第30話 その場を去る三つ目の化身
主人公以外の二人の視点から主人公の視点へと続きます。
今回も〈魔を鎧いし者〉には、コウイチとしての意識が無いように見える。
〈装魔の勇者〉の顕現については、あの装備における魔法陣の向きがキーであろうと予測がついたわけだが、彼の意識を保持する方法については、現在のところ見当もつかない。
今の状況では、コウイチに全てを話す時期の判断は保留せざるを得ないだろう。
未知の要素が多すぎる為、この段階で半端な情報を与えることが、彼にどのような影響を及ぼすかが全くわからないのだ。
こめかみを揉みながら五本角を見つめる私の耳に、傍らにいたマルタの呟きが聞こえてきた。
「大鬼……じゃない。五本角ってことは、あれは神鬼ね」
私は思わず彼女の顔を見つめた。
この状況でも女冒険者は冷静さを失わないようだった。仲間の安否も不明の筈だが、特に気にしているふうでもない。
いや、それよりも先ほどの言葉だ。
「いま、神鬼とか言ったかい?」
「例の冒険者ギルドが保存している古文書のひとつ――召喚術師の伝承か何かの写本で見た覚えがあるわ。真龍にも匹敵すると言う鬼族の最上位種だとか書いてあったわね」
そう言うと、マルタは面白そうな表情になった。
「オリヴァーにものを教える立場になる日が来るとは思わなかったわ」
「私が物を知らないと言う事は、私が一番よく知っているよ」
これは掛け値なしの本音だ。
学べば学ぶほど、知れば知るほどに世界は謎に満ちている事がわかる。それゆえ、私は何もかもを捨てて学術院の門を叩いたのだ。
まぁ、それはもう過ぎた話だ。
「それにしても、真龍に匹敵だと? 飛龍もどきよりはマシかと思えば……まったく」
すっかりと我が家の家事担当が板につき、挙げ句にはシャルロッテの良き玩具にまでなっている大鬼もどきの正体に、私は驚くというより呆れてしまった。
しかし、アレがそうしたものだとすると、あの編み物の魔道的な紋様もうなずけるというものだ。
「しかし、このぶんだと――他の〈使い魔〉も、実体はとんでもない連中かもしれないな」
そんな事を呟いていると、それまで地上の五本角を睨んでいた鷲獅子が動いた。再び、いくつもの火球を放って来たのだ。
それに対する五本角の反応は、かなり暴力的なものだった。
逞しい腕を一振りして、魔道的な原理に由来する筈のそれらを、あっさりと弾き飛ばしてしまったのである。
「攻性魔法を無効化している?」
私は思わず叫んでしまっていた。
つまり、神鬼なる存在は、魔法的な攻撃を全く受け付けないと言うことだろうか。そうだとすると、五本角への有効打は、直接的な攻撃しか無いと言う事になる。
しかし、美しいまでの見事な筋肉で覆われた体躯を見ると、鷲獅子といえども正面からでは力負けしそうにも見えた。
あそらくは、鷲獅子も同じ思いだったのかもしれない。
空に遊弋したまま五本角を睨み、次の一手を考えているようでもあった。
少なくとも戦いにおける主導権については、飛行能力を備えた鷲獅子側に分があるようだ。
五本角がいかな怪力を誇ろうとも、その手が届かなくては、そもそも勝負にならない。
「このぶんだと、コウイチは、また形態を換えるのかな」
古文書の記載によれば、勇者とは『七つの偉大なる力』に象徴される存在である。
すなわち、〈装魔の勇者〉は七つの〈使い魔〉を状況に応じて鎧うことで、その特性を自在に操る能力の持ち主である筈だった。
そして、いつぞやの飛龍もどきに形態を換えれば、鷲獅子と同じ土俵に立つ事は可能と思われた。
だが、コウイチの行動は私の予想を遙かに超えていた。
五本角は、一瞬身を屈めたかと思うと、次の瞬間には鷲獅子の頭上に、その姿を現したのだ。
「ちょ、跳躍した!?」
「そんな莫迦な」
周囲にいた群衆が口々に叫び、そして絶句していた。
残念ながら、私も同意見である。
基本的には大地を踏みしめる種である鬼族が、怪鳥族にも連なる魔物の上まで飛び上がるなど、非常識も甚だしい。
私やマルタを含めた群衆は、五本角が豪腕をふるって鷲獅子を地上に叩き落とす様を、唖然として見ていた。
地上に激突した鷲獅子は、その時点で虫の息だったようだ。
その巨体めがけて、落下してきた五本角が見事に着地した。いや、それは壮絶に踏み潰したと言った方が正確だったかもしれない。
湿った大木がへし折れるような音が響き、恐るべき魔物であった鷲獅子は、悲鳴を上げる事すら許されずに絶命したのだった。
飛龍騎士団の大半を壊滅させるほどの鷲獅子という脅威が取り除かれたわけだが、中央市場に集まっていた群衆に安堵の様子は無い。
その恐るべき鷲獅子を圧倒的な力――文字通りの力尽くで斃し、なおも周囲を睥睨している五本角を怯えと嫌悪の視線で見つめているのだ。
「私も迂闊だったな」
未だに能力の全容を見せない〈装魔の勇者〉だが、一つの欠点――いや、致命的な欠陥が明らかになった。
それは、魔物と見分けがつかない異形の外見だ。
考えてみれば、私とてコウイチが姿を換える光景を見ていなかったら、あれが味方だとは到底思えなかったであろう。
その異形としかいいようの無い姿は、よく見れば一種の美しさを伴ってもいる。
しかし、それは、民衆の想起する〈勇者〉とはほど遠いもののようだった。
事実、鷲獅子から救われた筈の群衆も、明らかに五本角を恐れ、敵だと見なしている。
そんな緊張に満ちた静けさの中で、一つの声があがった。
「飛龍騎士団だ。飛龍騎士団が来たぞ!」
見ると、数頭の飛龍がこちらへやってくるところだった。
「勇者様を乗せている!」
「本当だ」
確かに先頭を飛ぶ飛龍の上には、緑色の装備に身を固めた少女が危なげ無く立っているのが見える。
隣国プレニツァに赴いていたという〈疾風の勇者〉――私も会った事のあるスズネに違い無い。
そして、赤い装備の少女と青い甲冑の若者が騎乗する二騎の飛龍がスズネに並んだ。
この二人は〈火炎の勇者〉と〈氷雪の勇者〉だろう。
周囲の群衆は、強大な救世主の出現に歓喜の声を爆発させた。
「〈疾風〉〈火炎〉〈氷雪〉の三勇者だ」
「ありがたい」
「勇者さま、お願いです」
「早く、この大鬼を退治して!」
「なにとぞ、魔物から我々を助けてくだされ」
それらは飛龍に乗った〈勇者〉達に向けた声援であり、五本角を持つ『魔物』退治の懇願であった。
口々に叫ぶ人々を見て、私は暗澹たる思いになった。
「これは……今後のやり方を少し考えないといけないな」
この先も〈装魔の勇者〉は、その異形ゆえに、民衆の支持とは対極の立ち位置を強いられるものと思われた。
つまり、コウイチは正統たる勇者として脚光を浴びる事はおろか、逆にその正体が彼であると知られるのを回避せねばならないと言う事だ。
さもなければ彼は、彼が守るべき民衆から迫害を受けることになるだろう。
異質、異形の存在に対する、人々の扱いがどのようなものか、私はよく知っている。
それにしても、コウイチと言う若者は、つくづくと不運な星の下に生まれたようだ。
召喚された時は員数外と見なされ、勇者としての資質を顕してもなお、その能力のありようから民衆には敵視される。
せめて私やシャルロッテだけでも、彼を勇者として遇し、報いねばならないだろう。
それは、異世界から召喚され、おおいなる使命を負わされた若者に対する、ささやかではあるが当然の義務と思えた。
ただ、どのようにすれば、彼が報われる事になるのかはわからない。
少なくとも金銭などでは意味の無い事は明白である。
彼がその気になれば、値段のつけられないような素材を、いくらでも採取してくるであろうから。
「そうなると……やはり、あれしか思いつかんな」
コウイチの世界にも同じ言葉があるそうだが、俗に「英雄、色を好む」と言う。
つまりは勇者も色を好むであろうから、その方向でいくしかあるまい。
さいわいにして私は、彼に対しては、そうした事に抵抗を感じない。
今までにも色々とやらかしているが、コウイチは困った素振りはするものの、心の中では喜んでいるのは明白だった。
(あるいは……)
傍らにいる女冒険者の、その端正な顔や、引き締まっていながらも要所は出ている身体を横目で見ながら、私は心の中で呟いた。
(私やシャルロッテ以外にも、彼を勇者として遇し、報いてくれる人を増やす。これが私の仕事になるな)
何かがズレているような気がしないでもなかったが、私にはこれが精一杯である。
学術院では希代の天才と言われていたようだが、つまるところは、これだけの人間でしかないのだ。
ともあれ、今はそれどころではない。
本来であれば、手を携えて、共に〈禍神の使徒〉と戦うべき〈勇者〉同士が、今まさに正面から激突しようとしているのだ。
自分の無力さを痛感しつつ、私は祈る思いでただ見ているしかなかった。
◇◆◇
さすがに〈勇者〉ともなれば、飛龍を駆っても凄まじいものがある。
その飛翔速度は、召喚術師たる私自らが操る天馬ですら、完全に置いて行かれるほどだ。
〈勇者〉の専用騎を一角獣から、より機動性のある飛龍へと替える事が検討されたのは、前回の鷲獅子騒ぎで出遅れた反省、及び、その対策としてのものである。
属性との相性問題もあって、〈大地の勇者〉や〈冥闇の勇者〉は対象外とならざるを得なかったが、〈疾風〉〈火炎〉〈氷雪〉の三勇者は、見事に飛龍を乗りこなしていた。
「勇者ってのは、凄いもんだね。いっその事、この天馬を専用騎にしても良かったんじゃないかな」
天馬の背に跨がる私の後ろで、そんな感嘆の声をあげたのはマチアスだった。
だが、天馬は扱いがひどく難しい召喚獣だ。隷属の印を刻んでさえ、御するのは容易ではない。
聖獣とも言われるこれを私以外に操れるとすれば、おそらくは〈聖祈の勇者〉か〈光輝の勇者〉くらいのものだろう。
私にしても、マチアスの魔力制御の支援が無ければ、単独では天馬の能力を充分に引き出すのは難しい。
逆に言えば、能力を充分に引き出す事さえ出来れば、天馬は、鷲獅子を凌ぐレベルの召喚獣なのである。
先日の鷲獅子相手に私の知己たる龍騎士が幾人も命を落としたが、これ以上の被害は防がねばならない。
私が専用騎を天馬に替えたのはその為なのだ。
先行する〈勇者〉達に追いついた時、鷲獅子は既に斃されていた。
そして、〈火炎の勇者〉と〈氷雪の勇者〉は別のモノと戦っていたのだった。
「な、何だと!?」
私は絶句し、マチアスが驚愕の声を上げる。
中央市場があった場所にいたのは、信じられないほどに逞しい体躯をした巨人だった。
五本の角を生やし、長髪を振り乱したソレは、〈勇者〉達が次々と放つ高レベルの火球や氷塊を、むしろ煩わしげにはね除けている。
その逞しい腕が時折煌めくのは、瞬間的に魔力を発動しているせいだろう。
「五本角? まさか、神鬼か。しかし、何であんなものが……」
マチアスが喘ぐような声を出している。
私とても、それは同じような気持ちだった。
コウイチの召喚した鬼族も五本角だったが、これは全く次元の異なる存在だ。
〈勇者〉の攻性魔法をあっさりと弾き返すようなレベルのものを、どうやって召喚できるものか見当もつかない。
そういえば、コウイチが以前に真龍を召喚したいなどと言った時、制御の難しさを理由に却下したわけだが、そもそも、真龍級の存在を召喚するのは、ある意味では〈勇者〉の召喚よりも遙かに困難だ。
古文書を紐解き、遺物、魔法具などを駆使して成功したと言っても、じつのところは詳細が明らかとは言えない『勇者召喚』と違って、龍族や鬼族の召喚それ自体は手法が確立されている。
だが、逆に言えば、召喚術師としての技量だけがものを言う事になるのだ。
今の世界で、真龍級の召喚を成し遂げられる召喚術師はいない筈だ。
そうすると、あの神鬼はいかなる経緯でもって、この世界に顕現したのだろうか。
「ええい、このぉ」
その時。
いっこうに堪える様子を見せない巨人に対し、〈火炎の勇者〉が苛立ちの声を上げた。
その手が腰に結わえられた鞭に伸びるのを見て、私は愕然とした。
「お待ち下さい。それは……」
〈勇者〉の装備に付随する武器は、その属性魔法を増幅させる魔法具でもある。
とくに〈火炎の勇者〉が操る火属性の攻性魔法は、風属性と並んで威力が大きくなりすぎる為に、それを手にしたことは一度も無い。
おそらくは、あの神鬼らしき存在を斃すには、それだけの打撃力が必要と判断したのだろうが、冗談では無い。
ここは王都のど真ん中なのだ。そんなものを発動したら、余波で王都が壊滅してしまう。
さすがに〈氷雪の勇者〉が止めに入った。
かっとなりやすい〈火炎の勇者〉に対して、〈氷雪の勇者〉は常に冷静さを失わない。これは各々の属性が性格にも影響していると見るべきか。
「由美、ちょっと待て! それはやり過ぎだ」
「このあたしが、あんな鬼ごときになめられてたまるもんですか。冷やすしか能が無い浩志は引っ込んでてよ」
「そんな言い方はないだろう」
日頃は親密な二人の勇者が険悪な表情で睨み合っている。
対となる属性は補完の意味合いで互いに惹かれるが、一方では何かのきっかけで反目も起こしやすい。
とは言え、こんなところで〈七大の勇者〉同士が相打つなど、それこそ洒落にならない話だ。
強大な力を持つ二人の間に割り込むわけにもいかず、切迫した思いで見つめていると、不意にユミとヒロシの間に光のウィンドウが現れた。
『二人とも落ち着きなさい』
状況を遠見で監視していた〈光輝の勇者〉が、『めーる』を飛ばしてきたのだ。
さすがにその指示には抗えないようで、二人の〈勇者〉はしぶしぶ矛先を納めた様子だった。
そして、もう一つの光のウィンドウが、先ほどから、全く攻撃する気配を見せない〈疾風の勇者〉の前に現れた。
『あなたもいい加減にしなさい』
よく見ると、スズネは顔を真っ赤にして、潤んだ瞳で神鬼を見つめていた。
いや、正確には、神鬼の並外れて逞しい胸や腕にうっとりしているようだった。
(そういえば、ミホから聞いた事があるわね。スズネは『筋肉まにあ』だと)
あちらの世界には、『ぼでぃびる』と言うものがあるそうだ。
重いものを持ち上げる事を繰り返し、魅せる為だけに特化した鍛錬を行うと言う、私にはよく理解できないものだった。
こちらの世界でも、騎士などにはかなり鍛えた肉体の持ち主はいるのだが、スズネに言わせると「バルクやカットが今イチ」なのだそうだ。
それを聞いた時、私は話の内容よりも、スズネが姉達とはきちんと会話している事に驚いたものだ。
ともあれ、騎馬に乗って剣を振るう為には余分な筋肉をつける訳にもいかないし、詳しくは無いのだが〈大地の勇者〉曰く「実戦的な身体には、多少の脂肪が必要」との事なので、この世界にはスズネの御眼鏡に適う男、もしくは女は滅多にいない事になる。
そこへいくと、あの神鬼は凄まじいほどの筋肉で全身を鎧っている。奇形的とする意見もあるだろうが、逆三角形の体躯は見ようによっては美しいとも言える。
そんな神鬼を見て、日頃は無表情なスズネが、顔を赤らめ、瞳を潤ませ、身をよじって太ももを摺り合わせているのだ。
私にとっては、先ほどの勇者対五本角の攻防よりも、そちらの光景の方が衝撃的だった。
レイカも何と言っていいのかわからない様子で、光のウィンドウには、しばらく空白のみが映じていた。
『……と、ともかく、あの五本角には魔法が無効化されるようです。魔法によらずして、直接的に触れる方法を試してみなさい』
ようやく、レイカからの指示が光のウィンドウに現れる。
こうした指揮に今ひとつ不慣れなせいか、表現がわかりにくいが、おそらくは、直接的な物理攻撃……拳や蹴りを指示したものだろう。
女性にしては長身の部類に属するスズネだが、あんな巨大な体躯をした神鬼に対し格闘戦を仕掛けるのは無謀な気もした。
だが、〈疾風の勇者〉は〈大地の勇者〉に次ぐ体術の達人であり、風属性魔法によって単独でも飛翔できる能力の持ち主でもある。膨大な魔力を身体強化に回す術も心得ている筈なので、体格の違いによるハンデは無いと見ていいだろう。
その指示を見たスズネは(何故か)顔を輝かせ、躊躇う事なく飛龍の上から神鬼に向けて飛び降りたのだった。
◇◆◇
なんだか、ひどく無防備なものが飛びついてきた感覚があった。
胸の辺りに頬ずりをしているようで、非常にこそばゆい。
「あなたは敵じゃ無い。あたしにはわかるの」
そんな事を、じつに可愛らしい声で言ってくる。
思わず頭を撫でてやると、嬉しそうにいっそう頬をすりつけてきた。
ほっこりした気分になると同時に、戦闘状況終了と言う思惟が浮かび上がってきた。
このまま武装を解除してもかまわないが、そうなると、胸にへばり付いている「これ」が少し邪魔だ。
少し残念な気もするが、「これ」の脇の部分を持って、そっと引きはがす。
嫌がって抵抗しているようだが、力の差は歴然としている。
あっさりと引きはがした「これ」の頭をもう一度撫でてやると、素直に大人しくなった。
「んじゃ、ポージングして。ね、ね、お願い」
期待に満ちた視線でそう言うので、雑誌などで見た通りに、ダブルバイセップスとかラット何とかの、つまりは、両腕を曲げて力こぶを造ってみせたり、腰に手を当てて広背筋を大きく左右に広げてみせたりすると、ひどく喜んでいるようだった。
しかし、別方向からは呆れたような視線が向けられているような感触もあった。
そちらの視線にいたたまれなくなり、この場から逃げ出すことにした。
今の形態では疾走に不向きとわかっているので、最も俊敏な形態に切り替える。
すると、周囲から驚愕する声が聞こえてきた。
今の形態の耳には、少しうるさすぎる音量だ。
即座にこの場から立ち去る事を決め、そして実行に移した。
◇◆◇
「それで……そのままここに帰ってきたと?」
「ええ、まぁ」
オリヴァーさんの呆れたような視線を受けつつ、俺はそう返答するしかなかった。
先日の上位猪鬼の時もそうだったが、時折に記憶が飛ぶようなのだ。
今回も鷲馬が鷲獅子へと成り上がるところまでは覚えているのだが、そこからがさっぱりで、気がついたときには郊外の森の中で寝転がっていたのだ。
周囲の、台風でも来たような有様が気にはなったものの、その時の疲労感はただごとではなかった。
ようやくの思いで、オリヴァーさんの家に辿り着き、こうして起こされるまで寝入ってしまったというわけだ。
「成り上がりの鷲獅子を見た途端、後先もわからなくなって逃げ出したって事? ちょっと見損なったかしらね」
マルタにそう言われても、一言も言い返せない。
中央市場での出来事の後。
マルタは無事だったゴットリープとの再会を喜んだはものの、中央市場のあった広場は封鎖され、当分は立ち入り禁止になったとの事である。
もちろん、もはや商談どころでは無く、負傷者を治癒する為に〈聖祈の勇者〉を初めとする〈紫の騎士団〉が出張るやら何やらで、王都の中も騒然かつ混沌とした雰囲気となり、念のための護衛として、オリヴァー母娘に家までついてきてくれたそうだ。
その御礼に今夜は夕飯を振る舞うことになったのだが、先ほどから台所で動いているのはオリヴァーさんでは無い。
俺の〈使い魔〉の中では、最強の家事能力を誇るヴァルガンである。
オリヴァーさんの料理はシャルロッテちゃんが言った通り出来不出来が顕著で、酷い時は一口食べた瞬間に卒倒しそうになるレベルだった。
味付け以前に、火が通ってなかったり、具材がまともに切れてなかったり。
言うまでも無く味そのものも凄まじいものだった。
同一人物が料理して、どうしてこうなるのか不思議でしょうがない。
シャルロッテちゃん曰く、気分と感覚で料理しているのだそうだが、それにしても落差が極端なのだ。
そんなわけで、オリヴァーさんのベストな料理の味覚データをガノンに分析記録させ、それをヴァルガンが再現すると言うのが、ここ最近のオリヴァー家における食卓事情である。
今もガノンを肩の上に乗せ、ヴァルガンは自作の踏み台に乗って、先ほどから例の短剣で具材を刻んでいる。
この双刃の短剣は、なまじの包丁よりも切れ味が良いのでヴァルガンも愛用しているのだが、さすがのオリヴァーさんもこれの由来は知らないそうだ。
ちなみに、ヴァルガンが乗っている踏み台が倒れないように押さえているのがシャルロッテちゃんの仕事だった。
とは言っても、ヴァルガンのバランス感覚は並外れているので、シャルロッテちゃんは形ばかりのお手伝いと言ったところなのだが。
ヴァルガンはその一方で、フライパンのような柄つき平鍋の火加減、つまり、ブレスもどきを放つローグに何かしらの指示をしているようだ。
俺やオリヴァーさんにはすっかりと馴染んだものだが、マルタの目には衝撃的な光景に映ったようだ。
「ええと、五本角? あー、ブレス……って、ひょっとして真龍の一種?? それがいっしょになって……料理???」
などとブツブツと呟いていたが、しばらくすると何かを諦めた表情になった。どうも、理解するのを放棄したようである。
そして、俺の話にようやく耳を傾ける気になったと言う次第だ。
鷲馬の一頭を斃した点は評価してくれたようだが、鷲獅子と対峙した以降の経緯には、なんとなく幻滅したような口ぶりになっていた。
「まぁ、そう言うな、マルタ。今は話せないが、コウイチは逃げ出したわけじゃないぞ。色々と事情があるんだ」
オリヴァーさんが取りなすように言うと、マルタも仕方が無いと肩を竦めたようだった。
「考えてみれば、鷲獅子相手じゃ、真っ向から立ち向かうのは無謀だわね。鷲馬とじゃレベルが違いすぎるもの。私だってとりあえずは身を隠すわ」
「そういう訳でもないんだが……まぁ、いずれ説明するよ」
どうやらオリヴァーさんは何かを知っているようだが、何らかの理由で、今は明かせないようだった。
マルタは、そちらは一端置く事に決めた様子で、今日の出来事を思い出すふうであった。
「それにしても、今までとは桁違いな連中のオンパレードだったわね。成り上がりの鷲獅子、神鬼と来て、それが消え失せたと思ったら……あれは、おそらく皇獣の一種だったと思うけど、あの逃げ足(?)の速度は凄まじいの一言ね。何でも〈光輝の勇者〉の遠見でさえ、捕捉できなかったと言うじゃない」
「その皇獣と言うのも、冒険者ギルドの古文書にあるのかい?」
「天馬なんかの聖獣と言われるものの、更に上位にある存在だった筈よ」
「ふむ。これはどうしても、その古文書に目を通さねばならんな」
「成り上がりの件はCクラス認定の冒険者になれば公然の秘密ってやつで情報が入手できるけど。古文書についてはねぇ。あたしにはちょっとした裏技があったけど、本来はAクラス以上に認定された冒険者にしか公開されていないものよ」
「そこを何とかして欲しい。そう言う話だっただろう」
先日の居酒屋における三つ目の取引。
つまり、冒険者ギルドが隠匿している古文書の件について、オリヴァーさんはこの場で詳細を詰める事にしたようだった。
薬師がお約束のハーレム作成に向けてウォーミングアップを始めた模様です。
えー、頂いた感想にありました通り、主人公の各形態は~フォームと呼称しております。
装備に同化する時もそうですが、〈使い魔〉が持ち込めるものには条件がありまして、そのあたりの説明はもう少し先になります。
次回の更新は3/5の1時です。