第15話 開かれた物置部屋
主人公以外の視点の後、主人公の視点になります。
新たに召喚した飛龍の引き渡しなどで、王都の外にある飛龍騎士団の砦まで出かけなければならなかったのは、バルテルの性格を考えれば当然の話だったかもしれない。
財務卿の薫陶を受けた文官達相手の杓子定規な手続きは、バルテルとは最悪の相性と言うべきだろう。
とは言え、十日もかかるとは全くの想定外である。
書類の不備がひとつ見つかる度に突き返し、最初から書き直す事を要求する文官の態度には、召喚した飛龍をけしかえてやろうかと思ったほどだ。
本来は手続きを円滑に進める事が、彼らの役割である筈だ。
収支の一致や計画に拘泥する財務卿が、それでも一目置かれるのは、彼自身が数字に関して飛び抜けて優秀だからだ。
だが、何か勘違いをしている輩が多いのは困ったものだ。
「こんなことなら、隷属の印なんか刻まないで、さっさと還してしまうべきだったわ」
憤懣やるかたない気分で、そうぼやきながら宮殿に戻った私は、ある事実を知って愕然とした。あの八人目の若者付きとなっていた筈のセリアが、大部屋担当に移されていたのだ。
いや、そこまではいい。
問題は、セリアの後任が決まっていないことだった。
それどころか、大部屋担当への移動を突然に言い渡されたセリアが、引き継ぎの諸々を記した筈の文書が、未処理のままで放置されてしまっていたのだ。
〈禍神の使徒〉との戦いへ向けての演習と位置づけられた、小鬼討伐軍の準備が最優先とされた事情はわかるが、結果として、外から鍵をかけたままで捨て置くなど言語道断である。あのコウイチと言う若者は、食事も水すらも与えられない状態で、十日間も監禁されたと言うことになるのだから。
初めて詳細な事情を知ったらしい侍女長は蒼白になった。
言い訳を繰り返す侍女長を引き連れて、私はコウイチに割り当てられた部屋へと急いだ。
その区域は、日頃使わない品をしまっておく物置のような部屋ばかりがある場所だった。特に、コウイチの部屋は奥まった場所にある。
おそらく、大声で助けを呼んでも、その叫びが聞こえる範囲に人が通ることは無かっただろう。いかに予定外で急遽だったとは言え、もう少しマシな場所は用意できなかったものか。
侍女長と共にコウイチの部屋まで辿り着いた私は、しばらく躊躇った。
扉をそっと叩き、彼の名を呼んでみるが、まったく応えが無いのは当然と言うべきか。
震える手で侍女長から鍵を受け取り、扉の錠を開ける。
鍵穴が何かで濡れているようだったが、そんな細かい事を気にしている状況では無い。これから見るであろう光景を予想して、逃げ出したくなる気持ちをぐっとこらえる。
彼をこの世界に召喚したのは私である。
見知らぬ世界へ突然に召喚された挙げ句、十日の間、水も食料も無しに捨て置かれたのだ。飢えと絶望の中で無残な最後を迎えたであろう若者の運命を、この眼で見届ける義務を放り出すわけにはいかない。
不意に、後ろから騒々しい音が聞こえて来た。
振り向くと、事情を伝えられたと思しき娘達――この若者の縁者でもある三人の〈勇者〉が配下の主立った騎士達を引き連れて、こちらに来るところだった。
「エレオノーラさん」
先頭に立った〈光輝の勇者〉が話しかけてきた。
冷静な態度しか見せなかった娘が、さすがに強張った表情になっており、その声には非難の色があった。
「事情の説明と、その……お詫びは後で。まずは、状況の確認を」
私がそう言うと、〈光輝の勇者〉は唇を噛みしめたようだったが、ゆっくりとうなずいた。
深呼吸をひとつすると、私は思いきって扉を開けた。そして、中の様子を見るなり、驚愕のあまり、数歩後ずさってしまった。
その部屋の中で、八人目の降臨者であるコウイチの体は寝具に横たわっていた。
少し堅苦しい印象のあった若者だが、眼鏡を外した寝顔は意外にも幼く見える。
水も食料も無しに十日間も監禁状態にあったとは思えぬほど血色が良く、幸せそうな表情で軽いイビキをかいている。
彼が無事に生きていることに驚き、安堵しなかったわけではないが、私の関心をそれ以上に引いたものは別にあった。
コウイチが横たわっている寝具に敷かれているのは、これは金尾狐の毛皮に間違い無い。
金尾狐は、その極端なまでに用心深い性質と恐ろしいまでの俊敏性から、一流の狩人でも仕留めることはもちろんの事、見つける事さえ難しいとされている獣である。
弾力性に富んだ長い毛足と濃淡のある金色が特徴的なその毛皮は、希少性も相まって極めて高額な値で取引されているのだ。その貴重かつ高額な毛皮に、コウイチの口元から垂れている涎がかかっている光景は噴飯物ですらある。
それも寝具だけでは無い。むき出しの石畳だった筈の床に、絨毯のように敷かれているうちの数枚は、その貴重な毛皮だった。
そう、床に敷かれているのはそれだけでは無かったのだ。あの黒い艶やかな毛皮は黒曜貂のものであろうし、向こうにある浅黄色のそれは矢車鹿だろう。
どれもが入手困難かつ貴重にして高額な毛皮である。まかり間違っても敷物などに使うものでは無い。
その非常識とも言える敷物の上に、蔦で編まれたと思しき座椅子と卓があった。
編み方が独特だが、使われている蔦の、その色違いの組み合わせによって、非常に美しい紋様を形成している。これだけで、ひとつの芸術品とも言えるだろうし、これを購う為なら金に糸目をつけぬ貴族や王族は少なくない筈だ。
だが、私の興味を引いたのはもう一つの方だった。
座椅子や卓と同様、蔦で編んだ籠に盛られた「それ」に、私は思わず生唾を飲みこんだ。
(こ、この、特有の芳香。クロルの実に間違いはないわ)
クロルの実と呼ばれるそれの実態は、犬の鼻も効かぬほどの地中深くに生育する茸の一種だ。
生育する場所が場所なので、何かの拍子に偶々掘り当てたとか、もしくは、地崩れした中に紛れていたなどと言う機会でしか入手できないシロモノである。
もはや高級食材などと言うレベルでは無く、一種の希少薬、霊薬と言う扱いにもなっている。
魔力の回復、増大を初めとして、その効能は幾つも挙げられるが、珍重される最大の理由は、女性が摂取した場合に特に顕著に現れる、極めて絶大な美容効果である。
肌が十代以上は若返るともなれば、女なら是が非でも入手したい品だ。
このクロルの実を食べ続けた古代のある女王は、六十を過ぎても未だ少女のような外形を保っていたと伝えられる。
さすがに、現在では、これを食べ続けるなど夢物語でしかない。せいぜい粉末にしたものが微量でも手に入るかどうかと言うところだ。そうした幸運に恵まれた女性が見違えるほどに若々しくなった事例は、あちらこちらで見聞される。
その、金を出しても買えない貴重品が、なんとてんこ盛りになっているのだ。
私や侍女長の目の色が変わったとしても、これは責められぬ話であるに違い無い。
理性を失いそうになった自分を抑える為、ともすれば釘付けになりそうな視線を無理矢理に壁の方にそらすと、またしても、そこで目が離せなくなった。
むき出しの煉瓦だった筈の壁は、艶やかな白い壁掛けで覆われていた。
(これって……斑土蜘蛛の糸!? ええ、この信じられないほどの光沢は、以前に宝物庫でみたものと同じだわ)
この糸は剣でも切れず、その上、対魔法効果を持つ。従って、これを繰り出してくる斑土蜘蛛はかなり手強い部類に属する魔物でもある。
仕留めるには、攻め側がとにかく手数を出すしか無いが、その結果として後に残るのは、素材として利用できない、粘着液と混じった糸だけと言う話になる。一撃で急所を仕留めた場合のみ、その体内の器官から粘着液と混じる前の、純粋な糸の原液を入手できるのだ。
この辺りは冒険者ギルドの指南書に記されている話だが、実行するのは至難の業だと、知人である冒険者が言っていたのを思い出した。
「ぼくでも少し厳しいかな。それに、原液を糸として仕上げるには相当に熟練する必要があるんだけど……ほら、素材自体が滅多に入手できないでしょ? 一流の熟練工を豊富に揃えている職人ギルドにだって、そこまでの技量の持ち主はいないんじゃないかな。だから、斑土蜘蛛の糸で織られた品って、話にはよくあるけど、現存する実物はほとんど無いと思うよ」
と、この大陸で数人しかいない、Sクラス認定を受けた超一流の冒険者は語ったものだ。
つまり、この壁掛けは極めて貴重な品と言う事になる。
そして、私の視線を捉えて放さないのはそれだけではない。
私はこの編み込まれた紋様の美しさに魅入られてしまったのだ。
先ほどの椅子や卓の蔓草編みと一脈通じる、明らかに魔道的な要素を含んだ意匠だが、斑土蜘蛛の糸を材料とするこれは、繊細さと華麗さが桁違いだ。
材質の著しい希少性、および、物理的攻撃を防ぎ対魔法に優れている実用面のみならず、芸術性も極めて秀逸な品となれば、その価値を問うことすら愚かしいと言えた。
いつまでも見ていたかったが、そんな場合では無い事を思い出し、私は我にかえった。
同時に、ひとつ気がついた事がある。
〈光輝の勇者〉がわざわざここまで足を運んだ理由だ。
光を操る彼女の能力であれば、私が扉を開けるまでもなく、室内の光景を映す事は可能な筈だ。しかし、彼女はそうしなかった。
いや、しなかったのではなく、〈光輝の勇者〉と言えども、この壁掛けのもたらす対魔法効果を打ち破る事ができなかったのだろう。
これは素材の性質だけでは無く、この美しく編み込まれた紋様の影響に違い無かった。
(つまり、〈勇者〉の力をも凌駕…………って、伝説級の神具並みじゃないの)
驚く事にもくたびれ果てた私は、なかばうんざりした気分で、事情の説明を求めて侍女長の方を見た。
その侍女長も、ひどく疲れた表情をしていた。
「あの……この部屋に運び込んだのは、寝具を含めた簡易宿泊の品一式だけでした。ええ、私が立ち会いましたので、間違いありません」
侍女長は、私のもの問いたげな視線に答えるべく、気力を振り絞った様子で、それだけを口にした。
嘘を言っているようにも見えないし、そもそも八人目と言うのは急遽な話であったから、彼女が言うのは事実には違いないだろう。
つまり、この部屋は、本来は固い寝具と、用を足す魔法具程度しか無い、極めて殺風景な部屋であった筈なのだ。
それなのに、どうして王国の宝物庫も顔負けの品々で溢れかえる事になったのだろうか。
これは、どうあっても、部屋の使用者に問いたださねばならない。
そう思って、幸せそうに眠っているコウイチの眼を覚まさせるべく、一歩踏み出そうとしたところで〈光輝の勇者〉が割り込んできた。
「エレオノーラさん、どうか落ち着いて下さい」
冷静な声で言われ、一気に頭が冷えた。
とてもそうは見えないのだが…………目の前で呑気そうに眠っている若者は、確かに十日間も監禁状態にあった筈なのだ。
私は、そんな彼を、縁者たる彼女達の目の前で、あやうく乱暴に叩き起こすところだったようだ。色々と混乱する状況だったとは言え、どうにも冷静さを欠いていたかもしれない。
私が引き下がったのを見て取るや、〈光輝の勇者〉が進みでようとしたが、それを制したのは〈聖祈の勇者〉だった。
「必要無さそうだけど。一応、治癒魔法の使えるあたしの方が……」
「そうですね。ええ、美穂にお願いしましょう」
〈聖祈の勇者〉がコウイチのそばに屈み込む。
そのような姿勢になると、大きな胸がコウイチの顔すれすれになる。
この瞬間に、彼が眼を開いたら、どんな反応を見せるだろうか、などと言う事を考えてしまったのは、やはり、疲れている証拠なのだろう。
◇◆◇
誰かが起こしに来たようだが、明け方まで起きていたので眠くてしょうが無い。
思わず払いのけようとした手が、なにか柔らかいものに当たった。
「ひゃん」
可愛らしい悲鳴が聞こえたような気がする。
だが、あまりにも幸せなその感触に、抱き枕にしたらもっと良い心地だろうな、と夢うつつの状態で、ぐいと引き寄せて顔を埋めてみた。
「え、ちょっと……あん」
思った通り、実に幸せな気分だ。
俺は、いい匂いがする、その暖かい弾力を堪能した。
しかし、一方では、金切り声にも似た警戒警報が体の中で鳴っているような気もした。
このまま寝入ってしまいたいと言う願望と、早く目覚めなければと言う強い危機感がせめぎ合う。
麗香や鈴音、そしてエレオノーラさんの面前で、美穂の爆乳に顔を埋めていると言う、自分のとんでもない状況を俺が把握したのは、それから数秒の後であった。
針の筵、もしくはいたたまれない状況とは、まさにこのことか。
俺は蔦で編まれた座椅子の上に正座して、麗香達の冷ややかな、そして微量に呆れの成分を含んだ視線を浴びていた。
ちなみに、なにゆえ座椅子かと言うと、上質の毛皮が敷かれている床の上では、正座の意味が無いからだったりする。
「十日間も監禁状態にあった割には、お元気のようで安心しました」
麗香が優しい声音でそう言ってくる。
この義妹から、こういうふうに言われたのは初めてだったかもしれない。
しかし、銀縁眼鏡の奥の半眼から放たれ、容赦なく俺に突き刺さる視線は、物理的な痛覚を伴っているようだった。つか、視線が痛いっす、マジで。
「まぁまぁ、麗香ちゃん。光一さんも寝ぼけていて悪気はなかったんだし」
当人である美穂が取りなすように言ってくれる。
気のせいか、出会った当初に感じていたバリアのような雰囲気は無くなっているようにも見受けられた。
うん、さすがは〈聖祈の勇者〉だ。
お兄さんは充分癒やされましたですよ……って、違うだろ、俺。
寝ぼけていたとは言え、義妹の豊満な胸に、赤ん坊のように顔を埋めるとは。それも、他の義妹達の目の前で。
兄の威厳も面目もあったものでは無い。いや、元から微塵も無いと指摘されればそれまでなのだが。
そして、麗香は実の妹に不埒な行いをした男を、たとえ、それが義理の兄であろうとも、簡単に許すつもりは無いようだった。
三姉妹の長女が、なおも何事かを言い募ろうと形の良い唇を開いた時の事である。
「麗香ちゃんの寝起きよりマシだと思うの」
と言う声が、麗香からの叱責を覚悟していた俺の耳朶を打った。
「え?」
俺はきょとんとしてしまった。
初めて聞く声だ。
麗香とも美穂とも違う、アニメ声とでも言うのか、実に可愛らしい声だった。
エレオノーラさんでも、先ほど簡単に紹介された侍女長のおばさんでも無い、とすると。
「す、鈴音!? あ、あなた、バラすつもりじゃ……」
麗香が顔を真っ赤にして、明後日の方向を見ながら口元を押さえている末妹にくってかかった。
こんな麗香も初めて見るな。
そうした振る舞いの彼女は、さすがに年相応の少女だと思う。
しかし、そうすると、今の声は鈴音か?
表情の乏しい彼女が、こんな可愛い声の持ち主だったとは。
「ん? でも、麗香の寝起きよりマシって……」
先ほど聞いた言葉を、俺が思わず繰り返すと、麗香が凄い眼で睨んできた。
「今のは忘れて下さい。良いですね!」
「はい」
即座に、ブンブンと首を縦に振った俺だった。