51 敵意の矛先
破壊神セト。
神話の正編『竜神大戦』の記述の中で唯一八彩竜の一匹を単独で撃破したとされ、純粋な戦闘能力は七暁神の中でも最上位と評されている。
性格は利己的で傲慢、更には人の命を命とも思わない冷酷さも併せ持ち、『巨赤の戦い』においてその地に住む人々を一顧だにせず巻き込んで破壊しつくした。後日、畏怖と恐怖の象徴として人々につけられた異名が『亡国の蛮神』。
協調性にも乏しく、赤竜との戦いが終わると同時に行方を暗まし、以降の戦いで彼が仲間達に力を貸すことは最後までなかった。神話でその後の彼について触れられた記述はなく、七暁神の中で最も描写の少ない人物でもある。
「先手を打ってるつもりでも結局後手に回らされるってのは、仕方のないところもあるけど、どうにかならないもんかねえ」
ゆっくりとフレシュとサイリを結ぶ直線上まで歩を進めながら、ため息を吐いて独りごちるセト。
フレシュは聖王の実の娘であるものの、幼少期に父から七暁神に関する話を聞かされたこともなかったので、その知識は驚くほど少ない。顔見知りは女神レプティのみだ。予期せずに入って来た情報に様々な憶測が入り乱れ、その処理に追われ傍目にはフリーズしている。
反応出来ないフレシュをよそに、セトを見る目つきを鋭いものへと変えたサイリが。
「……こっちを優先させるのね。異変の術者と紫竜は放っておいていいのかしら?」
「よく言う」
警戒心を露わに緊張した面持ちで問いかけるサイリに、セトはそっけない一言だけを告げて真一文字に口を結ぶ。
交差する二人の視線は友好的なものとは程遠く、剣呑な気配が少しずつこの場の空気に溶けて染み渡っていく。
互いに出方を窺っているような様子の二人に、覚えた違和感が疑問となってフレシュの脳裏に浮かび上がる。
何故、対立しているような空気になっている。二人共この場での目的は市民の保護と竜の討伐で一致しているのではないのか、と。
破壊神が神話に描かれた通りの人物ならば、ここの住民など意に介すことはないだろう。が、フレシュには彼がそんな人物ではないという確信めいた思いがあった。デオ・ボレンテと名を変えたこの男と、多くはないが直接言葉を交わして得た印象にネガティブなものはなく、何よりも今、ここで、失意に沈むこの心を掬い上げてくれた。
また、神話に記された話が事実であってほしくないと願うフレシュにとって、破壊神の描写が実際とかけ離れているとすれば、それは大きな希望にもなるものだ。
暫し牽制の沈黙を挟み、周辺の可燃物を呑みこんで燃え広がっていく炎をちらりと見やったセトが、再び口を開く。
「オーム・ベルグレイヴは……逝ったそうだ」
それを聞いたフレシュの胸が、きつく締めつけられる。
たった今、その事実に押し潰されるのを何とか免れたところだ。しかしながら罪の意識が消えたわけでも、吹っ切れたわけでもない。ただ彼の死を無意味なものにしたくない一心で塞ぎ込むのをやめただけだ。言及されれば感情も乱される。
「……そう」
投げかけられた言葉に対し、その一言だけを小さく呟くサイリ。
平静を装っているが、僅かに瞳が揺れ、拳はぐっと握りしめられる。動揺を隠しきれていない。
「それで終わりか?」
サイリに念を押すように確認しながら、セトは一歩、体を後ろへ引く。それによってフレシュとサイリの間を遮るものが無くなる。
フレシュには二人の間でどんな思いが交錯しているのかはわからなかったが、彼のこの行動の意図はすぐに察せた。
サイリへ、フレシュに対して、何か言うべきことがあるのではないかと、言外にそう示しているのだ。
「…………」
フレシュに思い当たるところは無いが、サイリは理解しているのだろう。フレシュを見つめ、その視線を外し、思い悩むように眉を寄せてから。
「……御免なさい」
頭を下げて謝罪した。
「オーム卿が命を落とした責任は、私にあるわ。そのことは、本当に申し訳ないと思ってる」
「あなたが謝ることは……」
声と表情、そしてプライドの高い彼女のしおらしい態度に、本気で負い目を感じていることが伝わってきて、フレシュは複雑な心境に駆られ戸惑う。
彼女の任務はフレシュの警護であり、襲撃側の、それも首謀者と思われるオームは、弁護の余地なく排除すべき敵である。
多数の竜が召喚された後に彼女の軍人としての意識が住民の保護へと変わり、オームも保護すべき住民の一人と見做したのだとしても、謝罪は事態の収拾がついた後に、軍の責任者がこの件で犠牲となった者全ての遺族へ向けてするものだろう。
フレシュに対する彼女個人の気持ちの問題だとしても、突然現れた四匹もの火竜を相手にたった一人で体を張ってくれた彼女には感謝こそすれ、責める気など毛頭ない。そう思っていたところへ。
「それじゃあ謝罪の意味が無い」
セトの声が割って入る。
指摘を受け微かに表情を強張らせるサイリは口を開こうとはしない。セトは彼女をじっと見据えたまま構わずに言葉を続ける。
「何故お宅に責任があるのか、どこに非があったのか、それを伝えないことにはな」
「……それって、どういう……?」
意味がわからずに疑問符を浮かべるフレシュ。その理由とは、手の届く範囲にあった命を守り切れなかったことに、軍人として責任を感じているからではないのか。恐らく違う。セトの口ぶりからして、説明しなければわからないことなのだろう。
悔しさと後ろ暗さと厭わしさと憤りを内包した、複雑な感情の色を瞳に湛えて沈黙を続けるサイリへ、セトはスッと目を閉じて。
「お宅らとシモン達との間で何があったのかは知ってる。余計な口を挟む気もない。けれど――」
一呼吸を挟んで目を開き、緋色の大剣を片手で振り上げ、その切っ先を突きつける。
「――この子に手を出すつもりなら、俺も黙ってはいないぞ、ナインクラック」
一際鋭く睨みつけ、威圧を放って警告する。
激しさは皆無だが、発した言葉に鉛が含まれているかのように重い語気が、場の空気とサイリを圧迫する。
「ナイン……クラック……?」
初めて耳にしたフレーズを反芻するフレシュ。
理解出来たのは、二人が自分の知り得ていない物事を土台に対立しているということで、それは何も理解出来ていないことと同じだ。何の判断材料にもならない。
また、引っかかったフレーズはそれだけではない。
「手を出すって、そんな――」
「それはこっちの台詞だわ」
セトの物言いは、まるでサイリが自分に危害を加えようとしているかのようで、これまでの彼女の言動や振る舞いとは真逆だ。その違和を問おうと上げたフレシュの声は、サイリの鋭い語気に遮られる。
「あなたに恨みは無いけれど、私達の邪魔をするのなら標的に加えるまでよ」
破壊神の威圧にも引くことのないサイリからは、強固な意志が窺える。
だがそれよりもフレシュが気を留めたのは、彼女がセトの言葉を否定しなかったことだ。ここでそれを肯定と捉えるのは結論を急ぎすぎだが、不審を抱かせるには充分な材料だった。
「……サイリさん?」
「気安く呼ばないで」
呼びかけたフレシュへ視線を投げることすらしないサイリの声は硬く冷たい。だがそこに、前回向けられたような嫌忌の感情は、フレシュには感じ取れなかった。
「あの件に関わりは無くても、所詮あなたも七暁神ね。残りの二人もこのまま不関与を貫くだなんて都合のいい展開は、初めから期待してないけれど」
「心配するな。お宅らが余計なことをしない限り、リボーの奴が首を突っ込んで来ることは、まずない。キャビアは……それこそリボーが許さないだろう。あいつを面倒な諍いに巻き込むことなんてな」
「どうかしらね」
セトの言葉などまるで信用に値しないと、鼻を鳴らして髪を掻き上げるサイリ。柔らかく艶のあった栗色の髪は炎に巻かれて傷み、縮れてしまって今はもう見る影もない。
「まあいいわ。ここでその子だけでも、無事が確認出来たから」
「それはつまり、もう仕込みは済ませたってことか」
「答えるわけないでしょ」
冷たくすげないサイリの反応を頭を振って受け流しつつ、セトは再び彼女からフレシュへの視線を切るように、二人の直線上へ移動する。
これまでの両者の会話の内容から、フレシュはセトのこの行動が、サイリに自分を接触させないためのものであることに気がついた。
「四人に伝えておきなさい」
サイリの声の変化に寒気が走る。
低く、暗く、重いその声に込められていたのは、臓腑に深く染み込んだ夥しい憎しみから絞り出した猛毒の敵意。
「報いは必ず、受けさせてやるから」
最後にそう言い捨てて、サイリはこの場から立ち去って行った。
去り際の彼女がどんな表情をしていたのか、セトが遮蔽物となっていてフレシュにはわからない。だけど恐らく、見ずに済んで良かったのだろう。そんな気がした。
「もう何度も、自分の口から直接伝えてるだろうに……」
憎悪に身を委ねるサイリが夜闇に消えるのを見届けて、セトは憐れみをこめて小さく呟きを漏らした。
「あの……」
地面から腰を上げ、遠慮気味に声をかけてきたフレシュに、セトは返事の代わりに小さな何かを投げ寄こす。
「嵌めとけ。空間障壁の魔法が籠められてる。地竜程度なら、それで充分だ」
受け取ったそれは、赤い宝石の指輪。ルビーと思しきその宝石はただ綺麗なだけの石ではない。凝縮された魔力を宿す魔鉱石だ。
籠められた魔法に地竜の攻撃を弾くほどの効果が備わっているとなると、宝石の魔力含有率は並ではない。ミスリル以上は確実だ。
そんな希少な魔導具をポンと出してくるあたり、彼の才腕の一端が垣間見える。七暁神、破壊神は伊達ではない。
フレシュは掌に載せた指輪を見つめながら首を傾げて。
「どうして、関わりも浅い私にこんなに良くしてくれるんですか? 私が、聖王の子供だからですか?」
「シモンには色々と世話になったからねえ。レプティからも、君のことを気にかけてくれと頼まれている」
「お父さんは――」
神経を尖らせる相手が去ったことで緊張を緩め、口調に以前会った時の柔らかさが戻ったセト。彼の返答にフレシュは気を逸らせて。
「お父さんは、いるんですね! この時代に……今、この世界のどこかに」
「……ああ、いるよ」
「それじゃあ――」
「わからないこと、聞きたいこと、色々とあるだろう。君にはそれを知る権利があると思う。けれど、話をするには時間が要る。今はやめておこう」
前のめりになって息を切らすフレシュをセトが穏やかに諭す。
忘れているわけではなかったが、現在の状況を認識し直して、フレシュは急き込む感情を抑えつけて自重する。
「そう……ですね」
「そうがっかりしなさんな。後できちんと、時間を作ってやるさ」
僅かに頬を緩め、柔和に宥めるセトには鷹揚な落ち着きがあり安心感を覚える。亡国の蛮神と呼ばれる破壊神の印象からはかけ離れた物腰だ。
「だから今は家に帰れ。ベレスフォード家の私兵団なら地竜相手にも渡り合えるだろうが、君の安否がわからないと気が気でないだろう。気がかりを払拭させてやれば、戦いにも余裕が生まれるってもんだ。一人で帰れるな?」
「あ、はい。大丈夫です、ありがとうございます。でも一つだけ。私、家には帰りますが、部屋には戻りません」
「うん?」
言葉の意図をはかりかねて疑問符を浮かべるセトへ、フレシュは顔つきを引き締めて端然と相対する。
「オームに救ってもらったこの命、守られてばかりじゃいつまでも報いることなんて出来ません。だから、彼の犠牲に意味を持たせるためにも――」
迷いのない声と、真っ直ぐにセトを見つめるその姿は紛れもなく、凛とした侯爵家の令嬢、フレシュ・アンリ・ベレスフォードのものであった。
「――私も、戦います」