を振るったその時に、世界に歪みが生じた。歪みは加速度的な変化をもたらし、やがて避けようのない結末が訪れる。
ブレインは知っている。それを何と呼ぶか。
「ブレイクスルーが起きて、パラダイムシフトを迎えて、特異点へと至るまで、残された猶予で何が見られるかな」
人々はそれを、運命と呼ぶ。