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メルクニア戦記  作者: 風花
第六章
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静謐なる崩壊の序曲

 王都アイギスの朝は、血を連想させる重苦しい冬の陽光で幕を開ける。

 石造りの長い廊下を渡るのは、冷徹な事務官の衣擦れと、レオナールの抑えられた靴音だけだった。かつてこの王宮を揺らしていたはずの、勇壮な将兵たちの鬨の声はもう聞こえない。窓から差し込む光は、磨き上げられた床に細長く伸び、まるでレオナールの行く手を阻む檻の格子のようだった。

 執務室の重い扉が、音もなく開く。

 そこには、王国のすべてを支配する絶対的な沈黙があった。


「……以上が、西方の領主三名に対する、徴税権一部剥奪の通達案です」

 レオナールの声は、感情を排した石のように硬かった。差し出された羊皮紙には、代々にわたって王家に忠誠を誓ってきた功臣たちの力を、法という名のナイフで削ぎ落とす非情な文言が並んでいる。インクの黒が、紙の上で冷徹な宣告となって固まっていた。

 父王ユヌベクスは、提出された書類を手に取ることもせず、ただ射抜くような視線を息子に注いでいた。その目は「息子」を見ているのではない。自分の座を狙う「敵」か、あるいは自分と同じ「冷血な統治者」になり得る「素材」かを選別している、飢えた獣の目だ。

 その傍らには、ポロック侯爵が影のように控えている。彼は、獲物の喉笛を狙う機会を伺うかのように、細めた瞳でレオナールの一挙手一投足を値踏みしていた。


「レオナール。この三家は、先代の折、王家の窮地を救った功臣だ」

 ユヌベクスが、ゆっくりと、喉の奥から絞り出すような低音で口を開いた。

「それを、このたった数行の法規で切り捨てるというのか。……お前に、人の心というものは無いのか?」

 試すような問い。その言葉の裏には、レオナールがわずかでも迷いや「正義」を見せれば、即座にそれを「弱さ」として断じるための罠が仕掛けられていた。

 レオナールは微動だにせず、真っ直ぐに父を見返した。視線を逸らせば、そこから疑念が入り込むことを彼は知っていた。

「功臣であろうとも、王家の財政を圧迫する存在であるならば、それはもはや寄生虫と同じです。慈悲は、国を滅ぼします」

 レオナールの言葉に、ポロック侯爵が小さく眉を動かした。

「殿下、慈悲が国を滅ぼす、ですか。実に徹底されたお考えだ。しかし、切り捨てられた側が抱く恨みは、いつか王座を焼く火種になりかねませんぞ」

「恨む時間さえ与えぬほどに、生活の基盤を奪えば済む話です、侯爵。彼らには、剣を握る前に、明日のパンの心配をしてもらう。それが統治の第一歩ではありませんか」

 ユヌベクスが、わずかに口角を上げた。だが、その瞳に温度はない。

「言い切ったな。……だが、ポロック侯の話では、お前はこの通達案をまとめる際、対象となる領主の娘を王都の厨房係として雇い入れたそうではないか。あれは、何だ。独断での『温情』か?」


 空気が、一瞬で物理的な重みを帯びて凍りつく。レオナールの背筋を、薄氷のような冷たい汗が伝った。

(……見られていたか)

 ポロックの網は、案外に深く、執拗だった。だが、ここで動揺すればすべてが終わる。レオナールは瞬き一つせず、即座に答える。

「温情などではありません。……彼女の父がもし反旗を翻せば、その首を迷わず撥ねるための『じち』です。厨房ならば、常に毒の脅威に晒されている。娘の命を王都の匙一つに握らせておくことが、最も安上がりな抑止力になると判断いたしました」

「…………」

 ユヌベクスは応えなかった。ただ、底の知れない暗い眼差しをレオナールに向けたまま、音もなく執務机を引き出し、重厚な印章を手に取った。

 レオナールの瞳から、わずかな綻びも、嘘の震えも逃さないという沈黙。執務室の暖炉で爆ぜる薪の音さえ、今のレオナールには断頭台へ向かう足音のように聞こえた。ポロックの口元に浮かぶ嘲笑混じりの静観が、いっそうレオナールの孤独を際立たせる。

 やがて、ユヌベクスは不機嫌そうに鼻を鳴らすと、手にした印章をレオナールの瞳を凝視したまま振り下ろした。

 ガチャン、と重い金属音が静寂を切り裂き、羊皮紙の上に王家の印章が叩きつけられた。

 それは承認の証ではなく、レオナールがこれからも「父の影」の中で、いつでも切り捨てられる駒として綱渡りを続けなければならないという、死刑判決の保留に近かった。ユヌベクスは一言も発することなく、顎で退出を促した。その沈黙こそが、どんな脅し文句よりも重く、レオナールの首筋を冷え冷えと撫でた。


 執務室を辞し、人気のない廊下に出た瞬間、レオナールの肩から力が抜けた。

 冷たい石壁に手をつき、肺に残った不快な空気を吐き出す。心臓の鼓動が、ようやく耳元で激しく打ち鳴らされ始めた。

(……済まない。厨房に雇い入れた彼女は、実際には父に知られず功臣たちと渡りをつけるための、唯一の糸口だ。だが、今は冷酷な人質だと思われていい)

 レオナールは震える指先で、懐の奥に忍ばせた小さな木札に触れた。マリスがアルザスから、命がけで送り届けてきた一族の生存の証。

 レオナールは知っている。今の自分は、アイギスという巨大な監獄の中で、父の望む「怪物」を演じている。しかし、その醜い仮面の下で、彼は王宮の監視を掻い潜り、絶望に沈む地方貴族たちに密かな火を灯し続けていた。

 外様貴族を段階的に解体し、王都の秩序を完璧に整える。その「完璧さ」こそが、いつか一気に崩壊させるための隙となる。

 もし、将来マリスたちがアイギスの門を叩く時が来れば、今日切り捨てたはずの「寄生虫」たちが、王の背中を突く最強の伏兵となるだろう。

「待っていろ、マリス」

 レオナールは誰にも聞こえない声で呟いた。

 霧の向こう側、北方アルザスを睨むレオナールの瞳には、父親にさえ見せぬ、激しい憎悪と、そして決して消えることのない誓いの火が宿っていた。

 彼の戦いは、まだ始まったばかりだ。一人きりの、孤独で、血の流れない戦場。

 それはかつて彼らが馬を駆けた戦場よりも、遥かに冷たく、遥かに過酷な場所だった。

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