41 精神簒奪
硬直した身体は動きを見せない。
大きく見開かれた目とぽかんと開けられた口が表現するのは驚き以外の何物でもなく、停止した思考が活動を再開するまでの僅かな時間をたっぷりと、目の前の不愉快な相手に明け透けに晒すこととなった。
「いい表情するじゃねえか、そんだけでも教えてやった甲斐あるぜ」
ギラついた紅紫の瞳で、ねっとりと舐め回すようにサイリの表情を視姦するデュークが満足げに笑う。そんな不快で厭わしい紫竜の態度は、サイリにとって既にどうでもいい枝葉となっていた。
「アンリって……まさか、聖王の?」
「今の話の流れでそれ以外の意味が思い当たるってんなら、聞かせてほしいもんだ」
そうだと答えれば済むところを、わざわざ皮肉で返してくるところがこの男の嫌味な性格をよく表している。
アンリの姓は珍しい部類に入るが、特筆するようなものでもない。要するに、普通だ――それが聖王の姓であると認識出来る者以外にとっては。
「……証拠は? あるんでしょう?」
「ねえよ、そんなもん」
裏付けを求めるサイリに対し、デュークは臆面も無くそう言ってのける。
この竜はやはり自分のことを馬鹿にしていると再確認し、サイリはこめかみにくっきりと青筋を浮かび上がらせた。
「信じるも信じないもお前の自由だ」
「ふざけないで。それで終わりにするつもりなら、協力なんてしないわよ」
相手側の取引材料が情報で、それをもう受け取ってしまっている状態でのこの発言は、非常に危うい。紫竜が実力行使に出かねない。
だがそのリスクを考慮した上で、それでもこの件に関しては裏付けが欲しかった。これが嘘であってはたまらない。
「大体聖王の娘は悲劇の際に亡くなってるはずじゃない。生きていたとしても、七暁神の元じゃなくてベレスフォード家で養子にされているなんて、どういう経緯よ?」
「そう焦んな。聖王の娘について、一つ大事なとこがあんだよ。そいつの年、知ってるか?」
「年齢? 知るわけないでしょ、千歳くらい?」
神話の時代の人物の年齢などわかるわけがない。本人ですら把握しているかどうか。
このニーズヘッグも自分の年齢を覚えているのか怪しいものだ。欠片も興味がないので聞くことはないが。
「十五歳だ」
「そっち? 養子としての設定に何の意味があるのよ?」
「設定じゃねえよ、実年齢だ」
「はあ? 何わけのわからないこと言ってるのよ」
この時代になって聖王が子作りに励んだとでもいうのか。それはない。『悲劇』以降七暁神は子孫を残そうとしていない。最たる例として、魔王などは生殖機能を自ら捨て去っているほどだ。
侯爵家の養女が本当に聖王の娘なのであれば、神話の時代の生まれであることに疑問の余地などないのだ。
「まさかその子が時空を超えてきたとでもいいたいわけ?」
「そうだぞ。何だ、わかってんじゃねえか」
「…………」
当てこすったつもりが何ということもなく肯定されて挙動が固まる。そんな魔法は無い。
虚仮にされていると感じたが、目を閉じ、髪を梳き、深呼吸をして苛立ちを逃がす。紫竜が嘘を言っているとは限らない。まずは落ち着こう。
「……どうやってよ?」
「ちっとくらいてめえで考えようとか思わねえのか? そんな難しい話じゃねえだろ」
余計な口を叩くデュークに無言のままぎろりと不快の眼差しを向け圧をかける。
その程度で怯むような男ではないが、同じようなやり取りを続けるのが面倒とでも感じたか、呆れた様子で「仕方ねえ奴だな」と大きく嘆息してから紫竜は言葉を続けた。
「千年前のことだぞ。あんだろが、今じゃもう誰も使えなくなっちまったけどよ」
一貫して確答を避けるデュークの言い回しに反感を抱く前に、示されたヒントからハッと閃くものがあった。
千年前には存在し、現在は消失した、時空移動をも成し得る可能性を秘めた概念と機構。それは――
「――スキル!」
「個別固有の特殊能力は、本来お前らの専売特許じゃねえんだよ」
紫竜の言葉の端から口惜しさと妬みが僅かながら滲み出すのが感じ取れ、サイリは優越感を得て留飲を下げる。消失した概念を異なる形で再現してみせた主人アランはやはり偉大だ。
スキルが存在した当時なら時空移動は不可能な話ではない。だとしても。
「でもそれだけじゃ、その子が聖王の娘だっていう証拠にはならないじゃない」
「あのな、状況を考えてみろよ。この時代に来た時点でそいつは孤児になんだろ。そんでエプスノーム周辺じゃ最大の力を持つベレスフォード侯爵家の――しかも本家が、都合よく養子として迎えたのが貴族でも平民ですらない孤児だ。孤児っつっても腐るほどいるガキ共の中、アンリの姓を名乗る奴をだ」
サイリの指摘を鼻で笑い講釈を垂れる紫竜は、呆れ顔から人を見下した不快なにやけ面へと表情を変えていく。
「お前にゃこれが全部偶然だって思えんのか?」
癇に障るデュークの弁への反論を、サイリは見つけ出すことが出来なかった。
◇◆◇
紫竜とのファーストエンカウントでのやり取りを思い出していたサイリは、不愉快に眉を顰めつつ目の前の光景へと意識を切り替える。
「やめて……やめてよぉ……」
トラウマを掘り返されて苦悶に喘ぐ少女を前に、サイリの胸中は複雑に感情が入り乱れる。
彼女は殺意を煽る宿怨の仇の娘だ。自然、湧き上がるのは悪感情。だが、彼女自身には何の罪も無い。彼女に悪意を向けるのは筋違いだ。
そんな理性の声を喰らう感情を律することもままならない自分自身の小ささに、サイリは苛立ちを覚えていた。
痛ましい姿で悲痛に訴える少女を目にしても哀れみの感情が芽生えることはない。自分が他人に対し無関心で薄情だという自覚は持っていたが、この光景を前に何も感じないというのはおよそ人としての感性を疑う。胸がすくといった思いまでは流石に無いが。
自身の抱く感情の不和を差し置いて、仕込みの進捗は順調と言えた。
サイリのアビリティ『精神簒奪』は極めて優れた精神力の持ち主には効果が薄い、若しくは得られない。でなければ銀妖も紫竜も既に手中に収めている。
加えて対象の人物を自在に制御出来るものでもなく、行動を起こさせるには基となる感情が不可欠である。例として好意的で敵意を全く抱いていない相手に対して危害を加えるよう動かすことは不可能であり、それをさせるには事前に標的への敵意を植え付けておく必要があるわけだ。
要約すると、対象の感情の増幅と抑制。これがサイリの能力の大まかな仕様だ。
オーム・ベルグレイヴにはフレシュの血縁を認識させた後、聖王教会に対する不満を増幅させることで、今回の行動へ駆り立てるに至った。
(悪いわね。恨むなら、あなたの父親を恨みなさい。存分に)
敵意とはいかないまでも、実の父親への不信を植え付けるために心の傷をもろに抉られ頽れた少女へ、サイリがそう念を送った時。
「――な、何?」
突如、上空に青白い光を放つ無数の円盤が出現した。
何事かと戸惑い落ち着きを失う前に勘が働く。思い当たる節がある。こんなことをやりかねない輩について。
(……ニーズヘッグ!)
あの竜の仕業に違いない。
数こそ凄まじいが、大きさはどれも常識の範囲内で前回ほど莫大な魔力は必要とされず、同時発動の為の技術と練度が要求される芸だ。じっくりと魔法に集中する時間さえ確保出来れば、八彩竜なら可能であろう。
それより問題は行使された魔法の種類だ。サイリは展開された魔法陣からその効果を読み取る。青白い光を放ち、六芒星を基調とした模様。それが示すものは。
(召喚魔法!)
サイリが認識すると同時、答え合わせをするように魔法陣の真下にそれぞれ姿が形作られていく。体表を鱗で覆われ、牙と角を生やした巨大なトカゲ。間違いなく紫竜に隷従する竜だ。
大きさはまばらで平均して馬車と同程度の下位竜――地竜のようだが、中には三階建ての家屋ほどにもなる中位竜――火竜の姿も確認出来た。
そして、サイリの真上には。
「嘘でしょ!?」
サイリ目がけて降ってくる巨大な質量。飛び退いたその場所に凄まじい衝突音が鳴り響き、衝撃で砕かれた石畳の破片がそこかしこに飛び散る。
割れた地面からもくもくと砂煙が巻き上がり覆われた視界の中、サイリは後方を確認する。あの娘は無事か。絶対にここで失うわけにはいかない。
砂煙の隙間からその無事を確認しほっとする間もなくすぐさま注意を前方へ。見間違いであったと思いたいが、その願いも空しく、視界が晴れ、目にした現実にぎりりと奥歯を軋らせて憤る。
(あの性悪ドラゴン~!!)
相対した巨体は召喚された中でも少数の火竜。襲われたら死を免れない脅威だ――大多数の生物にとっては。
サイリはその限りではない。非凡な戦闘能力を備えた極少数の実力者だ。火竜程度なら問題なく仕留められる。
単数ならば。
サイリと視線を交える巨体の瞳の数は八。四対の目。四匹のドラゴン。その全てが火竜であった。
サイリがここに居ることを、ここに居る理由を知る紫竜が、四匹の火竜を纏めてこの場に召喚したのだ。嫌がらせ以外の何でもない。
四匹を同時に相手取るのは厳しい。が、それは勝てないという意味ではない。戦って勝利を収めることは大変だが難しくはない。厳しいというのは、四匹全ての注意を自分に引きつけておくことだ。つまり。
「逃げなさい!」
火竜共から目を離さず、腕を振って後ろのフレシュに指示を叫ぶ。
一匹でも彼女を標的にされたらまずい。そこまでは手が回らない。守り切れる自信が無い。
切迫し気を揉むサイリをよそに、後方はアクションを起こす気配がない。事態に対応しきれていないのだろう。
無理もない。彼女はただでさえ精神的に追い詰められていたのだ。畳みかける事態への冷静な対応など、期待する方が間違っている。そう悟ったサイリは迅速に。
〈精神簒奪〉
オームの感情を操作して、フレシュを連れて逃げるようにしむける。
もう猶予は無い。落下の衝撃から体勢を整えた火竜共の血気に逸った唸り声が危機感を煽る。
「早く!」
焦るサイリの叫び声を合図に、四匹の火竜が一斉に咆哮をあげて襲いかかってきた。
◇◆◇
交易都市エプスノーム情報管理区に一際高くそびえ立つ、都市を象徴するゴシック様式の鍾塔。その展望台から文字通り高みの見物に興じるのは紅紫の髪の男、紫竜デューク・マゼンタ。
「おーおー、慌てとる慌てとる。相変わらずえげつないなぁ、デュークさんは」
召喚された竜の群によって一瞬にして修羅場と化した地上とは真逆の気楽な声がデュークにかけられる。
声の方に視線を送るとそこには薄紫の長髪を纏めた男。デュークの右腕で上位竜の頭目の一体、紫焔竜エリック。彼も他の竜達と同様、デュークがこの場に召喚した者だ。
「祭りってのはこんくらい盛大にしねえと面白くねえだろ?」
「うーわー、強引に参加させられる人間共はたまったもんじゃないでしょうに」
言葉の表面だけに乗せられた薄っぺらい憐れみを眼下の人間共にかけて、エリックはデュークの所業の数々を振り返る。
「ラシエトもハンガストリアもひどい有様だったなぁ。この世のものとは思えない、そらもう阿鼻叫喚の地獄絵図」
「おいおい、一番楽しんでた奴がどの口でほざきやがる」
他人事のような口調のエリックにたまらずデュークは苦笑してあげつらう。だがエリックはそんな指摘を顔の前で手を振って否定する。
「いやいや、僕は心の底から楽しんでたのと違いますよ。ただデュークさんの手前、ノリが悪いと塩梅良くないでしょ? だからこう、仕方なーく、ねえ」
「本気でそう思ってんなら俺の前で言わねえだろそれ」
隠す気のさらさらない二枚舌は腹芸でも何でもないただの戯れだ。反射的にツッコミを入れたデュークは呆れてジト目になっていた。
「まあどうでもいいんだけどよ、時間稼ぎはしっかりやってくれよ?」
「あーそれなんですけど、流れて来たデュークさんの記憶の限りじゃあ、僕には荷が勝ちすぎてません? 戦闘になったら一瞬でお陀仏ですよ、僕」
「いやわかってんよ、戦おうとすんな。口八丁はお前の得意芸だろ? 適当に欲しがりそうな餌でもぶら下げて食いつかせとけ」
「うへえ、やっぱりそういう方向なんですねぇ。……餌、餌か」
予想した通りの難題にエリックは渋い表情を作り、少しばかり考えを巡らせてから。
「現出して間もないプレイヤー相手なら、使えそうなネタはあの辺りか」
対象を掌で転がす算段をつけて、ニヤリと不敵な笑みを浮かべた。