43 遠い憧れの背中
竜族――それは世界中に多種多様な生物がひしめく中、戦闘能力において頂点に君臨する種族である。
各種族の下位種、中位種、上位種、特殊個体の間でところどころ逆転する例も存在するが、平均値、中央値、最頻値のいずれを抜き出しても他種族を寄せ付けない圧倒的な力を誇る。
下位三種――地竜、海竜、空竜にしても体の表面を覆う鱗が天然の鎧となり、生半可な威力の攻撃では傷一つつけることも出来ない。恵まれた肉体から繰り出される強烈な打撃は無力な凡下を塵芥のごとく易々と屠り、強靭な顎で捕らえられた獲物は逃れる術無く全身を噛み砕かれ、断末魔と共に噴き出す血飛沫が赤い染料となって鋭く尖った牙を濡らす。
弱肉強食という不変の理に愛された、剛の極致に触れた種族。それがドラゴンである。
「こっちだ、早く!」
「ねえ何なのこれ!? 何が起こってるの!?」
「邪魔だ、どけ! 止まってんな!」
「誰かうちの子を、うちの子を見ませんでしたか?」
「おい後ろ! やばいやばいやばい、こっち来てんぞ!」
「助け……誰か、誰かああああ!!」
「うぁあママ―! どこ行ったのー!?」
北商業区の人々もまた、その絶対的な暴力に蹂躙される脅威に慄いていた。
罵声が、怒号が、悲鳴が、泣き叫ぶ声が飛び交う大通りは恐怖と混乱に支配され、活気に溢れる日常がまるで遠い別世界の幻だったかのように思わせる。
この区画は南西居住区と違い建物は頑丈だ。屋内でやり過ごすという選択肢も悪くないように思える。ではどうして大通りにここまで人が群がっているのかというと。
「もうちょっとだ! あそこ! 正門!」
人々が逃げる方角は一様に北。都市の玄関口、北正門を目指し皆走っていた。いや、正門ではなく都市外と言った方が正確か。
召喚された竜の猛威は都市内に限定され、今のところ門の外へは及んでいない。それに気づいた住民達が身の安全を確保するために都市外へ逃げ場を求めたことは必然と言える。
「ユイ、頑張れ! あと少しだから!」
「ハァハァ……う、うん」
大通り沿いの老舗宿屋の兄妹ジャンとユイもまた、北正門を目指して走っていた。
「お父さん、お母さん、皆……」
「大丈夫、絶対に後から来るって言ってただろ? 皆がそう簡単にやられたりするもんか」
後ろ髪を引かれるような様子で不安げに呟く妹へ、ジャンは力強く言葉をかける。
父と母は二人を先に逃がす際、従業員と宿泊客の避難を手助けしてから後を追うと言っていた。我先にと逃げ出したくなる状況の中で、周囲の人々にも気を回すことの出来る商売人の鑑だ。そんな両親がこんなことで死ぬはずがない。だから今は自分達が無事に逃げ切ることを考えろ。
そうジャンが自分自身を奮い立たせたところで。
「うわああああああ!!」
一際目立つ大きな悲鳴が響き渡った。すぐ近くだ。
反射的に顔を向けたその先から人の波が押し寄せてくる。竜に追われた人々が必死の形相で逃げてくる。
召喚された竜の群は、始めのうちは都市の中心方面へ向かっていたものが多かった。これも逃げ場に都市外を選ぶ人が増えた要因の一つだ。しかしそうして皆が同じ方向へ逃げていけば、その先は自然と人の密度が増していく。そうなれば竜の狙いもそちらへと向けられるのは、考えるまでもないことだった。
「あっ……! お兄ちゃん!」
人の群の激流に呑まれ、誰かとぶつかった拍子に妹と繋いでいた手が離れてしまった。
もっとしっかり握っておけばよかったと後悔する間にユイの声が遠くなる。もしかしたら転んだのかもしれない。
「ユイ!」
ここで妹を見失えば再び見つけ出すのは困難を極める。はぐれるわけにはいかない。
すぐさま踵を返して人波の流れの中を逆行する。体をぶつけ、舌打ちと罵声を浴び、転びそうになりながら、それでも人の波をかき分けていく。
必死に妹の姿を探す中、不意に人の流れが途絶えた。群衆の最後尾を抜けた先でジャンが目にしたのは、転んだまま地面にへたり込んで体を震わせる妹と――
「グルルルル……」
凶悪な唸り声と共にゆっくりと妹へ近づいていく一匹の地竜だった。
「あ……あ…………」
幼い小さな体より何倍も大きな地竜の本能的な攻撃性にあてられたユイは、恐怖のあまり腰を抜かしてその場から動くことすら出来ずにいた。間近に迫る絶対的な強者を前に、その身に降りかかった災いがより現実感を掻き立てて――死という結末を初めて意識する。
「くそっ!」
絶望的な場面を前に、ジャンの体は頭で考える間もなく反応する。
「ユイを守るんだ」――その一心に己の全てを傾けて。
父に、母にかけられた「ユイを頼む」の一言が脳裏にフラッシュバックする。
地竜の影がユイにかかる。脚でも尾でも、一振りされるだけで全てが終わる距離だ。間に合え。
ただ現実的には無情にも、ここで間に合ったとしても地竜に殺される順番が変わるだけなのだが、そんなことはジャンの頭の中になかった。
(僕が、守るんだ!)
ただその魂に刻み込んだ思いを気迫へと変えて。
地竜が動作に入る。前脚だ。分厚い丸太のように太い前脚の先端から突き出た凶器――鉤爪が月明かりに照らし出され、その禍々しさに背筋が凍る。
手を伸ばす。叫ぶ。ユイがこちらを見る。涙の溜まる瞳に映し出された感情は、是が非でもこの窮地から脱したいと願う生への執着か。それとも逃れることの叶わない運命を呪い儚む絶望か。恐怖か。悲嘆か。驚きか。焦燥か。
驚き? 焦燥? 何に?
(……僕、に?)
自分が殺される間際というこの瞬間に、ユイは助けに来た兄の身を案じたというのか。
ユイが何かを叫ぶが聞こえない。脳が聴覚と色覚に割くリソースを時間認識感覚の引き伸ばしへと回している。おかげで世界は白黒無音のスローモーションだ。
地竜の前脚が振るわれる。が、それよりも先にジャンの伸ばした手がユイに触れる。間に合った。そのまま抱きしめて覆いかぶさり、きつく目を瞑って来たる衝撃に心を備える。
(…………?)
来るはずの衝撃が、来ない。
時間の認識は既に通常の感覚に戻っている。
わけがわからずにジャンは目を開いておそるおそる頭を上げると、澄んだ声が混乱を極めた大通りの空気を切り裂いた。
「危なかったね、もう大丈夫だ」
白い外套を翻し、両手に持った剣で地竜の鉤爪を受け止めていたのは明るく鮮やかな青髪の男。
その男の背後から黒い閃光が通り抜けた直後、首を飛ばされ絶命した地竜の体がズシンと重い音を立ててその場に崩れ落ち、召喚目的を果たせなくなったその身は塵となって夜闇に消えた。
あまりの展開について行けず、目を見開いたまま呼吸すら忘れて目の前の光景を眺めるだけのジャン。その横から。
「まーたいいとこ持ってくんだから、ずりーよなー」
緊張感のない様子で不満に口を尖らすのは、動きやすさと頑丈さを兼ね備えた盤石の装備を身に纏う整った顔立ちの冒険者。
ジャンは知っている。彼を――いや、彼らのことを。
「でもまあ、今夜は活躍の機会はいくらでもありそうだな。期待してくれていいぜ」
誰に向けてかはわからないが親指を立てて白い歯をキラリと光らせる、仲間のサポートを優先しつつ自らもアタッカーとして攻撃に加わる器用な男、レイ・クルツ。
「ん、期待してる」
レイに応えたのはたった今地竜を仕留めた閃光。小柄な少女で黒髪黒目だが装いは白を基調としている。白よりも黒が際立つ理由は彼女の手にした得物だ。
己の身の丈を優に超える巨大な黒い斧。その華奢な身体の、細い腕のどこにそれを振り回す力が隠れているのか理解に苦しむ天性のアタッカー、ネリー・ウェレット。
「おいおい、冗談言ってるような場合か?」
続いて現れたのは堅固な防具に身を包んだ赤髪の大男。自慢の巨躯に備わった耐久力で敵の攻撃を一身に受け仲間を援護する守りの要のタンク、フェルボート・モールディン。
「とりあえず、この付近はあらかた片付いたみたいだし、多少はね」
そして最後にジャンとユイを救った青髪の男。前額部に白い宝石が嵌め込まれたサークレットが特徴的で、左の上腕部につけられた腕輪には七角形に三本の縦線――三等級冒険者の証が刻み込まれている。
武器の扱いも魔法の才にも長け、広い視野と素早い判断力で状況に応じ的確に自分の役割を演じ分けるオールラウンダー、アシュトン・ロメロ。
彼ら四人こそエプスノームの冒険者組合が誇る等級持ちの一角――
「トリックスターズ!」
ジャンが声を上げるのに続いて、周囲から「うおおおおおお!!」と大きな歓声が巻き起こる。死地に現れた救世主への熱烈な歓迎だ。
ここへ来るまでにも召喚された竜を討伐していたらしく、人々は「つええ」「すげえ」「等級持ち半端ねえ」「助かった」「ありがとう」と口々に感嘆を漏らしていった。
「おお、俺を称える歓声が……!」
「たぶん大体アシュトンとネリーに向けられたもんだと思うぞ」
「それは不当。だからこれは皆に向けられたもの」
感無量とばかりに拳を握り目を閉じて天を仰ぐレイに冷や水を浴びせるフェルボート。そんな二人にこの歓声を共有しようと促すネリー。本音か、チームの調和を重んじてかは端から見ていて判断つかない。
三人のやり取りを後目にアシュトンがジャンの方へ歩み寄ると、しゃがみ込んで微笑みかけてきた。
「その子を、守ったんだね」
――不意に。
その一言で、今まで自分達に起こったことが実感として胸の内に湧いてくる。
ユイも同じようで、袖を掴んでいた手にぎゅっと力がこめられるのが伝わってきた。
「お兄ちゃん……怖かった……怖かったよぅ…………」
緊張の糸が切れ、ぽろぽろと涙をこぼし嗚咽に声を詰まらせながら、拾った命に安堵するユイ。
「助けてくれたのはあなたです」「僕は何も出来なかった」「あなたが来てくれなければ二人とも死んでいた」。彼に伝えたい感謝の言葉はたくさんあるはずなのに、一つとして口から出て来ない。
それでも思いは伝わったのか、アシュトンもそれ以上のことは言葉にせず、ただひたすらに自分を見つめ続ける少年の肩をぽん、ぽん、と叩いて仲間の輪へと帰って行った。
「どうするアシュトン? 適当に騒がしい方にでも向かうか?」
「そうだね。南や東は軍と貴族お抱えの部隊がいるだろうし、なるべく北と西に絞った方がいいんじゃないかな」
「南西居住区が、少し心配」
「うんにゃ、たぶんそっちは大丈夫だと思うぜ」
「どうして?」
王国軍や貴族達からしてみれば南西居住区は優先度が低い。したがって現在同地区の防守は手薄になっているはずなのだが、それを否定したレイにネリーは根拠を聞いてみる。その答えは。
「勘」
「そう」
実りのない返答に気落ちするでも苛立ちを見せるでもなく、ごく普通に流すネリー。
都度都度突拍子もないことを言い出すレイに慣れきってしまっている故の反応である。それは残る二人も同様で。
「北商業区は広いからね。エプスノームのシーカーチーム総出でも西の工業区までカバーするとなると、他に回る余裕があるかどうか」
「そうだな。総出っつってもドラゴン相手に戦力になるのがどれだけいるかって話にもなるしな」
厳しいようではあるが、足手纏いになるくらいなら住民と一緒に避難してもらいたい。現場の戦闘に参加されても邪魔になる。自分達の力を過信するような冒険者は早死にするだけだ。
と、一時的に竜の脅威が去った大通りに、また遠くの方から破壊音と悲鳴らしき声が響いてきた。
「あっちか。行くよ皆」
「おうよ」
「ん」
「市民が俺の助けを待っている!」
三等級シーカーチーム『トリックスターズ』。この夜彼らは召喚竜討伐の英雄としてこの場の人々の記憶に刻まれた。
その活躍の恩恵を一番に受けた少年にとって生涯忘れることのない体験であり、その背中は大きく、遠く、遥か高い頂にあるように感じられた。