46 悠揚迫らぬ人外の怪物達
この世界は理不尽だ。
生を受けたその時点でもう、極めて明確な格差というものが存在する。
一つは家柄だ。良家の子息として生まれれば生きていく上で不自由することはなく、貧しい家に生まれれば存在を重荷に感じた親に見捨てられることさえ珍しくない。
もう一つは才能だ。平凡な人間が長年ひたむきに努力を続けて得た能力など、その才能に秀でた者に僅かな時間の鍛錬で軽々と追い越されてしまう。筋も道理もクソもない不条理な仕打ちには最早笑うしかない。
家柄と才能、その両方ともに恵まれることのなかったオレイルは、それでもこの南西居住区で日々を懸命に生き抜いてきた。時には他人を利用し、生きる術を学び、盗み、群れ、騙し、蹴落とし、その全てを自らの糧としていった。充実したとはとても言えないが、決して空虚ではない日々。
それももう、終わりを迎えようとしていた。
「くそっ! くそっ! くそっ!」
目の前を塞ぐ壁に何度も拳を叩きつける。あちこちにひびが入り、あまり頑丈そうには見えない壁も、殴った程度で崩れるほど脆いものではない。
背後には凶悪な死の気配を撒き散らす巨大な火竜が迫りくる。下位竜である地竜にはない能力――炎の息で辺りは燃やされ、この一帯だけやたら明るい。
逃げて逃げて逃げた先に嵌り込んだ行き止まり。逃げ場はもうどこにもない。
(運にまで見放されちまったのかよ!)
不平等で不公平で差別的なこの世の定めに毒を吐く。碌でもない世界で、碌でもない人生だ。もっと自分が才能に溢れていたなら、少しはマシな人生を送れていただろうか。
例えばそう、今、目の前で起こっている光景――火竜の頭を一撃で吹き飛ばすような力を獲得していたり。
……頭を、吹き飛ばす?
「な……!?」
目を疑いたくなるような衝撃的な場面の転換に、世界に対する怒りに向けられていたオレイルの意識が引き戻される。
頭部を失った火竜が塵と消え、錯覚だったのではないかとも思うが、すぐにそうではないと理解する。
火竜が消えた場所に、一人の男がいた。紺青の髪の、厳めしい顔つきをした男だ。手にしているのは金属片を放射状に組んだ頭部を持つ戦棍。これの一撃で火竜の頭を粉砕したらしい。馬鹿げた力だとしか言いようがない。
「何だ貴様は。何を見ている」
オレイルの視線に気づいた男が不愉快そうに口を開く。どうやら助けてくれたわけではないらしい。
男としては何という事のない、ちょっとした苛立ちを向けただけだろう。しかしそれはオレイルにとって強烈な威圧となってのしかかり、一瞬のうちに全身に怖気が走ると同時、ぶわっと汗が噴き出した。
本能が訴える。この男はやばい。尋常でない。火竜など比べ物にならない鬼気森然とした夜叉だ。
「目障りだ、失せろ」
取るに足らない塵芥を払うかのような男の驕慢な態度に、畏怖で満たされていたオレイルの胸の内に再び憤りがこみ上げる。
ただしそれは男に対してではなく、先刻と同様、この世界に対してだ。
「くそっ!」
最後にもう一度、憤りの捌け口となった壁を思い切り殴りつけてこの場を後にする。拳の痛みも怒りの緩衝材になることはない。
凡人であるオレイルがどれほど鍛錬しようとも、全てをなげうって努力に勤しんだとしても、あの男のいる領域まで辿り着ける気が微塵もしない。
この世界は理不尽だ。
「くそったれが!」
唯一オレイルに出来た世界に対する意趣返しは、毒気に塗れた一言をこの場に吐き捨てていくことだけだった。
◇◆◇
「フン」
取るに足らない塵芥が視界から消え、ガウンは鼻を鳴らして周囲に目を向ける。
火竜のブレスによって建物に燃え広がった炎が、照明を失った通りを底気味悪く照らしている。放っておけば周辺の家屋にも燃え移り、被害がより広がっていくかもしれない。
しかしそんなことはガウンの知ったことではない。人間共がどんな被害に遭おうと関心が無い。ついでに言えば消火活動など召喚目的に含まれていない。
(もうこの辺りに気配はないか)
紫竜によって召喚された竜を蹴散らし、近場からその気配は窺えなくなったが、ガウンが来るまで逃げ続けることが出来ずに手遅れとなった人間共の死体がまばらに転がっている。真新しくまだ腐臭を放つ心配もないので、目障りなことを除けば不快な要素も特になく気に留めることもない――ガウンの召喚主は心を痛めるかもしれないが。
とはいえ、そこまで気を遣ってやる義理があるのかどうかは測りかねるところである。現時点では保留だ。考えるのが面倒になったともいう。
(しかし紫の奴も、愚かな行為に及んだものだ)
与り知らない人間共のことは顧みず、代わりに古馴染みの知己に対して憐れみをかける。
恐らくいつもの調子で遊びを始めた程度の感覚なのだろうが、今回ばかりは相手が悪い。万に一つも紫竜に勝ち目はない。
直接対峙すれば彼我の力量差も感じ取れるだろうが、その前に紫竜デューク・マゼンタは拳を交えもせずに白旗を振るような気質とは対極だ。降参も逃走も選択肢に挙がることはないだろう。
(まあ、成るように成るだろう)
召喚主シンは、足下に及ぶ者さえ存在しない底なしの力を有することによる余裕からか、とかく甘く、お人好しである。命まで取られることは――少なくとも自発的には――ないだろう。ガウン自身、それで命を拾った口だ。
特に意味もない考えを巡らせることもやめ、ガウンは再び召喚目的をこなすことへ意識を向ける。視線の先には通ってきた場所には殆ど見られなかったまともな外装の建物の数々。
青竜ガウン・ブルーはスラム街の南端から臨む南商業区へと歩を進めながら。
(向こうのことは、気にするまでもないか)
自分と同じく召喚された同朋のことを思い浮かべるが、別段これといって意識するようなこともなく、すぐ後には自然と頭から離れていった。
◇◆◇
糸状に走る聖剣の軌跡が竜の群を斬り刻む。
目にも留まらぬ剣技に裂かれた竜の群が塵となっていく中で、取り澄ました顔つきの耽美的な気配を放つ金髪の女が一人。ヒュヒュンと剣を振って鞘に収めるその所作は洗練され堂に入っており、高潔で気位の高い騎士の模範ともなりそうな振る舞いであった。
「わー、コヴァカッコいい!」
キラキラと瞳を輝かせた小さな妖精が、興奮した様子で声を弾ませながらコヴァの傍まで空を泳いでくる。
コヴァは彼女の愛らしい無邪気な笑顔に微笑みを返して。
「そうですか。フェアに喜んでいただけたなら、私も嬉しいです」
「これで装備も揃ってたら、もう完璧な聖騎士だよ! ふわー」
「装備、ですか……」
胸の前で手を組んで夜空を見つめるフェア。その瞳には恐らく相応の装備を纏い騎士然となった姿のコヴァが映し出されているのだろう。
この召喚に際してとりわけ防具が必要になるとは思えなかったので、装いは外出用の普段着を選んだのだが。
「フェアが希望されるなら、次回の召喚時は装備を整えて来ることにしましょう」
「本当? 約束だよ!」
「ええ」
コヴァの提案に前のめりになって食いつくフェア。早くも次の召喚が待ち遠しいと期待に胸を膨らませている。
召喚されている身であっても道具出入の魔法で装備の変更は可能なのだが、今回は控えることにする。楽しみは後に取っておくというのも悪くない。
「うわあ、すごーい」
「おねえちゃん、つよーい」
路地の隅からコヴァに向けられた感嘆の声の主は幼い子供達。この南西居住区に暮らす孤児だ。フェアが気にかけていたので、いの一番に保護に向かった。
「ふふーん、そうでしょ。コヴァは凄いでしょ!」
コヴァの活躍をまるで自分の手柄のように得意げに謳い胸を反らすフェア。
目いっぱい反らしたところで膨らみがあまり強調されていないという点には触れず、コヴァは彼女にとって自慢の友たり得ているという事実に満たされる。
「一度に多くの標的を斬ることが出来たのは、フェアが囮になって引きつけていてくれたおかげですよ」
「そう? えへへ、それじゃあ二人の連携の成果ってことだね」
コヴァの発言にフェアを持ち上げようという意図が無かったとは言わないが、世辞というわけでもなく確かな事実である。
それを裏付けるように子供達もフェアの傍に来て口々に。
「うんうん、フェアもすごかったよ! ひゅんひゅーんって!」
「ちがうよ! びゅびゅーんって飛んでたよ!」
「えー……? そうかなあ? ひゅんひゅーんじゃない?」
「びゅびゅーんだもん!」
「こらあ! ケンカしないの!」
どうでもいいことで口論が始まりそうになるが、それはコヴァのような大人達の価値観であり、子供達にとっては譲れない大事なことなのである。
場を収めるにはフェアがしたように第三者による介入が効果的ではあるが、停戦は一時的なもので火種は未だ両者の間に燻り続けている。フェア達が去った後の『ひゅんひゅーん派』と『びゅびゅーん派』による抗争の再開は決して避けられない宿命にある。
「ねえフェア、フレシュおねえちゃんは? ソブリンはー?」
「そうそう、おねえちゃんはいないの? おねえちゃんに会いたい」
「んー、こんな状況だしフレシュは今大変なんじゃないかな? ソブリンも別の場所でわたし達と同じように街の皆を助けに行ってるはずだよ」
子供達がこの場に姿の見えない二人の名前を口にする。信頼の表れだろう。フレシュはともかくソブリンは一夜限り接しただけで子供達に随分と大きな印象を与えていたようだ。
「……全く、緊張感のないことです。喉元を過ぎた直後にもう熱さを忘れているようですね」
「んー、わたしもコヴァの言う通りだとは思うけど、いいんじゃないかな?」
直前まで命の危機に瀕していたとは思えない子供達の緩さに呆れて嘆息するコヴァ。その感懐にフェアは一度共感した上で。
「怯えて震えているよりは、よっぽど」
子供達に優しい眼差しを向けながら、自分の抱く心情としてそう呟いた。
◇◆◇
交易都市エプスノーム中央地区、情報管理区。
平時は都市の管理運営を担う心臓部は今や血の匂いの漂う凄惨な修羅場と化し、召喚竜によって引き裂かれ動かなくなった人の形をしていたものと、その血や肉片のこびりついた建物の残骸が瓦礫の山となって無残に夜風に曝されている。
そんな正視に耐えかねる惨烈な場において異質な存在感を放つ者がいる。赤い瞳をした紳士だ。
貴族の社交場にでも出席するのかという出で立ちで、災禍の最中にある通りの中央を堂々と落ち着いた足取りで歩いて行くその光景は、一種の狂言なのではないかとすら思えてくる。
恐れ知らずで奔放な紳士の姿が召喚竜の攻撃の的にならないはずがない。実際、その存在を認識した地竜が彼を襲おうと獰猛な唸り声と共に足を踏み出して――
――ゴォアッ!
業火に巻かれて塵と消えた。
紳士の様子に変化はない。歩調もそのままに、首を動かすことも視線を送ることすらもせず、ただ意識を向けただけで地竜は魔法の炎に焼かれ消え去った。
赤い瞳の紳士――ソブリンは目的の場所へ向けて変わらず歩を運び続けていく。道すがら意識に捉えた竜を炎撃の魔法で討ちながら。
何事もないかのように平然と通りを闊歩する紳士の傍ら、時折姿を見せる竜がその都度炎に呑まれていくという奇怪な光景に、生き延びていた周囲の人々は何が起こっているのか理解出来ず、声を失い呆然とただその姿を目で追いかけるだけであった。
「おや」
竜にも人にも関心を示さず、黙々と歩き続けていたソブリンが一人の男に目を留める。黒緑の軍服を纏う銀髪の男だ。地竜を相手に住民を背後に庇い剣を構えている。
シンによる召喚以外でドビル大空洞の外に出たことのないソブリンは、その軍人と会ったことなど勿論ない。が、有り余る時間の中で共に暮らす二人の友から空間投影の魔法を交えて聞き及んでいたので知識にはある。
ブライトリス王国軍の精鋭、武傑特務の『銀妖』グレイ・バンダービルト少佐。もとい――
「幻神、ヴィタン・レクナーデ」