偽装の盟約
深夜の王都アイギスは、凍てつくような静寂に支配されていた。
石造りの王宮は、夜の帳が下りると同時に、生きた巨大な墓標へと姿を変える。廊下の隅々にまで影が潜み、わずかな物音さえもが冷徹に記録されているかのような錯覚を覚える。
この場所において、夜の帳は安らぎではない。むしろ、昼間には見えなかった「目」が動き出す時間だ。ポロック侯爵が放った密偵、あるいは父王ユヌベクスが飼っている影の者たちが、闇に紛れて王宮のあらゆる脈動を監視している。大臣、侍従、近衛兵――そして、唯一の王子であるレオナールとて、その例外ではない。
執務室の窓から差し込む月光は、机の上に積み上げられた膨大な書類の山を、白々と照らし出していた。レオナールは、最後の一枚に署名を終えると、重い羽ペンを置いた。凝り固まった首をゆっくりと回すと、関節が微かな音を立てる。
指先には、黒いインクの汚れが深く染み付いていた。石鹸で洗っても落ちないその汚れは、彼が日々積み上げている、自らの手を汚すような策謀の証のようにも見えた。
レオナールは静かに椅子を立ち、手元の明かりを吹き消した。
部屋が闇に沈むのを待ち、瞳を慣らす。彼は扉の向こう側、廊下を行き交う近衛兵の靴音を数えた。交代の合間、わずかな空白の十数秒。彼は音もなく扉を開け、廊下の影へと滑り込んだ。
アイギスの王宮には、表向きの華やかな廊下とは別に、かつての内乱や暗殺の歴史が作り上げた隠し通路や、給仕のみが使う無骨な裏階段が網の目のように張り巡らされている。レオナールはそれらを完全に把握していた。
あえて護衛を連れず、一人の影となって下層階へと向かう。監視の網を潜り抜けるのは、死と隣り合わせの遊戯だ。もし、ここで父の飼い犬に見つかれば、「深夜の不審な行動」として即座に詰問され、これまでの努力は水泡に帰すだろう。
向かう先は、王宮の最下層に近い大厨房だ。
日中の、怒号と煙に包まれた喧騒が嘘のように、深夜の厨房は冷え切った竈の匂いと、微かな香辛料の残り香に満ちていた。
「……誰だ」
暗闇の中から、怯えを押し殺した、だが芯の強い少女の声が響いた。
レオナールは足を止め、月明かりが細く差し込む場所まで進み出る。
そこには、粗末なエプロンを身に纏い、必死に包丁を握りしめた一人の少女が立っていた。西方の有力領主、カステル家の長女セシリアだ。かつては豪奢なドレスを纏っていたはずの彼女の指先は、慣れない水仕事と寒さで赤くひび割れていた。
「私だ、セシリア。騒ぐな」
レオナールの声を聞いた瞬間、彼女の肩からわずかに力が抜けた。だが、ナイフを握る手は緩まず、その瞳に宿る敵意が消えることもなかった。
「……殿下。こんな時間に、人質の様子を見に来られたのですか? それとも、明日の毒味に不備がないか確認に?」
彼女の言葉には、ナイフよりも鋭い棘があった。無理もない。レオナールは彼女の父を公衆の面前で「寄生虫」と罵倒し、徴税権を強奪し、彼女を無理やり王都へ連行してきた張本人なのだ。
「毒味なら、自分でする。……父上への手紙は、書けたか」
レオナールが懐から一通の封筒を取り出すと、セシリアの表情が強張った。
それはレオナールが用意した、検閲済みの「王子の慈悲を説く偽りの近況報告」ではない。その裏側に、特定の薬液に浸した時だけ浮かび上がるレオナールの真意が書き込まれた、真の密書だ。
「……どうして、私にこんなことをさせるのです。父を、カステル家を壊したのは貴方なのに。アイギスの獅子として、誇り高く民を従えていた父から、すべてを奪った貴方を信じろと言うのですか」
セシリアは震える手で封筒を受け取った。彼女は、レオナールが父王の前で見せた、あの冷酷な、血の通っていない人形のような顔を知っている。だが同時に、この数週間、誰も見ていないところで彼女の食事を改善し、過酷な労働から彼女を密かに守り、時にこうして危険を冒して会いに来るレオナールの二面性に混乱していた。
「壊したのではない。……隠したのだ」
レオナールは、火の消えた巨大な竈の縁に手を置いた。冷たい石の感触が、彼の神経を研ぎ澄ませる。
「今のままでは、カステル家はポロック侯爵の私兵に飲み込まれ、一族郎党、路頭に迷うことになっていた。私が徴税権を『奪い』、王宮の直轄としたことで、少なくとも法の上ではポロックの手出しは封じられる。……父上に伝えろ。今は牙を隠し、時を待てと。王の座がどれほど高くとも、その土台を支える石は、今も君たち領主だ」
セシリアは息を呑んだ。
レオナールがしていることは、単なる人質の管理ではない。王都の苛烈な法を利用して、地方貴族の力を「解体」という名のカモフラージュで「保存」しているのだ。いずれ来る「その時」――アイギスの偽りの秩序を壊し、メルクニアを呼び戻す瞬間のために、王家の目から隠して、彼らの実力を温存させている。
「殿下、貴方は……何をしようとしているのですか。陛下も、ポロック侯も、そして王国全土が貴方を『冷血な後継者』だと蔑んでいるのに。これが見つかれば、貴方の命は……」
「信じさせる必要はない。私は一人で十分だ。……求めているのは、信頼ではなく結果だ」
レオナールの瞳に、月光よりも冷徹な、だが揺るぎない覚悟が宿った。
彼は知っている。この工作が明るみに出れば、その瞬間に自分の首はアイギスの正門に晒されるだろう。セシリアも、彼女の父も、連座して処刑される。これは、互いの命を秤にかけた、最悪で、最高に純粋な共謀だった。
「手紙は、明朝の食糧搬入便に紛れ込ませる。……セシリア、お前はこれからも、衆人環視の中では私を憎み続けろ。王宮の壁にまで耳があると思え。この厨房のネズミ一匹さえも、父上の密偵だと思え」
「……承知いたしました。殿下」
セシリアは深く頭を下げた。その瞳からは、先ほどまでの刺々しさが消え、代わりに底知れぬ沈黙が宿っていた。それは、かつて騎士たちが誓いを立てる時の眼差しに似ていた。
大厨房を後にしたレオナールは、再び冷たい廊下を執務室へと戻る。
ふと、北側の窓から夜空を仰いだ。遠く、山脈の向こうにはアルザスの荒野が広がっているはずだ。
アイギスの王宮がどれほど巨大で強固であろうとも、その基礎は少しずつ、彼の手によって組み替えられ、脆くなっている。王が「完璧な支配」だと信じているものの実態は、レオナールの手によって、いつ崩れてもおかしくない砂の城へと変貌しつつあった。
(マリス、見ていてくれ。僕の心はもう、君たちが知っているレオナールではないかもしれない。……それでいい)
友のために、王国を一度死なせる。その「大罪」を背負うのは、自分一人でいい。
レオナールは再び椅子に座り、まだ乾ききらないインクの染みを見つめた。
静かなる崩壊の序曲。その不穏な旋律は、誰にも気づかれぬまま、アイギスの夜を深く侵食していた。




